2/17。
いらっしゃい2018年。
というわけで、赤坂で行われたとある宴に出向きましたもので、「赤坂氷川神社」へ。
◯こちら===>>>
「赤坂氷川神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑過去の記事です。
まあ、基本的には、狛犬さん写真集だと思っていただければ。
御朱印。
今年(もうすぐ終わりますが……)はこんな感じのシンプルなのが多いかもです〜。
2/17。
いらっしゃい2018年。
というわけで、赤坂で行われたとある宴に出向きましたもので、「赤坂氷川神社」へ。
◯こちら===>>>
「赤坂氷川神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑過去の記事です。
まあ、基本的には、狛犬さん写真集だと思っていただければ。
御朱印。
今年(もうすぐ終わりますが……)はこんな感じのシンプルなのが多いかもです〜。
12/3。
まだ時間がありましたので、検索検索……で発見した、「空鞘稲生神社」へ行ってみました。
◯こちら===>>>
↑公式HPです。
看板。
参道入口。
太田川沿い、グリーンアリーナは目と鼻の先、ナイスな場所に鎮座されておりました。
拝殿。
天水桶……にしてはちょっと小さい気がします。
拝殿、別角度。
境内社の「恵美須神社」。
「寛政十年(一七九九年)の勧請」で、「明治三十五年三月」に併合した、と。
拝殿遠景。
狛犬さん。
玉。
「幸神社」。
御祭神は「猿田彦大神」、創建は「天文年間」で、「彦山明神」と呼ばれていたそうです。
「猿田彦」の「彦」なのか、そういう地名だったのか……。
「稲生神社」。
狛犬さんその2。
若干、怪獣っぽいです。
御朱印。
ダイナミック。
……あら、また写真が少ないな……。
さて、神社でいただいたパンフレットによれば、御祭神は「宇迦之御魂神」「宇氣母智神」「和久産巣日神」、とのことです。
「ウカノミタマ」は「稲荷」の御祭神で、「稲生」と表記することも多いように思います。
「イネナリ」の音が変化して「イナリ」、そこから「イナオ」「イナウ」になった、ということでしょうか。
どこかで語源に関する記事を読んだ気がしますが……有名な、秦氏が餅を射って云々、ってやつはともかく、稲が「イネ」と呼ばれた時代、そこから「イネがナル」という言葉が生まれて、縮まって「イネナリ」になって、「イナリ」「イナオ」「イナウ」、という誰もが考えつく流れなんでしょうねきっと……で、こちらではそうではないようですが、基本的に「稲荷」の神使はキツネになっておりまして、何故なのか。
たぶん、いろんな人が説明していると思いますので、そちらを確認していただければ、と。
個人的には、キツネの体色と、尻尾が、実った稲穂に似ていたのが大きいのではないかな、と思っています。
御由緒は、
「古書に「空鞘神社の縁起は甚だ古く、勧請の年紀詳らかにするも由無なきも後陽成天皇の御宇豊臣秀次未だ関白たりし文禄元年壬申の歳、毛利輝元陰陽両道に跨る太守として広島城郭の築城を告ぐるの時枯萩寒草の間此の地に二社あり、大を空鞘大明神、小を彦山明神という」とあります。この他の私記等の諸書によれば天文年間の御創建ということです。その後隆興の一途をたどり、毛利氏の崇敬なかなか篤くかなりの社領をも有していました。
天保五年(一八三六)社殿を造営、明治五年(一八七二)社格を村社に列せられました。同四十年(一九〇七)神饌幣帛料供進社に指定され大正八年(一九一九)社殿を新築し神域を拡大、当神社より南舟入まで、及び中島、吉島一円の産土神として社頭も非常な賑わいを見せていました。昭和二十年(一九四五)八月六日原子爆弾によりすべて灰燼に帰しましたが、同二十八年(一九五三)十月復興され現在に至っています。
「空鞘」の名は、社頭の松の大木に刀の鞘のみが掛かって居たことによりその社名になったと伝えられており、昭和四十年の町名改正まで神社周辺は空鞘町と称していました。」
とのことです。
なるほど、広島の歴史に関しては、「毛利輝元」のことを勉強しないことにはいけない、ということですね……ふぅ……戦国時代のことはわからんです……ちょっとずつ勉強してはいるんですけれども。
「陰陽両道に跨る」というのに反応して、すわ陰陽道絡みの怪しげなネタか、と思ったのですが、「山陽道・山陰道に跨る所領」という意味ですね……そりゃそうだ。
◯こちら===>>>
