べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「王子稲荷神社」(東京都北区)

9/27。

王子神社」の参拝を終えて、

 

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そのまま、王子稲荷の坂を下っていくと、「王子稲荷神社」です。

 

◯こちら===>>>

王子稲荷神社 - 東京都神社庁

 

東京神社庁もがんばっている……(あれ、愛知県神社庁も……?)。

 

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で、坂沿いの鳥居から入ると、なんか造りが妙……どうも、正面はこちらではないようです。

 

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拝殿。

 

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立派だ……獅子の木鼻、黄金なものにはなかなか出会えません(新しく塗られたのでしょうか)。

 

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稲荷の紋に「王」。

 

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狛犬さんがいかつくて素晴らしかった……横浜の「橘樹神社」に通じるものがあります。

この狛犬さんズの間の階段を降りた先が正面っぽいのですが、降りられなかったような……記憶が……。

 

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拝殿遠景。

 

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本宮。

そう、拝殿右手奥に進んで行くと、奥宮があるのです(お稲荷さんですから)。

とりあえず、一番奥まで行ってみます。

 

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おキツネさまには岩穴がつきもの……江戸ではそうなんでしょうね(実際、狐が住んでいたんでしょう)。

 

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守られちゃったおキツネさま。

 

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おもかる石もあります。

 

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守られちゃったおキツネさま(その2)。

 

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こんな感じで、高台にわざわざ鎮座ましましております。

 

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そのふもとの摂社もお稲荷さん。

 

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いい感じのオキツネさまです(永野護っぽい顔……?)。

 

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ここから奥宮に入っていきます。

 

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ちょっとしょぼーんなおキツネさまだったり、頭だけ作り直したおキツネさまだったり、人面っぽいおキツネさまだったり。

 

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奥宮(本宮)遠景。

 

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本社本殿。

 

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ポンプ。

 

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本宮入口の鳥居。

 

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拝殿横から遠景……何か地域の集まりがあったようですね……。

 

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……おキツネさまが多種多様なのは素敵です……けど、なんか、対にしては様子が違いすぎないだろうか……。

 

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社標。

 

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隠れおキツネさま。

 

ええと……そう、正面にまわるには、坂をもっと降りなければいけないんだろうなぁと思ったら、それ以上下れませんでした(結構お疲れで……巨大キツネ祭りだったもので……)。

御朱印をいただけるはずなのですが、神職さんがいらっしゃらなかったので。

「王子神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑お久しぶりねの『江戸名所図会』です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

264コマです。

 

「王子権現社
飛鳥山の北の方、音無河を隔ててあり。
本殿 祭神 伊弉冉尊 左速玉男命・右事解男命 三神鎮座。
社記に曰く、若一王子社は、紀伊国熊野権現を勧請す。後醍醐天皇の御宇元亨年中豊島何がしの主とかや、新に祠宇を建てて崇めけるが、風霜ふり、歳月深うして、朝の霧は香を焚くかとあやしみ、夜の月は燈を挑ぐるに似たり。霊神は人の敬ふによりて其威をまし、境致は霊神の徳によりて其名を顕す。つらつら此神の本を尋ぬれば、伊弉諾伊弉冉の尊と申す二柱のみこと、国土をうみ、萬の物をうめり、其広大の功徳既に成りて後、伊弉冉尊神退りましければ、紀州熊野の有馬村にをさめまつる。熊野大神是なり。此神を祭るには、春は花をもて祭り、鼓うち、笛吹き、旗立てて、諷ひ舞うて祭る。白河院の御製に、『咲き匂ふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空にしらるる』とよみ給へるは、花しづめの事なるべし。此神の御子を熊野早玉男とまをす。其第二を泉津事解男と申す。延喜の帝の御時、諸国の神社を記されしに、紀伊国牟婁郡、熊野早玉男神社とあるは是なり。此故に伊弉冉尊・早玉男・事解男、是を熊野三所権現といひならはせる事になりぬ云々。
按ずるに、当社縁起に、元亨年中豊島氏、新に祠宇を建てて崇めけるよし記せり。当社別当金輪寺に収る所の大般若経の奥に、文保二年とあれば、勧請は文保より以前にして、元亨に初て社を営みしならん。小田原北條家分限帳に、王子領、江戸上平川・下平川・牛込の内にて、以上二十八貫八百六十文の地を附すとあり。」

