べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「高牟神社」(再/名古屋市千種区)

10/13。

何となく名古屋市内を巡っていなかったので、行ってみました「高牟神社」

 

◯こちら===>>>

「高牟神社」 - べにーのGinger Booker Club

「物部神社」(補・「高牟神社」) - べにーのGinger Booker Club



↑以前の記事です。
まあ、再訪なので(記事にしていないだけで何度か参拝しております)……最近は、狛犬さんハンターとなってきておりますので、そこら辺りを中心に。

 

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ということで、引用なぞを(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

まずは、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『尾張名所図会』から。

274コマです。

 

「高牟神社 古井村にあり。成務天皇の御宇の鎮座なり。[延喜式]に高牟神社、[本国帳]に従三位高牟天神とあるは此社にて、俗に古井八幡と稱す。
本社 祭神 高産霊尊。 清和天皇の勅によりて、応神天皇を合祭れり。毎年正月元日寅の刻より辰の刻まで開扉あり。御正体は船に乗り給へる神像なり。故に船出八幡とも稱す。寛永十一年、山下大和氏勝修復を加えらり。
例祭 九月十五日。相撲あり。
神宝 弁慶が書写せしといひ伝へたる大般若経五十巻あり。」

 

……ううむ、わりと情報が多い……『延喜式』に名前が載っているくらいですから、古い神社なのですが、江戸時代まで続いていたかどうかの確認は難しいですね。
清和天皇」の勅命で「応神天皇」を合祀……意味ありげ、に見えてそんなに意味はないのか。
おっと、神社もご開帳的なイベントを行なうことがあったのですね、徳川時代には……「応神天皇」に「海上交通」のご利益……もう「八幡大菩薩」になってからは軍神なんですけれど、「神功皇后」と「住吉三神」の影響があるということかな……。
相撲、とあえて書かれているのは、相撲が有名だったから、なんでしょうね(珍しくはなさそうですが……むしろ、ポピュラーな見世物だったから、観光案内的には「ありまっせ」と書いたのかな……)。

 

 ◯こちら===>>>

名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『名古屋市史』も見ておきましょうか。
175コマです。

 

「二 高牟神社
高牟神社は愛知郡千種町字古井(もと愛知郡古井村、古井古くは小井に作る)に在り、(略)、古くは八幡宮と號し、俗に古井の八幡と稱す、延喜式神名帳愛知郡の部に高牟神社あり、小社なり、国内神名帳に、従三位高牟久天神、参考本国帳に「従三位高牟神社、天神、一本作正四位下高牟久(古井村号八幡)」尾張国式社座地目録に「高牟田神社(鳴海庄古井村)」とあり、尾張国式社考に社号を考証して、「高は古の仮字、牟は韋宇の上の■を脱せるものにて、決て古韋とありけんなるべく、其を此地にて古井と作るは後の転なり」とし、明治随筆には「高牟は高御魂の略歟」とせり、(本社を延喜式の高牟神社に充つることは、諸書概ね一致する所なれど、尾張国地名考には之を誤なりとし、御器所八幡宮是歟と云へり)、成務天皇の御代の鎮座にして、清和天皇の御宇造営の時、勑して応神天皇を配祀せしめらるといふ、嘉吉元年、寛正二年十一月、天文元年九月、永禄八年五月、慶長八年十一月等に改造あり、寛永十一年正月、山下大和守氏勝修理を加へ、天和三年九月、藩主光義(略)修覆せられし以来、城南の鎮護として崇敬せられ、絶えず修造料を賜はる、(略)、明治初年式内に治定し、五年五月郷社に列せらる、祭神は高皇産霊神神皇産霊神応神天皇の三柱なり。

張州府志、尾張志、金鱗九十九之塵には神皇産霊神なし、尾張神名帳集説、参考本国神名帳集説、塵點録には、按姓氏録曰、高向朝臣武内宿禰六世孫、猪子臣之後也云々、私曰く、武内宿禰仕応神帝、有勲功、故石清水祭之、号上高良、称八幡者、有其故乎」といへり、今社伝に、古来の神職小島家は武内宿禰六世の孫猪子臣の後裔なりといへば、蓋応神天皇の配祀は往古よりなるべし、今神体の高皇産霊神土偶立像、神皇産霊神は同坐像、(此二体は初め宮中に奉祀せられしを、成務天皇の時此社に遷されしものといふ)、応神天皇は束帯乗船の香木坐像にして、御自作と伝ふるものなり。

(略)境内社神明社(略)、金刀比羅社(略)、白山社(略)、稲荷社(略)の四所あり、此外にもと薬師堂ありて同村(略)善久寺(曹洞宗)の持なりしが、維新の際之をハ廃し、本尊の木造薬師如来座像は今之を善久寺の観音堂内に安置す、例祭は十月十四日、(略)十五日氏子大祭にて、大提灯一張を點す(徳川時代には、九月十五日相撲ありき)、古来正月元旦未明(もとは寅の刻より辰の刻まで)に開扉して応神天皇の御霊璽を氏子一般に参拝せしむ(略)、

伝説に弁慶、本社の東の光正院(曹洞宗)に寓し、本社に祈願する所あり、大般若経五十巻を書写して、本社に納め、又松七本、フクラシバの樹を植えたりと、今其写経は消失して、残片をも留めず、フクラシバは枯死し、只弁慶手植の松と称する大木四本のみを存す(略)
境内に古井あり、もと礦泉にして、奇効ありき、これ古井村の名の起源なりといふ、尾張国地名考には此説を排して、古は仮字なり、正字小井村なり、(略)溜池あるより呼初たる地名なり、井は堀井をいふにあらず、田井とて水の溜池の事なり」といへり、
明治随筆に、「祠官の家に伝ふる社記云、元玄海村白山山に坐せしを、慶長築城の時、今の地に移す」と見ゆ、真偽詳ならざれど、姑く一説として茲に掲ぐ」