『備後叢書』の第4巻から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
19ページです。
「虚鞘明神 在今府治西、未知祭何神也。」
……うん、以上。
どうも、この「芸備国郡志』というのは、寛文年間(ですので1661〜1673)辺りに書かれたもののようで、当然「毛利輝元」の時代よりはあとなのですが、まだその頃は隆盛していなかったようですね。
「未知祭何神也。」ですから。
ただ、この『芸備国郡志』という本は、『備後叢書』に入っているということで、安芸国の人ではなく、備後国の人が書いたようです。
そこまで安芸国のことに詳しくなかったのかな、という可能性もあります。
◯こちら===>>>
広島みやげ : 附・安芸の宮島 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑前回も引用した『広島みやげ』という本から。
20ページです。
「空鞘神社 空鞘町に在る郷社なり、祭神は宇迦之御魂神、宇氣母智神、和具産巣日神にして、当社は毛利氏の築城以前より大小二社ありて、一は空鞘明神と称し、一は彦三之神社と称したる由、宝物の大盃一個は漆器にして、能登国輪島木地屋八兵衛の作なりといふ、尚厳島神社と白神社に各一個あるが合すれば一組となると云へり、如何にや。」
神社のパンフレットとあまり違いはないですね(宝物については、よくわかりません)。
これにて、広島プチ巡礼も終了。
さよなら2017年……。
で、もう2018年も12月になろうとしているのですな……ふぅ。
12/3。
三姫のために、三女神の島へ参拝に行った帰りに、まだグリーンアリーナに行くには早すぎたので、「廣瀬神社」へ行ってみました。
◯こちら===>>>
絶賛、七五三。
狛犬さん。
勇壮だ……。
きのこチックな石灯籠。
参道。
再びの狛犬さん。
広島は、球に足をかけている狛犬さんが多いですね。
三度の狛犬さん。
ほら。
四度の狛犬さん……普通だった……。
参道。
……あれ?
そうか、確かお宮参りか何かの祭祀が行われておりまして、写真をぱしゃぱしゃ撮るのは遠慮したのでした。
御朱印。
季節によって異なる、とのことですが、今公式HP見たら予約制だって……催事で忙しい中、突然おしかけてしまい申し訳ない……(平成30年12月からはまた変わるようですので、ご確認を)。
神社でいただいた由緒書きより。
「祭神 市伎島毘賣神・多紀都毘賣神・多紀理毘賣神
相殿 天照皇大神・須佐之男神・神日本磐禮彦髪(神武天皇)
境内社 稲荷社(略) 恵美須社(略) 天神社(略) 幸神社 祭神 猿田彦髪
◯境内社は原爆投下前、廣瀬神社境内に祀られていたが、原子爆弾のために消失し、現在は廣瀬神社本殿に合祀されている。由緒
天正年間(一五七三〜一五九二)毛利輝元(元就の孫)広島築城の以前に沼田郡広島新開広瀬村に大小の神社があり、大の神社は廣瀬弁財天と称え、小の神社を小森別宮といった。
大の神社は五箇の庄の一である広瀬の庄の総鎮守として氏子の崇敬も篤く、毛利家にいたり、廣瀬市伎島大明神と改められ、社領もつけられる。福島正則入国後に社領は没収されるが、浅野の治世になると廣瀬社の祭礼は厳島神社(住吉さん)祭礼・白島の清正公・尾長の東照宮祭・白神社の氏神祭・胡子大祭とならび殷賑をきわめ、広島の主要祭事となった。
享保八年(一七二三)廣瀬大明神と改める。同九年四月神祇官領吉田兼郷から染筆の額を賜る。その時藩主浅野家より銀十枚及び紋章入りの幌幕・提灯などの寄進を受ける。
社地は毛利家在城の時、高田郡吉田町にあった同家菩提寺洞春寺を移し、大部分を寺域としたその跡地であり、そのためここらあたりを洞春寺と呼び、一説に弁財天は同寺の鎮守であったといわれる。
明治五年大明神号が廃止され、廣瀬神社と称するようになり、同年十一月、村社として定められる。それ以前は広島東照宮の御旅所として正徳(一七一一〜一七一六)、明和(一七六四〜一七七二)、文化(一八〇四〜一八一八)年度の式年祭には御神幸があった。当社は古来より、社殿及び境内の広大な神社で、境内には樹齢三百年以上という大樹が森をなし、諸々の社殿が甍を連ねていた。
明治四十年二月一日に、神饌・供進神社として指定され、昭和二十年八月十五日の終戦前までは、廣瀬町・十日市町・天満町・観音町・福島町に至る広島西部一円の氏神として崇敬され、毎年九月十九日(陰暦)の大祭は盛大な賑わいを呈したといわれる。後に例祭日は十月十九日(陽暦)に改められる。現在は十月第三土曜日・日曜日に定められている。(以下略)」