 

ええと、まあ、ほとんど熊野の本社の話ですね……。

 

「祭礼 例年七月十三日にして、十二番の拍板あり。此日王子村の童子、手毎に竹の鉾を持ちて警固す。祭終つて後、参詣の貴賎彼鉾を携へて帰り、火災盗難を除くの守護とす。是も古よりの習俗とぞ聞えし。其外一季七十餘度の祭祀、連綿として、国家安寧五穀豊饒の祷怠慢なし。
本地堂 本社の左にあり。弥陀・薬師・千手大悲を安置せり。
若一王子宮 本社の右にあり。新宮天照大日孁貴尊を鎮る。
飛鳥祠 同所に並ぶ。祭神は事代主の命なり。元亨年中豊島左衛門なるもの勧請す。始は飛鳥山にありしが、寛永の頃、台命に依て当社の境内に遷座す。
康家清光社 同本社の左にあり。是豊島太郎康家・同権頭清光父子の霊を鎮る。其餘末社多しといへどもここに略す。
(略)
当社はすべて紀州熊野山の地勢を写し、前に音無川の流をうけて、風色真妙なり。花の時は花をもて祀るといへる神慮に因るにや、社頭に多く桜樹を植ゑて、春の頃は境内殊に観賞あまりあり。亦冬月雪の眺望も、他に勝れたり。」

 

241コマには図絵が掲載されていますが、現代の様子とはかなり違っていて驚きます。

ざっと見る限り、楼門から舞台(舞殿かな)、本社とありまして、境内には本地堂、鐘楼、荒神若一王子、白山・八幡・蔵王、氷川、冨士、山王、番神天満宮、康家・清光、聖宮、などあるんですが、本社の後ろが石垣になっていて、向かって右手に「大神宮」、左手に「東照大権現」とあります……この構造がなかなか謎で……まあ「東照大権現」はわかりますが、「大神宮」ってなんでしょ……本社に「熊野三神」がいて、「若一王子宮」は「天照大神」だと言っているのですから、それ以上の大神となると「伊弉諾尊」くらいしか思いつかないんですけれど……配置がね。

あ、単に「伊勢神宮」の遥拝所って可能性もありますけれど。

それにしても、明治になって、准勅祭社に選ばれる理由がわかる大きさです。

豊島氏以前のことはよくわからないんでしょうねきっと……現在は「槍祭」と呼ばれている祭礼も、何故「槍(鉾)」なんでしょうか……これは、熊野の本社と関係があるのか(淤能碁呂ごろごろ〜の「アメノヌボコ」でしょうか)。

徳川吉宗」が桜を植えた、というのも『江戸名所図会』では触れられていないわけですが……「鎮花祭」って「大神神社」だけのものではない、んでしたっけ、「白河天皇」の御製にあるようなものだとすると、熊野でも行われていて、それを再現するために八代将軍がんばりました、ってことなのか……「花の窟神社」と関係ありますか?

ううむ……江戸も熊野も、ちょっと勉強が足りませんが、中世の関東地方の知識なんてもうすっぽり抜けてますし、熊野は行きたい行きたいと思いながら、名古屋からは微妙な距離なんですよね……できれば一泊したい……時間がなかなかないもので……本もろくに読めやしない……。

おっと、そうだ、これでおそらく、「東京十社」を制覇(?)したような気がします。
どうしても、出かける頻度として東京が多いので、その周辺を巡っていますが、そろそろ北陸とか行きたいなぁ……ますます時間とお金がね……。

「王子神社」(東京都北区)

9/27。

飛んだなぁ……たまアリでのbig foxの翌日、巣鴨に住んでいた頃には行こうと思ってなかなか行けなかった、王子神社へご参拝。

 