 

もっと情報多かったな……あちこち端折っています。
社名の「高牟(たかむ)」が何に由来するのか、という考察がいくつか載っていますね……よくわかりませんが。
近くには「物部神社」があるのですが、この「高牟神社」「物部神社」のセットが、「愛智郡」だけでなく、「春日部郡」にもあったのです。
正直よくわかりません……「高座結御子神社」というのが、名古屋にはありまして、「熱田神宮」の摂社なんですが……

 

◯こちら===>>>

「高座結御子神社」 - べにーのGinger Booker Club

補遺「高座結御子神社」 - べにーのGinger Booker Club


さて、何か関係があるのかないのか……物部系の神話の名残のようには思います。
また、本当かどうかともかく、名古屋市教育委員会の案内板にあるように、物部氏の武器庫が「高牟神社」となった、というのであれば、もうそれは「石上神宮」のミニチュア版……あるいは、「石上神宮」があったので、「物部氏」系の集落には武器庫としての「倉」が備わっていたと……この辺りは『日本書紀』の「石上神宮」関連の記事を読んでいただければよろしいかと。

 

◯こちら===>>>

「石上神宮」(補々々々々々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りで紹介しています。
「たかむ」は「たかみくら」の転、くらいでいいのではないかな、と思います。
御祭神的には「高倉下命」だったんじゃないかな……そこに何故「応神天皇」を持ってきたのかはわかりませんが……まあ、そうなっちゃったのであれば、しかたがないかと。
「弁慶」書写の「大般若経」は、徳川時代にはあったのに、昭和初期にはもうなくなっていたのか……。

 

ちょっと雑な感じになりましたが、こんな妄想で終わりたいと思います〜。

「静岡浅間神社」(補)+ おまけ「千勝浅間神社」

さて。

まずは『東海道名所図会』から。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 


310ページです。

 

「浅間社
賤機山の麓にあり。当府内生土神となす。例祭四月初申日、十一月同日。
(略)
祭神 木花開耶姫命 左瓊々杵尊 右万機姫命。
惣社 社内にあり。祭神大己貴命。
奈吾屋祠 本社の側にあり。祭神大山祇命。
(略)
貝原益軒『吾嬬路記』にいわく、当社は富士浅間の新宮なり。延喜年中、富士の本宮をここに勧請す。本社二所北にありて卯に向かう。摂社南に立ちて巳に向う。山の宮石壇百四級あり。同所南の山に穴あり。そこしらずという。
当社の宮づくり、美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なること、日光を第一とし、浅間を第二とすという。社宮は新宮左近、惣社宮内とて両人ありと書けり。」

 

うむ……『東海道名所図会』は、『尾張名所図会』と違って結構淡白なのが玉に瑕……延喜年間に勧請されて、「日光東照宮」に比肩する社殿だと語られており、なおかつ駿府ですから、幕府に目をつけられるようなことは書けないわけで……「浅間神社」のことを妄想しようと思えば富士に行くほかないのです。

 

「山の宮石壇百四級あり。同所南の山に穴あり。そこしらずという。」

 

麓山神社」までの様子や、おそらく古墳のことなのかと思いますが、江戸後期、今とそれほど変わらない感じもあります。
ところで、「奈吾屋祠」って、なんでそう呼ばれていたんでしょう……結構古くからの呼称なのかな……。
不勉強すぎるので、あまり突っ込まず行きたいと思います。
で、式内社比定ということですので、

 

◯こちら===>>>

神社覈録. 上編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『神社覈録』から。
448コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

神部神社
(略)◯祭神 大己貴命、相殿栲幡千々姫命、瓊々杵尊(志)、又云天照太神風土記)、◯府中志都機山麓惣社相殿に在す、(略)◯惣国風土記五十五残缼云薦河安弁郡神部神社、則日本武尊、所祭太神宮也、(以下虫食)、駿河國志云、賤機山惣社本社、相殿の神二座、類聚国史に、止豆鰭大己貴神社、又延喜式に当国安倍郡神部神社と申奉るは、則総社の御事也、本社は大己貴の大神にてまします、又国史に、惣社は栲幡千々姫命と瓊々杵尊両神を祭り奉るとありて、紛らはしきやうなれども、今本社は大己貴命にて、瓊々杵尊と栲幡千々姫は相殿にまします、神部神社は別社、七社の中に天照太神まします、日本武尊此国に下り玉ひし時遥拝の霊跡にて、伊勢太神を祭り玉ふとて(以下略)」

 

おっと、順番的に「神部神社」になってしまいました。
続いては、

 

大歳御祖神社
(略)◯祭神玉依媛(風土記)、◯府中志津機山麓浅間宮傍に在す、今奈吾屋本社と称す(駿河志◼︎考)、(略)◯惣国風土記五十五残缼云、薦河安辨郡大歳御祖神社、(◼︎◼︎神)誉田天皇四年癸巳始祭之、大歳御祖神者号玉依姫、賀茂健角見命之女也、雷神者伊弉冊尊生火神訶遇突智終焼、伊弉諾尊斬為三段、故其一為雷神云(以下略)」

 

ふむふむ。
あ、「浅間神社」は式内社ではないのです……駿河式内社で「浅間神社」ったらもう富士の本宮のほうですので……。

 

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特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょうか。
184コマです。

 