……他にもういらない感じですな……。
◯こちら===>>>
広島みやげ : 附・安芸の宮島 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑前回も引用した『広島みやげ』という本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
21ページです。
「廣瀬神社 廣瀬村にあり、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命を祭る、当社は安芸国一の宮厳島神社の配祀なり、最も古き勧請なりと云へど、創建年間詳かならず、天正年間毛利輝元之を崇敬し、社領五十石を寄附したり、其頃廣瀬市杵島大明神と唱へしを、享保年間廣瀬大明神と改め、明治六年更に今の名に改めたるなり。」
なるほど、「厳島神社」を島から勧請したのですね。
その時期はわからない、と……。
地域の中でひっそり、という感じが、とても好ましい神社でした。
神職さんに、「また来月も」と言っていただいたのですが、なかなか愛知から毎月は……申し訳ない。
(20181124 誤記修正)
12/2。
◯こちら===>>>
近況〜広島参拝記(その1) - べにーのGinger Booker Club
近況〜広島参拝記(その2) - べにーのGinger Booker Club
近況〜広島参拝記(その3) - べにーのGinger Booker Club
↑一年前は、こんな未来が待っているなんて想像もできなかった、という何かの歌の歌詞のような現実に、寂しさは募りますが……。
どうも、「饒津神社」からグリーンアリーナへ移動する途中に立ち寄ったらしい(曖昧)、「碇神社」。
◯こちら===>>>
扁額。
境内全景。
狛犬さん。
伝承「碇石」跡……碇の形をしていたわけではなさそうなので、碇をひっかけた……ということは海の底だったのか……ううむ。
ポンプ。
新しいのか、なんとなく南国チックな灯篭。
遠景……いい天気だったなぁ……まさか、こんな一年後が(以下略)。
歴史の散歩道の案内板。
「16世紀に広島城が築城される以前から、この地に社があったとされ、19世紀初めに記された「知新集」によれば、築城前のまだこの地が青海原であった頃、ここへ他国船が来て碇をおろしたことから碇神社といわれるようになったと伝えられている。」
なるほど……私は船の歴史には詳しくないのですが、どのくらいの時期から碇が使われるようになったのでしょうね……初期からかな……何かしら係留する装置はあったでしょうし、常に港に近づけるわけではないので沖で停泊するのに碇は必要でしょう……。
こちらの案内板では、当時の河口の様子が描かれていますね、わかりやすい。
まあ、今も川の近くにはあるのですが……往時は島だったことがわかります。
参道入口。
由緒書。
「祭神 大綿津見神
古くは箱島明神とも称す一、創建は奈良朝時代初期(約一千二百五十年前)
此の地其の昔海辺なりし頃
当碇神社の社辺に大岩盤在り
太古よりしばしば舟が難破せし為
地と海の神を鎮祭し奉ることに始まる
従って当広島に於ける最古の氏神と
考証される一、天正十七年(一五八九年) 毛利輝元公
広島城築城に際し改めて社殿を造営し
社領の寄進を為す
当白島地域の産土神として親しまれ尊崇を集めた一、昭和二十年八月原爆に依り灰燼に帰す
仮社殿に於て祭祀せしも
昭和四十年春氏子崇敬者の協賛を得て
再建今日に至る」
社標。
さて。
◯こちら===>>>
『大日本名所図録ー広島県之部』『備後叢書』の第4巻から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
19ページです。
「碇明神 在今府治、古此處海中之一小島、而有小祠、往来之旅客沈碇、繋船於社辺、以祈順風、鉄錨或曰碇、故称此社曰碇明神、未知祭何神也、毛利輝元自移城地於今府治以来、日盛月豊、故民人埋海為家居、今此社在府治東北、去海半里許也、到後世而伝説亦絶、則碇之称号、恐有怪之者乎、嗚呼陵谷変遷、今親見之、滄海為桑田、亦非可疑者也。」
上の由緒書をあわせたような内容ですね。
ただ、御祭神はよくわからない、と……碇の神様、というのは聞いたことがありませんからね。