◯こちら===>>>

ojijinja.tokyo.jp

 

飛鳥山には花見に来たことはあるんですけれども、その頃はまだ神社仏閣にそこまでの興味はなかったので……。

 

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社標。

711がやたら迫っていてちょっと驚きました。

 

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鳥居。

 

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いきなり拝殿。

 

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狛犬さん。

躍動感。

 

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拝殿遠景。

 

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「毛塚」。

 

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「関神社」、なのだそうです。

 

「「髪の祖神」関神社由緒略記
御祭神 
蝉丸公  神霊
逆髪姫  神霊
古屋美女 神霊

「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は、延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから、「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代、ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。昭和二十年四月十三日の戦災により社殿消失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四年五月二十四日これを再建せり。」

 

「かつら」はいいとして、現代の人には「かもじ」は馴染みないですね……ええと、「エクステ」みたいなものです(乱暴)。

「蝉丸」公のことは知っていたつもりなのですが、「逆髪姫」のこともぼんやり覚えているのですが、ご姉弟だったとは……勉強不足。

なお、大津の「三尾神社」では、「蝉丸神社」の御朱印もいただけてしまいます。
この間、「三井寺」行ったときにご参拝しようと思ったんですが、時間が……。

 

「毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと長く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。」

 

……この前日に、毛髪のないベーシストの演奏を堪能したなぁ……とふと思ったりしました。

 

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逆光ですが、イチョウの案内板。

 

王子神社イチョウ
(略)
王子神社の創始については、飛鳥山公園内にある「飛鳥山碑」(都指定有形文化財・古文書)に書かれています。それによれば、元亨(げんこう)年間(一三二一〜二四)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、その頃にはこのイチョウが植えられたとすると、六〇〇年近い樹齢と考えられます。戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、このイチョウは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わりを静かに見つめています。」

 

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境内から川の方に降りることができます。

 

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イチョウ

がんばってます。

 

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おっと、由来が最後になりました。

 

王子神社(由来)
御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神 速玉之男命 事解之男命

元亨二年(一三二二)、豊島郡を支配していた豊島氏が熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勘定し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。
王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康社領として二〇〇石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代勝軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。
紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽踊を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。
明治時代にはいると明治元年(一八六八)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。
戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。(以下略)」

 

なるほど、「熊野三社権現」……これまた、まだ参拝に伺っていないもので……なんとなくの知識はあるんですが……勉強不足。

神社名が地名になったパターンなのですね。

確かに、「岸村」よりは「王子村」がいいなぁ……。

写真が少ないですが……多分、雨を警戒していたのかな、となんとなく覚えています(おい)。

 

御朱印

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多分、何年か越しで、東京十社を巡ったと思います……(違ったらすいません)。

引用などは後日〜。

 

「豊国神社」(京都府)

8/30。

大阪のsilver foxを終えて、

 

◯こちら===>>>

近況 - べにーのGinger Booker Club

 

ぶらりと京都へ寄りまして、「蓮華王院」から徒歩で「豊国神社」へ移動。

 

◯こちら===>>>

京都観光Navi:豊国神社

 

公式HPはないのか……。

 

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社標がそびえ立つ。

 

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鳥居は修理中。

 

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手水舎。

葺き直しの最中でしょうか。

 

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五七の桐。

豊臣秀吉」の家紋……家紋なのか馬印なのか(よくわかっていない)。

 

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豊国大明神」の扁額。

 

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入れません……。

 

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唐門の扉が素晴らしかったので。

 

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「豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃◼︎されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。」

 

なるほど、徳川幕府が一度は壊したわけですね。

明治以後、徳川時代の否定もあったのでしょう、名古屋でも「豊国神社」が建立される機運が高まりました。

明治維新関ヶ原の意趣返し、なんて見方もありますから……とはいえ、一度は天下をとりながら、ここまでの扱いをされたのに、怨霊にはなっていないと思われる「豊臣秀吉」、どうしてなんでしょうね……やっぱり徳川が強かったからなのか……。