神部神社
神大己貴命
今按社伝祭神大己貴命相殿彦々火瓊々杵尊栲幡千々姫命とあれと萬幡姫は志豆機山の名より云出で此姫神の御名によりて瓊々杵尊をも祭れるにて実は大己貴命主神なるべし故今一座を記せり
(略)
今按一説に当社の神明社なりとも又廬原郡河合村なる神明社なりとも云ど詳かならず今は注進状に従へり」

 

大歳御祖神社 (称 奈吾屋本社)
神大歳御祖神
今按皇太神宮儀式帳に湯田社一處称鳴震雷又大歳御祖命とある同神とみえたりされば此社を奈吾屋本社と云也安倍郡奈吾屋火雷地祇とあるも由ありげなり
(略)
今按一説に静岡の市中なる雷宮を近世大歳御祖皇神社といへど彼社は神階帳に従五位上安倍郡奈吾屋火雷地祇と見えて古へ当社を移し祭れりしにて中世までは即別宮摂社の如くなりしかば式に載られし社は当社なる事云も更なりかの雷宮は有度郡にて郡も違へればかたがた由なし」

 

……なんだ、「鳴震雷」って……。

 

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群書類従. 第壹輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

群書類従』に、『皇太神宮儀式帳』がありますので、そちらから。

17コマです。

 

「湯田[神]社。一處(湯田村在)。称鳴宸電。又太歳御祖命。形無。同御宇(※ブログ筆者注:「大長谷天皇」、「雄略天皇」の御宇と思われます)定祝」

 

……ううむ、「鳴宸電」、「鳴震雷」、言いたいことは「なるみかずち」ということなのでしょうから、雷神でしょうか……。

「大歳神(大年神)」の「御祖」だから「大年御祖命」だとすると、「神大市比売命」という、「須佐之男神」の妻神の一柱、のことを指しており、「市(場)の守護神」だったり、「大歳神(大年神)」や「宇迦之御魂神」という穀物関係の母神であるので、五穀豊穣の神だったりするようです。

じゃあ雷神じゃないのか、というとそうではなく、ほら、「稲妻」だし、「稲荷」なので、その母神もまた雷神≒蛇神の属性があるものと思われます。

湯田神社」、と「田」が入っているくらいなので、どうも「神宮」の「斎田」が地名の語源ではないか、ということは「田」の守護神が必要で、「市」の守護神なのかなぁ……駿河の「大歳御祖神社」もやはり、そうした役割だったのか……ううむ……。

で、なんで「奈吾屋」なんでしょう……それがまったく想像できません(いえ、多分何かしら、地名なんだと思います……さすがに名古屋は関係ないですよ、徳川お膝元だからっていってねぇ……)。

『神社覈録』のほうは、「大山咋神」の妻の「玉依姫」を「大歳御祖神」としていて、「大山祇神」と「大山咋神」の混乱が見られる感じですね……「大山咋神」は雷神属性ありますが、その妻神にはないような……。

神部神社」のほうは、「賎機山」という地名が先にあって、そこに「万幡豊秋津師比売命(栲幡千々姫命)」を引っ張ってきた、というのが正解のように思えます(あまり単体でお祀りされることはないので)。

何かしら、機織りと関係しているのかもしれませんが……そういえば、式内社で「倭文神社」が富士郡にありますな……さて……。

あ、そうだ、

 

◯こちら===>>>

「飛騨一宮水無神社」(岐阜県高山市) - べにーのGinger Booker Club

「飛騨一宮水無神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「飛騨一宮水無神社」の記事ですが、「左甚五郎作の木彫りの馬」の伝説が残っています(実際の作者は異なるようですが)。

水無神社」の御祭神は「御年神」、「大歳神(大年神)」の御子神です。

 

 

……さあ、何か関係があるんじゃないかと思ったあなたは、陰謀論とかに気をつけたほうがいいです(私もです)。

雑な記事になってしまいましたが、あとは郷土史家のみなさんにおまかせします。

 

おまけ。
「千勝浅間神社」、夕暮れの様子。

 

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イベント目的地の近くだったので、寄りました。
村の鎮守の、という感じが残っていて、こういうところのほうが萌えますね(?)。

一日限りの静岡巡り終了〜。

次はいついけるかなぁ……。

「静岡浅間神社」(静岡市)

9/24(また周回遅れに……週に一度の更新もままなりません……)。

駿府城」をあとに、いろいろ検索して発見した静岡浅間神社へ行ってみることに。

 

◯こちら===>>>

www.shizuokasengen.net

 

思っていたより全然遠かった……歩いてみたんですけれども。

 

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どうも正面ではなさそうな、「大歳御祖神社」の鳥居から入りました。

 

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拝殿。

賽銭箱の神紋はなんだろう……あまり見たことないな……。

 

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七社参りとな……いかん、甘く見ていた……。

神部神社」は「大国主命」、「浅間神社」は「浅間大神」、「木花開耶比売命」でしょうか、「大歳御祖神社」は「大歳神」、「少彦名神社」は「少彦名命」、「麓山神社」はなんだろう……「八千戈神社」は「八千戈命」で「大国主命」の別名、「玉鉾神社」はなんだろうな……。

 

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大歳御祖神社」の本殿……だったと思います……。

ここからずずいと奥に進むと、

 

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えらいことになっている階段が……東京の「愛宕神社」もかくや、という感じで、果たしてふらつかずに登れるのか……。

 

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登る途中で右手を見ると、「八千戈神社」かな、本殿が。

 

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登りきって、さらに登れと……。

 

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さらに進んで、さらに登れと……。

 

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麓山神社」にたどり着きました……おや、「大山祇命」と「日本武尊」が御祭神だそうです。

 

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随身あり、ということは、本来は随身門か……はいれませんけれども。

 

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色鮮やかに修復されたらしい拝殿です。

 

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木鼻に金の獅子。

よい。

 

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本殿の近くまでいけますが、もっと寄りたいなぁ……。

 