何やら怪しげなものがいたのか、怪しげなことが起こったのか、船幽霊的なものでも出たのか……ちょっと面白そうだ。
◯こちら===>>>
広島みやげ : 附・安芸の宮島 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『広島みやげ』という本からも引用を。
18ページです。
「碇神社 西白島九軒町に在り、境内二百六十餘坪、祭神は大少童命なり。毛利輝元此地に築城すると決するや、海湾を埋むる宏大なるを以て、海神の怒りあらんを虞れ、此に祈願を籠めたる處なりと、築城成るや社領五百石を寄付して神恩を謝したりといふ。」
こちらは、由緒書ほぼそのままでしょうか。
伝承を探ってみたいところですが、郷土史家のみなさんにお任せします……はい。
というわけで、広島参拝記(補)でございます〜。
ネットの調子が悪いので、記事が消えた……というわけで、本記事は順調に周回遅れですが、それはともかくの近況を。
八月。
「三輪神社」御朱印。
キツネさん鬼灯が可愛い。
九月。
お久しぶりの「若宮八幡社」。
朔日参りの限定御朱印、だそうです。
◯こちら===>>>
「若宮八幡社」 - べにーのGinger Booker Club
「若宮八幡社」(再)(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club
「三輪神社」御朱印。
5代目はピンクちゃん。
十月。
「三輪神社」御朱印。
埼玉の「闇のカ〜ニバル〜に〜」出かけてきたので、大宮の「氷川神社」へ。
◯こちら===>>>
「氷川神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑まだ引用とかしていない頃ですね……『新編武蔵風土記稿』くらいは引いてみようか……時間がない……。
という感じで、近くの神社、遠出したときはできるだけその土地の神社を巡っております。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尾張名所図会』から久々のちゃんとした引用です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
377ページ。
「富士浅間社 尾張富士の峯にあり。本社祭神木花開耶姫命。左右に金剛界社・胎蔵界社等あり。又其下に駿州富士八葉に擬へ、熊野社・神明社・三島社・鹿島社・日吉社・白山社・伊豆社等を祭る。夫より麓まで末社数祠ありて、釜岩社・日神社・中宮社・八幡社・三輪社・山王社・弁財天社等あり。此餘古跡多し。図上に就いて見るべし。
大宮社。富士の麓にあり。俗に富士新宮といふ。
例祭 四月初申日・六月朔日・九月十五日・十一月初申日なり。其内六月朔日は殊に大祭にて、五月晦日の夜より、山上山下に大篝を夥しくたき、貴賎の群参、山も崩るるばかりなり。此火遠望には殊に花やかに見えて、如意ヶ嶽の大文字に彷彿たり。翌朔日には別当修験等出坐し、読経・護摩執行あり。終りて近郷より馬を献ず。又当社に左鎌を奉納して祈願をかくる事あり。いかなる故をしらず。
別当大嚴院 長来山富光山と號し、真言宗、犬山薬師寺末。当院は天平年中行基菩薩の開基なるよしいひつたへたり。本尊薬師の木像。
修験 常昌院・宝蔵院・泉正院・千手院・金蔵院の五坊あり。いにしへは十二坊もありしよし。今も悉く旧地残れり。」
というわけで、372ページには図絵もありますので、ご参考に。
「尾張富士」という山の、麓から頂上に至るまで、小さな社が並んでいるのがわかります。
上記に、「大宮社」とあるのが、現在の社殿の場所なのか……「弁天池」というのも図絵の中にありまして、周囲の雰囲気的にはそこは、今回写真に撮った「弁天」様のところかな、と思うのですが、そこから上は末社が並んでいて、「本社」が頂上……頂上までは登ってないんですよね……さて、どうなのか、と。
「金剛界社」「胎蔵界社」という謎の社が、真言宗ですよね……今まで聞いたことなかったです。
一応、「尾張富士」についても引用しておきましょうか。