 

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唐門。

むう、破風の様子なんかが勇壮。

 

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噂の石灯籠……だと思います。

 

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境内社のお稲荷さん。

おキツネさまが何か可愛い。

 

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唐門遠景。

 

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境内、広い。

 

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近くには「耳塚」があります。

「半島における人々の根強い抵抗」……でしたっけ。

まあ、歴史認識の違い、というやつでしょうか……その辺りあまり詳しくないもので。

首を斬るほうが、耳や鼻を削ぐよりまだまし、という風にも読めますね……あんまり違わないと思いますが。

 

御朱印

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さて。

引用するものがね……『都名所図会』というのがあるのですが、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑何しろ、成立は江戸末期なので、「方広寺」「耳塚」はあっても、「豊国神社」はないのです。

一応、それらを引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

122コマです。

 

「大仏殿方広寺 は後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は盧舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向きにして、東西二十七間、南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置く、長は一丈四尺なり。門の内には高麗犬あり。金色にして長七尺。 これは豊国のやしろにありしといふ。 廻廊は南北百二十間、東西百間なり。堂前に建つる石灯籠には、列国諸侯の名を刻む。仏殿の敷石、又正面石垣の大石には、国々出所の名、或は諸侯の紋所等あり。廻廊の外には、桜、紅葉を交へて植ゑたり。
慶長七年十二月四日には、仏殿回禄す。同十五年、右大臣秀頼公ことごとく再営あり。寛文二年、本尊銅像を改めて木像とし給ふ。太閤秀吉公の石塔婆は、仏殿の南にあり。豊国崩れて後これを営みしといふ。塔前の石灯籠には、慶長十年九月とあり。
撞鐘堂は南廻廊の外にあり。四間四方にして、柱の数は十二本なり。鐘の高さ一丈四尺、指わたしは九尺二寸、厚さ一尺。

耳塚 は二王門の前にあり。文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守、加藤肥後守を大将として、数万の軍兵を討取り、首を日本へわたさん事益なければ、◼︎(※「耳」に「刂」)劓して送り、此所に埋み、耳塚といふ。」

 

……ええ、一年が過ぎようとする今は気づいています、「あ、『方広寺』ってあの『方広寺』なんだよな……」って……。

参拝したときに気づいていたような記憶もあるんですけれども……「あの方広寺」というのは、「国家安康」因縁事件、です。

日本史上で一番有名な因縁づけじゃないでしょうか……『まんが日本の歴史』でこれを知った小学生の私は、「ひどいよ家康」と思ったものです……「口実はなんでもいいのだ」という実利主義の「徳川家康」の恐ろしさを垣間見ることのできるエピソードかと。

そんな因縁溢れる「方広寺」の鐘について、『都名所図会』では言及がない、と……まあ、当時の鐘ではないでしょうからな。

「耳」に「刂」という漢字は、なぜかうちのPCではでなかったのですが、「劓」は「はなきり」と読みますので、当然「みみきり」と読むのでしょう……なんだその使い道の一つしかない漢字……と思いつつ、多いですよねそういう感じ、実は。

 

◯こちら===>>>

古事類苑. 神祇部24 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『古事類苑』のほうが、いろいろと資料が載っております(が多すぎてね……)。

冒頭だけでも。

72コマです(カタカナをひらがなにしています)。

 

「豊国神社
豊国神社は、豊臣秀吉朝臣を祀る、秀吉の薨ずるや、之を京都阿弥陀峯に葬り、社を其麓に建て、豊国大明神の号を賜ひ、正一位を授けらる、爾来毎年大中納言を以て勅使と為し奉幣あり、秀吉の嗣子秀頼、一万石を納れて社領と為し、朝廷よりは吉田兼見をして、社務を総括せしめ、萩原兼従神主となり、神龍院梵舜は社僧となる、社殿宏壮にして四月八月両度の祭祀亦極て盛なりき、豊臣氏滅するに至り、徳川氏にて之を毀撤せんとせしが、秀吉室家の哀訴に由り、姑く其事み輟たりしかども、後終に神号を削り、妙法院中に一碑を建て、僅に遺跡を存するに過ぎず、而して社殿は修復を加へず、其頽圯に任することとなり、元和五年には之を妙法院に付し、神官社僧を逐ひ、永く祭祀を挙げず、然れども明暦万治の頃までは、尚ほ僅かに形跡を遺ししが、幾ばくもなくして全く泯滅に帰したり、然るに明治維新の初め、勅ありて更に祠宇を興し、尋て別格官幣社に列せらる。」