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拝殿を、本殿側から。

 

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本殿妻側。

彫刻がすばらしい……うっすら葵の御紋が見えますが、駿府だからか……。

 

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下りの写真はなし、で麓に降りてきまして、「八千戈神社」。

 

「本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した含持仏の摩利支天を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され 以後八千戈命をご祭神とする。
昭和五年五月二十九日昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いでおこなうはれた。
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が中国の二十四の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では武神として信仰され 一般に勝負事の祈願所として広く信仰をあつめている(以下略)」

 

なるほど、「摩利支天」でしたか……「摩利支天」は戦闘神として崇敬されていたそうですが、「八千戈命」にご祭神を変更したこととはそれほどのつながりはないかな……あえて出雲系を引っ張ってくることもなかろうに……。

 

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拝殿。
おお、黒塗り、勇壮ですね。

 

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また相殿が十九柱て……多いなぁ……あ、「八千戈神社」だけではないのですね……。

 

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ちょっと遠景。

うむ、渋い……。

 

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いや、確かに立派な彫刻、さすがは立川流……って書くとあっちを思い出しますが、諏訪地方にも立川一門の彫物が多く見られますよね、確か……天竜川を下ってこれば……。

 

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やっとこ、正門のほうに回ってきましたよ。

 

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神部神社」「浅間神社」の社標。

いや、目の前が結構広い道路だったので、遠くから撮影できずこんなアングルです。

 

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で、ばばーん、と楼門修復中……平成の大修理、ここでもか、ということですね。

 

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神厩舎。

なんと、左甚五郎登場です……「日光東照宮」といい、徳川家と関係が深い(と思われている)のですねぇ。

一頭は、三保に逃げたようですよ……「ちゃっきり節」ってなんだろう……。

 

◯===>>>

ちゃっきりぶしの歌詞 | 静鉄グループ

 

↑こちらだそうです。

 

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あらためて、案内板。

広っ……うかつだった、短時間では堪能しきれない……次の予定があるのです……。

 

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銅板貼りの灯篭、細工も素晴らしい。

 

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「由緒 三社からなる当社は、海道屈指の名社として朝野のあつい崇敬をうけ、殊に、駿府(現静岡市)に縁り深い徳川家康公の崇敬以来、徳川幕府の宗廟として崇められた。
神部神社 崇神天皇七年(紀元前九〇年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社・美和明神とも別称され、この地方最古の社。制による国府がここに置かれ駿河国総社と仰がれた。次の各社と共に夫々が、県社(明治六年)に列格され、国幣小社(明治廿四年)に昇格した。
浅間神社 醍醐天皇の勅願により延喜元年(九〇一年)富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国千三百余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ富士新宮と称えられる安産子授けの神。後世、仏説の影響で「センゲン」と音読する。
大歳御祖神社 応神天皇四年(二七三年)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社・大歳天神とも別称された。上古からの『安倍乃市(現市街)』の守護神・地主神として崇められてきた。社名は、大年神倉稲魂神稲荷大神)の母[御祖]神の意を表している。
この三社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる賤機山(賤ヶ丘)の最南端に、神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於て北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。
社殿 「東海の日光」と称揚される社殿群は、全二十六棟が江戸後期を代表する神社建築として重要文化財に指定されている。舞殿以外は、全て総漆塗・極彩色で、神部・浅間両社の「大拝殿」は、浅間造の特殊建築で棟高二十五・八米の豪壮な規模を誇り、同[本殿]の彫刻と生彩色の華麗さは、全国に比類をみない建築装飾の秀作である。特に彫刻額は、立川和四郎富昌をはじめ立川流一門の爛熟した技を凝らしている。
史跡 国指定史跡「賤機山古墳」(略)
宝物資料 太刀(銘)備前長船長光(重文) (略)」

 

……い、いかん、全く下調べをしていなかったので、こんなに素敵スポットだったとは……。

 

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灯篭のアップ。

鬼瓦的なやつかな。

 

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拝殿……いや神楽殿かな。

 

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向かって右側、「神部神社」。

 

浅間神社神部神社 大拝殿(重要文化財
徳川三代家光将軍時代 日光東照宮と共に◼︎造営された社殿は 惜しくも火災にて消失した
現社殿は 十一大家斉将軍時代文化年間幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜 最高の技術を駆使して造営されたもので 豪壮華麗の美極まり 「東海の日光」と称されております 殊にこの神部神社浅間神社両社の大拝殿は他に類のない特殊な重層楼閣造りで 世に「浅間造」と称され 当神社の象徴的建造物であります
高さ八十一尺(約二十五メートル)もあり外観は彩色絢爛 殿内は百三十二畳で 天井には狩野栄信 寛信の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が画かれております(以下略)」(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

ほほう幕府直営での再建と……さすが駿府、というところでしょうか。

 

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それも、これを見ればよくわかります、確かに豪華。

 

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ううむ、高層部分の彫刻が遠い……。

富士山の「浅間大社」にはまだ行ったことがないのですが、確かあちらもこんな感じでしたね(もちろん、あちらが元祖、なのでしょうが……「徳川家康」が絡むといろいろと難しいです……)。

 

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少彦名神社」は生まれ変わったそうですよ。

漆の塗り直しが行われたそうで。

 

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遠景。

これ、瓦葺きですか?