「尾張富士 富士村にあり。本宮山に対して、俗に小富士ともいへり。孤峯最高く、遠くは駿河の士峯を望み、近くは入鹿の大池を見下し、尾・三・濃・信の連山一眸につきて、風光無双の佳境なり。凡擬富士は諸国にありといへども、皆其形によりて名付けたるを、此尾張富士のみはさに非ず。むかし近江土を駿河に運びて、湖と富士山を造り給ひし時、擔夫の神此地にて一簣を覆し給ひしが、則此山となりしよしいひ伝へたれば、彼駿河の山と同じ土石なりとぞ。近世高田興清が著はしし[国鎮記]といふものに、駿河の富士山をはじめ、諸国の擬富士を挙げたり。そは陸奥富士・薩摩富士・都富士・有馬富士・伊豆富士・八丈富士・近江富士・南部富士・筑紫富士・豊後富士・鎌倉小富士・播磨富士・讃岐富士・安芸小富士・志津川富士等を出せるに、此尾張富士はいかがして書き洩しけむ。」
ええと、わかりづらいのですが、犬山の「大縣神社」ですね、
◯こちら===>>>
「大縣神社」 - べにーのGinger Booker Club
「大縣神社」「田縣神社」(再) - べにーのGinger Booker Club
あのあたりにあるのが「本宮山」というのですが、そっちを「大富士」と呼んでいて、それに対して「尾張富士」が「小富士」……なんか、判然としませんけれどもね……。
どうやら、富士山と琵琶湖を作った神……ていうかデイダラボッチですけどね大抵は……が落っことした、土を運ぶための道具が「尾張富士」になったので、富士山と同じ土砂でできている……と。
その割に、『国鎮記』という本では取り上げられていない……ということは、この「富士山=尾張富士同土砂製説」がほとんど知られていなかったというわけですね……いえ、その本もどのくらい調べられて書かれたのかわからないのですが、結構な数のご当地富士が載っているのに……デイダラボッチの造山伝説自体も、どの時代にどの程度知られていたのかがよくわかりませんけれども、それに絡めた言い伝えが本当にこの地方に伝えられていたのでしょうか。
私は聞いたことがないんですけども……。
◯こちら===>>>
天下の奇祭尾張富士の石上祭と其の伝説 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑『天下の奇祭尾張富士の石上祭と其の伝説』(昭和9年の発行です)という、まんまな本がありまして。
その22ページに、略記が書いてあります。
「尾張富士大宮浅間神社略記
一、御祭神 天照大御神 木花開耶姫命
(略)
一、由緒 天平元年邇波縣主道直公の勧請にかかり古来御霊験著しく織田信長豊臣秀吉公等武将の信仰厚く種々神宝を寄進せらる
毎年旧五月晦日、六月朔日にかけて天下の奇祭「火祭及石上祭」が行はれ数十万の参詣社ありて雑踏を極む頂上に数百貫の献石累々たり
(略)
子供の神様として崇敬篤く子女成育の庇護を得んとして預子となし虫封祈祷を請ふもの多し毎々不思議なる御霊徳に預るもの夥し常に賽者の絶ゆることなく神威赫々たり
左鎌は一名虫切鎌とも称し由緒ある神鎌にして小児の虫封魔除の御守なり(以下略)」
「左鎌」が気になるところですが……(この辺りだと、「南宮大社」、「猿投神社」で見られましたか……
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「南宮大社」 - べにーのGinger Booker Club
「南宮大社」(再)(岐阜県不破郡) - べにーのGinger Booker Club
「南宮大社」(補) - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」 - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」(妄)その2 - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」(再)(豊田市)〜高速初詣その3 - べにーのGinger Booker Club
その辺りのラインの関係性を考えると面白いのか、特に古い由来もないものなのか……祭り関係は、江戸時代に始まっているものも多いので、よくわからないのですよね……)。
「石上祭」というものがどんなものかといいますと、『天下の奇祭尾張富士の石上祭と其の伝説』から要約しまして、
「・昔々、犬山の字五郎丸というところに、八百比丘尼が住んでいた。
・ある夜、尾張富士の御祭神木花開耶姫命が、比丘尼の夢枕に立ち、「隣の本宮山より背が低いのが残念なので、小石を一つでも頂上に上げてくれれば、願いを叶える」とおっしゃった。
・比丘尼が里人に伝えると、みんな喜んで石を上げ、願いが叶った。
・その日が六月朔日だったので、祭日となった。」
というものです。