ううむ……銅板葺きに漆塗りなのか……。

 

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少彦名神社重要文化財
例祭日 一月八日
本社は少彦名命を主神とし 他に神部神社末社十四社の祭神を相殿とする
もと神宮寺薬師社と称し 薬師十二神を祀っていたが 維新後神仏分離に際し臨済寺に遷され現在は少彦名命をご祭神とする 社殿は入母屋造銅瓦葺 朱塗で細部に彩色を施し 特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である
古来境内社として 病気平癒の信仰すこぶる篤く 御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある(以下略)」

 

ご存知「少彦名命」は、「大国主命」とともに、日本神話では薬祖と捉えられておりますが、「大国主命」の神性が多様すぎて、「少彦名命」は薬関連に絞りやすい、という感じを受けます(大陸の神話の「神農」と関わりがあるのかなぁ……でも牛ではないしな……)。

一方仏教では「薬師如来」が医薬関連にご利益あり、だったので、本地垂跡や神仏分離に際して、「少彦名命」と重なりやすかったのでしょう……で、薬師社って書いちゃうところがまた神仏混淆の面白いところですが、薬師堂だから、つまり「薬師十二神将」だから「十二支」の彫刻なんだぞ、というわけでもないんですよね……結構多いですから、十二支の彫刻……方位も表現しているのだと思います。

それにしても、銅瓦葺かぁ……まだまだ知らないことが多い。

 

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いい感じ。

 

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続いては「玉鉾神社」。

 

「祭神 羽倉東麿大人命 岡部真淵大人命 本居宣長大人命 平田篤胤大人命
(略)
当社は国学の祖神たる四大人を奉斎し、明治九年三月、静岡県内の神職有志が官許を得て創立した。玉鉾の道の祖神を祀る意を込めて玉鉾神社を称した。(略)」

 

というわけで、国学の祖と考えられている人たちを祀っている、なかなか珍しい神社です。

明治九年だと、太政官復活してましたかね……もう廃止されていたかな……神仏分離を推し進める中で、こういった願いはなかなか無碍にできないものがあったでしょう……そういえば、維新において駿河は当然幕府側だったんだと思いますが、御三家以外では徳川の聖域といえる駿河、生き残りをかけた思い切った策だったんでしょうか……ああ、妄想ですけれども(勉強しないと……)。

「神宮」の遷宮後の社殿が下げられたものだそうです(国学の祖のみなさんも、本望でしょうか……)。

 

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大拝殿が映えるスポット、というのが設定されておりまして、そのあたりから。
確かに、見事……写真の腕以外は……。

 

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これを見ていただければわかる通り、オールスターです。

 

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御朱印は、「静岡浅間神社」のものと、大盤振る舞い全七社個別のものもあります〜。

 

 

 

ああ、本当は文化財資料館に寄りたかったのですが、結構歩いたので疲れているのと、このあとのイベントに間に合わないといけないので……。

 

引用などは次回に〜。

「駿府城」(静岡市)

9/24。

八幡神社」の参拝を終えて、まだ用事まで時間があったので、ぶらっとしながら「駿府城」まで行ってみました。

 

◯こちら===>>>

sumpu-castlepark.com

 

まあ、私は城マニアではないもので、写真だけをご紹介。

 

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訪れた時は、天守台の発掘が行われていて、石積みが間近で見られ、なかなか興味深かったことを覚えています。

そうか、「中村一氏」が一時期城主だったんですね……天守が残っていれば、八幡山からも見られたでしょう。

モノが残っていないと、なかなか想像力を働かせられない残念な脳みそで、妄想も広がらず。

とりあえず、大御所がイケメンすぎやしないか、と思いました。

 

 

 

「八幡神社」(静岡市)

9/24。

スマホの地図を頼りに移動して見たら、思ったより全然遠かった、「八幡神社」。

 

◯こちら===>>>

www.at-s.com

 

住宅街の中に、急に小山が現れる、といういい感じのロケーション。

社標と鳥居。

 

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鳥居から参道。

なんだろう……良い。

 

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彼岸花

 

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拝殿。

昭和の頃に建てられた感じがします。

 

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お、お祭りのとき用の土俵かな。

 

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八幡神社
楼門は飛彈甚五郎の作なり社後ニ松山アリテ風致ヲ存シ又其山腹ニ射的場等アリテ運動ニ適ス」

 

何からの引用だったかな……。

 

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拝殿の後ろの……階段の急勾配たるや……。

この階段は立ち入り禁止、というわけで、傍に作られている石段を登ります。

 

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こっちも十分きつい……。

 

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登りきった……ので拝殿を見下ろしてみると……やばいですねこれは。

 

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ほら。

 

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こちら本殿……かな。

彫刻が素晴らしい。

 

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こんな感じで、塀で仕切られていました。

 

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本殿の近くにあった、「荒神社」。
御祭神は「興津彦神」「奥津姫神」。

 

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こちらは「日枝神社」。

 

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案内板。
縁物、というのがちょっと珍しい説明かもしれないですね。

荒神様」なのでもちろん竃。

日枝神社」のほうは、猿。

 

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もう一つ案内。

おっと、「迦具土神」も合祀されているようです。

 

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遠景はこんな感じ。

良い季節、良い天気。

 

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こちらも摂社……なんか、案内の置き方が……。

 

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向かって右は「若宮八幡社」。

仁徳天皇」ですね。

 

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次が「駒形神社」、これは珍しいのかな……「ヒメオオカミ」は「八幡信仰」の中に組み入れられていますね、「宗像三女神」と同体になっているんでしたっけ……でも「コマガタ」なんだな……「ムナカタ」がなまったかな……。

「衢社」は、「庚申社」で「猿田彦神」。

「庁の宮」。

これは面白いので引用を。

 

「祭神 タカミムスビノカミ
当社で最も尊い大神様です。八幡神社以前より鎮座し、駿河守護・大名などにより駿府城等に遷座した記録がある政(まつりごと)の神様です。(略)社伝によれば、この社の神事は総社(現 静岡浅間神社)の庁守大夫、庁分大夫(神主)が神事を行うことが務めとされました。これは、静岡浅間の祭神で衣服を織り始めた神様 タクハタチチヒメノミコトの親神で オオナムチノミコトに詔を下した神話からと推測されます。当社神職応神天皇の先祖・子孫を祀る安居神社、三保神社、三之御前社に神事のために出向くことがあったと記されていました。」

 

なるほど……いかん、面白そうだけど静岡の歴史に全く詳しくない……郷土史家のみなさんにお任せするか……。

 

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さらに遠景、こんな感じに配置されています。

 

少し下っていくと、こんなお社が。

 

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「渡りの大神」というそうで、掲示されていた本から引用してみると、

 

「(略)さて、この「渡りの大神」とは、八幡神社推古天皇時代からという、今から千三百五十年も前の神社で、これより少々後の時代に祀られたとのことであるから、相当古い神様ということになるが、何でも西方から海を渡ってくる疫病神を防ぐための守護神として西南に向けて建てられたという。眼病をはじめいかなる病気、特に重病には実に霊験あらたかな神で、地元の人々の話によると、相当数の重病人の回復祈願に効能があったという。事実、参詣してみると、一人、二人と参詣者によく出会う。(以下略)」

 

ふうむ、「蘇民将来」か……だったらそういう名前で残っていても良さそうですが……静岡の西方の海、って言ったら太平洋……まあそこまでではないにしても、そうだなぁ、紀伊半島ってことになるのか……あるいは浜名湖辺りに何かいたのかもしれない……でも隣接しているわけでもないしな……何かしら、海から漂着した神がいたのかもしれないですね……で、その防疫神がなんで「渡りの大神」なんだろう……むしろ、その神が「渡ってきた」んじゃないでしょうか……。

 

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しかし、風景に溶け込んでいて、よいです。

で、意を決して、山頂まで行ってみましたですよ。

 

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八幡山城
応永十八年(一四一一)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿河防御の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明八年(一四七六)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ一・五キロメートル、北方愛宕山城へ二キロメートル、東方小鹿範満の館へ二キロメートル、西方安倍川を隔て持舟(用宗)城まで五キロメートル、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(一四八七)小鹿範満を倒して、今川氏親駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄十二年(一五六九)武田信玄の第二回駿府侵入以来十二年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正十年(一五八二)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正十八年(一五九〇)関東へと移った後廃城になったと思われる。城址は、標高六三・七メートル、南北五〇〇メートルの独立丘陵で、近年公園隣、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。」

 

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なるほど、山城の跡でしたか……。

というわけで、なかなかの絶景。

 

しばし休息して、下山します。

 

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途中で発見「山神社」。

 

 

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途中で発見「本居神社」。
なかなか珍しい、「本居宣長」を祀った神社、だそうです。

 

「(略)江戸時代末期に、駿府国学士により創建したと伝わり、県内でも古く市内で一柱で祀る唯一の本居神社です。学の神として崇敬されます。「松坂の一夜」という話には、浜松市の県居神社祭神賀茂真淵(1697〜1769)が、伊勢の神宮参拝の際、生涯一度だけ会い宣長を門人にしたといわれ、後に古事記伝等を編纂しました。天保11年(1840)3月境内地にありましたが移築され参道が整備されて「鈴の宮参拝道」と名付けました。これは、明治時代の古地図に記されています。(以下略)」

 

国学者は、多分に偏ったイデオロギーではありましたが、日本古来の形ないものを甦らせようとした、という点では非常に意義深いことを成した、のでしょう(多分)。
伝奇好きにとっては、怪しい人たちなんですけれども……そういえば『古事記伝』読んだことないな……。

 

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拝殿から本殿の階段の様子、「渡りの大神」などの配置などが伺えます(いつのものかわかりませんが……この絵図の感じ、名所図会系を参考にしていそうなので、江戸末期かな……)。

 

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「本居神社」と階段。

 

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「山神社」。

 

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他にも境内には、「津島神社」、「三峰神社」などがありました。

朽ちかけの石灯籠は、文化年間のもの。

獅子かなぁ……。

 

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三峰神社」はこんな感じ……風情。

 

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ここから降りてきました。

 

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遠景……初秋、まだ萌える緑と空に社殿のマッチング。

 

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狛犬さん。

素朴。

 

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正面に近い遠景。

 

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おっと、ここでもさっきの図会が……「古式子供相撲」というのが奉納されるようですね。

 

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正面から。
ちらっと見える階段がよき。

 

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御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

なおりその記. 中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『なおりその記』という郷土史を研究されている方(と思います)の本より。

55コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「【八幡神社】八幡といへる所に八幡の社あり ((略)此社の祭神、民部省圖帳に駿河國烏渡郡久能路八幡推古五所祭応神天皇也と云々、風土記には駿河國烏渡郡八幡岡八幡神社神護景雲三年九月太宰神主阿曾鷹、五機七道各置誉田先君宮令舎、誉田天皇之旧宮也と云々、社伝には、往昔源義家奥州下向の時祭る所の由をいへり) 此社の神楽所(三間四間)及び拝殿(四間五間余) 昔神祖五箇国御守護の時、建玉ひしとぞ、又楼門は慶長十八年彦坂九兵衛を奉行とし、中井大和守へ仰せて造らせられしとなり、此時九兵衛神祖の仰を承り、大和守へ伝へし九兵衛自筆の書翰今此社の神主八幡西市が家に蔵せり、又此楼門の左に彫める随身の後に、甲州住人(河内下山)石川清助、慶長十八年十一月吉日と彫つけ、又右りには山城國上京住人櫻井三蔵、慶長十八年十月吉日と彫付く、此楼門神祖の建玉ひし時鬼板の瓦に御紋を焼たりしが、明暦二年の大風の為に悉く地に落て、大方碎たりとぞ、されど当時のものなりとて、御紋をやきたる瓦一つを今猶神主が家に蔵せり、又本社の神前に葵の御紋を織出たる綿のへりつけし翠簾のいたく古りたるをかく、是なんいつの時いかなる故によりて寄附し玉ひしかしれさる由神主等のいへり、此社も昔武田家の軍勢乱入せし時、兵火の為に焼れて、古記大方紛失せしが上に、万治年中神主が文庫回禄せしかば、社記更に亡て伝らず、蓋し天正十一年十一月晦日、御判物の状を賜ふ、今猶蔵せり、其文左の如し、
(略)
神祖江府へ移らせ玉ひ、此国中村式部少輔一氏の守護となりし頃、豊太閤より先規の通たるべきとの令詞を與ふ、かくて再び神祖国府に移らせ玉ひ、慶長七年十二月の八日に、重ねて御朱印の令詞を下し賜ふ、其文左の如し
(略)
又清水記に慶長十七年正月十五日、家康公ヨリ駿府八幡宮エ御代参として酒井為右衛門、頼宣卿御代水野藤右衛門ト云々、又同書に、慶長十六年正月十六日、同じき十八年六月十五日同十九年三月二十七日、頼宣卿此社に詣で給ひし由を記せり」

 

まあ、八幡様ですから大人気。

 

◯こちら===>>>

駿河志料. 第2編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『駿河志料』にも記事がありますので、そちらもご参考に。

戦国時代にうといので、「中村一氏」が誰だかわからない……。

 

◯こちら===>>>

中村一氏 - Wikipedia

 

推古天皇」時代から続いていたかはどもかく、街の真ん中に小山が出現すると、ちょっと驚きます(もっとも、江戸時代以前、この辺りの居住状況を知っているわけではありませんので)。

小山の頂上に神社(鳥居)があったら、それはもう古墳、といっても過言ではないと思いますが(過言です)、さすがにちょっと、古墳というには大きいでしょうか……この辺りの地理には全く疎いので、この山がどうだったのかわからず……ただ、意味もなく信仰の対象にはならないわけで、昔から神体としての山だったのだろうな、と思いました。

観光地としてはメジャーではないのかもしれない、と思いましたが、頂上までいくと近所の家族づれやお子さんが遊んでいて、地元に愛されている山で神社なのだなぁ、と。

いや、よい神社でした〜。

 

「伊河麻神社」(静岡市)

9/24。

とんだなあ……あまり神社仏閣に行けていない証拠なのですが。

というわけで、お休みだったので、静岡まで所用でお出かけついでに、ちょっくら巡ってみようとまず最初に「伊河麻神社」へ。

 

◯こちら===>>>

shizuoka-jinjacho.or.jp

 

……静岡県神社庁にはもう少し頑張ってほしい……。

 

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社標。

式内社、なのですな。

 

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鳥居。

 

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拝殿。

 

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コンクリート造(?)の獅子鼻、かな。

 

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境内の忠魂碑。

 

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の前のお猫様。

 

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境内社

向かって左が「稲荷神社」、右が「金刀比羅神社」。

 

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遠景。

 

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ご神木かな……かなり雄壮でいらっしゃった(この枝ぶりよ……)。

 

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別アングルから。

 

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「伊河麻神社
(略)
祭神名 品田別命 例祭日 九月十五日
(略)
境内社 金刀比羅神社 稲荷神社 火産神社
(略)
由緒
延喜式神明帳に「駿河有渡郡 伊河麻神社是也」と所載され、諸郡神階帳に「正四位伊河麻明神、白鳳四年四月創建ス」とある。駿河志料には「伊河麻神社 今井鎌大明神といふ、当社は延喜式神明帳所載にて、風土記に有渡清水(或は玉潔水)伊軸麻神社浄見原天皇御宇四年四月被祭之、應勅処分、為四宮奉祭譽田天皇所也」と見え、神階は諸郡神階帳に「正四位下伊賀麻明神」とありて古はいかめしき御社にど有りけむ。此地を去りて遥かに鳥居株井垣添など云う字ここかりこに残り古の大社の俤あり、今は村持の社なれど古木茂れる森なり、今川家の近臣に四宮右近光匡あり之此社の神官にして武役を勤めし人にやありけん」と記されている。明治八年二月郷社に列し(以下略)」

 

ふむ、御祭神が「応神天皇」でも、「八幡」を名乗っていない、ということですか……。

珍しいのか、何か事情があるのか……。

 

さて、式内社といえば『神社覈録』ですが、ちらっとみたら由緒書と変わらない感じだったので、

 

◯こちら===>>>

特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『特選神名牒』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

183コマです。

 

「伊何麻神社
祭神
今按社伝祭神応神天皇と云るは是も偽風土記の誤を襲へるものにて信じがたし別神なるべし
(略)
今按一説に上島村井鎌明神と云社是なりと云り井鎌明神と云ならんには此に由ありげなれど未だ明証を得ざれば附て考に備ふ」

 

式内社ですから、歴史的にはかなり古いと思われます(現在の社にそのまま繋がっているかどうかはともかく)。

御祭神が「応神天皇」かどうか、に関してはなんともですね……ある時期からは、そういった認識があったのでしょうから、それ以上遡ってどうこう、というのはなかなか難しいかと……静岡といえば、「日本武尊」ゆかりの神社なのか、と思えばそういうわけでもない様子……名前に何かヒントはないか、と思っても「いかま」……比較的安倍川に近いので、水神関係かなと思ったりもしますが(昔の川の流れについてはわかりません)、「鎌」は関係なさそう……むしろ「いかずち」と同じ「いか」だとすると、「厳」ですから、神の威力の表現、であれば特定の神性というよりは地域の神の総称っぽい……ううむ、詳しくは地域の方にまかせるしかないようで。