まあ、なんでしょう……そもそも「木花開耶姫命」の御神体山は富士山で、日本において他に並ぶものなしなわけですから、「本宮山」に負けていたところでどうなのか……という感じがします。
「山の背比べ伝説」というのは、いろいろなところにあり、元々は土着の信仰だったのでしょうが、神名などが書き換えられていったのだと思われます(神仏分離以後に多いんじゃないでしょうか……)。
あ、「左鎌」についても、17ページに書かれています。
「此の由来即ち左り鎌の縁起は、昔弘仁年間即ち今から一千百年程以前に、お山のお守役に権太夫なる人がありました、お山に金明水と、銀明水の浄水を設けんとして二つの井戸を発掘いたしましたる所、金明水から一丁の左り鎌が現はれたのであります、権太夫は非常に驚いて此の地は其の昔盤城の地である、これぞ正しく御祭神木花咲耶姫命が土賊を刈りたまゐし、御由緒ある御神宝ならんと直ちに御祭り致したのであります。」
……うん、なんでしょう、「金の斧と銀の斧」の匂いがしますよね……。
そもそも、「木花開耶姫命」が土賊を刈るって……伝承上は九州で亡くなってますけれども……。
一応、尾張美濃(場合によって諏訪辺り)に見られる、「風除けの鎌」の呪いとの関わりが何かあるのか、と触れられています。
「魔風を切る」のですけれども(諏訪だと「薙鎌」……だったかな)、もしこれが古代から続いていれば、おそらく「鉄の鎌」であることに意味があるので(切れ味的に)、ということは製鉄氏族のライン、というのがまた浮かび上がってきましてですね……で、昔からあった風習、捧げられた鎌を権太夫という人が井戸から見つけた、という可能性はないこともないとは思いますが……ちょっと、いろいろ盛りすぎている感じがします。
で、「火祭」と「石上祭」ってセットになっているのですが、何故か江戸末期の『尾張名所図会』には、「石上祭」のことは書かれておらず、普通に護摩を焚いたりお経をあげたり……これもまた、地元の人に秘された祭りだったのか……あるいは実は歴史が新しいのか……ひょっとすると、「神事」とは認められていない「風習」だったのかもしれません(が、当時のガイドブックである『名所図会』が、そんなネタを無視することもあるまいと思います……ううむ……)。
ちらっと調べてみただけで、面白い話が満載の犬山ですので、ちゃんと犬山の伝説なんかを当たってみたいものです。
特に結論はありませんので〜。
11/11。
とりあえず、紅葉を求めて「寂光院」へ。
◯こちら===>>>
「継鹿尾山寂光院」(犬山市) - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です。
曇り、残念。
かと思えば、少し晴れている。
扁額。
本堂前。
随求堂から……だったと思います。
……うん、紅葉の時期に早かったのか、遅かったのか、もう記憶がないです。
多分遅かったんだな……。
本堂。
紅葉、ちょっと晴れた。
紅葉。
紅葉、また曇る。
本堂。
本堂。
弁天堂から。
紅葉。
露出のコントロールがね……(まあ、iPhoneですし)。
紅葉。
紅葉。
こんちまた埋まっておられますな……。
という感じでした。
御朱印。
で、そこから「大宮浅間神社」へ移動。
◯こちら===>>>
↑観光協会のHPですが。
場所としては、「博物館明治村」のすぐ近くで、「明治村」の裏の方から出てくると、ちょうどこの神社の脇を通る感じになります。
社標。
緩い斜面を登ると。
再び社標。
「弁財天」をお祭りした社。
島です、はい。
紅葉が美しい……がやや暗いか。
こちらも鮮やかな紅葉。
うーむ、もうちょっと池が澄んでいたら、反射が美しかったかも……。
蛙さん。
……弁天さまばっかですな……。
愛知県の新十名所に選ばれたようです。
隣のは、献石(いしあげ)のための石、です。
尾張の子供なら、大抵知っているだろう、「尾張富士と本宮山の高さ比べ」、というやつですね(後で書くかもです)。
「句碑のみち」。
句碑。
手水舎。
拝殿。
杮かな……銅との組み合わせは珍しいのかも。
拝殿……あれ、幣殿かな。
尾張造かもしれないです。
手前はえんむすびの松、だそうです。
狛犬さん。
比較的新しいようですが、しっかりした意匠です。
曇った……。
社殿遠景。
こちら、石上げを行うところ、だったと思います。
参道遠景。
社殿の位置関係が今ひとつわかりませんね……申し訳ない。
御朱印。
引用などはまた〜。