 

ともあれ、プチ静岡巡りです〜。

「烏森神社」(東京都港区)

7/14。

青山方面に用があったので、なぜかわかりませんが、「烏森神社」へ。

 

◯こちら===>>>

karasumorijinja.or.jp

 

御朱印が有名らしい、という御朱印本の情報のみで出かけたら、大勢並んでおられました……(そりゃそうだ)。

 

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社紋。

 

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拝殿……なのか……都会の真ん中にぽつねん、と佇む……というよりは、何か、はまり込んだまま消えなかったテトリスのブロックみたいな存在感でした。

 

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狛犬さん。

最近、狛犬さんの形式も勉強せねば、と思っているのですが全然覚えられず……(社殿形式もろくに覚えませんから)……よく見るタイプの意匠ですが、都会のせいか、黒ずんでいるのがなかなかの迫力。

 

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遠景。

鳥居……鳥居。

 

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「烏森神社縁起
御祭神 倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
平安時代天慶三年(約一千年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征伐将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている 室町時代の享徳四年(約五百年前)には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は 当社に戦勝を祈願した その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった
明治以降は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはじめとしてその名をうたわれている
当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し 昭和四十六年十二月 氏子の熱意により竣工をみたものである
(略)」

 

なるほど……ちょっと変わった取り合わせの御祭神ですね……いろいろ合祀された結果かな。

 

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御朱印

時間がなかったので、既に押されていた御朱印帳を購入しました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

125コマです。

 

「烏森稲荷社
幸橋より二町ばかり南の方、酒井下野侯邸の北の横通にあり。往古よりの鎮座といへとも、年歴来由共に詳ならず。元禄開板の[江戸鹿子]といへる草紙に、天慶年間、藤原秀郷、将門退治の時の勧請なりといへども、信としがたし。又如何なる故ありてや、当社の神宝に古き鰐口一口を納む。表に元暦元甲辰年正月、下河辺庄司行平建立と彫付けてあり。[江戸名所ばなし]に、日比谷稲荷の條下に云く、此宮地は借地にてありしに、既に断絶におよぶべき頃、稲荷の神、宮守に告げて、古来よりの証拠なりとて鰐口ひとつを与へ給ふ。宮守公へ訴へ、此証によつて、宮居つづがなしとあるは、当社の事を誤りていふならん歟。或人云く、明暦の回録に奇瑞ありしかば、其後社の辺除地となるとぞ。(略)祭礼毎年二月初午に執行す。幸橋御門に仮屋を補理ひて、神輿を移す。参詣群集して賑はへり。
古河御所
足利成氏願書一通(当社に蔵す。)

稲荷大明神願書事
今度発向。所願悉於成就者。当社可遂修造。願書之状如件。
左兵衛督源朝臣
成氏判」

 

藤原秀郷」というのは、いわゆる「俵藤太」のことですね、オオムカデ退治の……あれ、違いましたっけ。

で、その「藤原秀郷」が勧請した、ということが『江戸鹿子』に書かれているのですが、『江戸名所図会』としてはばっさり。

何かしらイデオロギー的なものがあるのか、明治になって何か証拠が出てきたから、現在の由緒なのか(まあ、「〜とも」と推定の表現なので、実際はわからない、というところでしょうが)。

少なくとも「古河公方」の頃には存在していた、というわけなので、関東にあっては十分な古社、ですね。

足利成氏」という人は、

 

◯こちら===>>>

足利成氏(あしかがしげうじ)とは - コトバンク

 

コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、


室町時代の武将。古河公方 (1455~97) 。鎌倉公方持氏の子。幼名永寿王。永享 11 (39) 年2月持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害したとき,瑞泉寺の僧昌在に保護されて,のち信濃の大井持光を頼った。翌年3月兄春王,安王の下総結城 (ゆうき) での挙兵に参加したが,翌月落城,春王,安王は美濃で殺された。成氏は許されて在京していたが,宝徳1 (49) 年上杉房定が関東の諸将にはかり,室町幕府に願って鎌倉公方としたため東下して,9月鎌倉に入った。次いで 11月元服。同3年2月従四位下左兵衛督となる。成氏は,父持氏を敗死させた上杉憲実および憲忠の父子を憎み,一度は幕命を奉じて和睦したものの,享徳3 (54) 年 12月には憲忠を鎌倉の屋形に襲い殺した。幕府はただちに成氏追討を命じ,関東は成氏と上杉氏との対抗を中心に大動乱に陥った。康正1 (55) 年正月成氏は武蔵分倍河原 (ぶばいがわら) に出陣して,憲忠のあと上杉家を継いだ弟の房顕を破り,以後,次々と上杉方の諸将を攻めた。しかし6月になると,幕命を受けた駿河守護今川範忠の軍に鎌倉を奪われ,成氏は長禄1 (57) 年下総古河城を治めて,ここに拠った。幕府はさらに将軍義政の弟政知を伊豆堀越に下し,関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方,成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た言葉である。これより戦況は一進一退して決定しなかったうえ,文明9 (77) 年には房顕の後嗣顕定とその家臣長尾景春との間に戦いが起り,関東は一層乱れた。かくて成氏,上杉氏とも次第に勢力を失い,同 10年成氏は顕定と和した。次いで同 14年成氏は幕府,政知とも和睦した。」

 

という人で……室町後期〜戦国、乱れに乱れた時代のことで、私が一番苦手な時代です……勉強したい……。

 

このあとは、芝の「増上寺」、「芝東照宮」なども巡りまして、よき旅、よき宴を堪能しました〜。