 

あー……この時代になると、吉田神道の勉強をしていないと、よくわからないことが多いんですよね……まあとにかく、「豊国大明神」の神号を得た、というのがそうそうないことなのだ、というのはわかります。

神仏混淆の時代、住み分けなのか、さすがに不遜と思うのか、「〜菩薩」という仏教的なものはほしがらないんですね……まあ、戒名はありますが……「八幡大菩薩」以降、歴史上の人物で「〜菩薩」と呼ばれる人はいないんじゃないか……ああ、「神変大菩薩」がいましたが、あの方はもう何だかよくわかりませんから……。

国土を守るのは神の力、なのでしょうかね……「勝軍地蔵」とかありますけれども……でも武家の時代になってからは、「八幡大菩薩」から、「香取大明神」「鹿島大明神」ですからね……純粋な武家ではない秀吉が、「大明神」号を望んだのかどうか、今の私の知識ではよくわかりませんけれども、「豊国大明神」にしろ「東照大権現」にしろ、神号なんだなぁ……というよくわからない感想です。

で、ここまでされても怨霊になっていない「豊臣秀吉」には、何が足らなかったのでしょうか……これが平安鎌倉なら大怨霊だと思うんですけれども……ええ、そうですね、豊臣家への扱いが、秀吉の死後に起こっている、というのがポイントです。

子孫への扱いを、残念ながら秀吉は知らず、本人の大願(それが天下人、だと仮定してですが)は叶ってしまっているので、怨霊になりづらいんでしょうね……「豊臣秀頼」なら資格十分なのですけれども……。

ちょっと淡白ですが、このあたりで。

「豊国神社」「萱津神社」「津島神社」

8/26。

さて、あんまり遠出ができなくなってきたもので、愛知県内をめぐるめぐるの旅。

まずは、「豊国神社」へ。

 

◯以前の記事===>>>

「豊国神社(とよくにじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

近況〜「豊国神社」「妙行寺」(中村区) - べにーのGinger Booker Club

近況(紅葉) - べにーのGinger Booker Club

近況〜「三輪神社」・大須など(名古屋市) - べにーのGinger Booker Club

 

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……中村公園が「秀吉清正公園」てな愛称に……。

しかし案内板が見やすくなったのは好ましい。

 

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ひょうたん。

 

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あ、そうか、思い出した、歌舞伎役者の初代「中村勘三郎」の像が立った、ということで見に来たんでした。

字小さいわ……。

 

豊臣秀吉公・加藤清正公の生誕の地として知られる当地、名古屋中村が生んだもう一人の偉人が初代中村勘三郎である。
初代中村勘三郎は慶長三年(一五九八)頃から万治元年(一六五八)頃までを生きたとされる歌舞伎役者。京都で大蔵流狂言を学び、創作した舞踊は後に「猿若舞」と呼ばれ、当時大変な人気を集めたと伝わっている。それにちなみ、京から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、寛永元年(一六二四)頃、中橋南地(現在の日本橋付近)で、「猿若座」を開設。江戸で初めての常設の芝居小屋であり、初代中村勘三郎江戸歌舞伎の開祖といわれる由縁である。以後、明治まで幕府の認可を受けた江戸三座のうちにあり続けた。
慶安四年(一六五一)頃に堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、この時猿若座の名前も中村座と改められたと言われている。
(略)
出自には諸説あるが、「甲子夜話」(江戸後期)にも「生國尾州愛智郡中村」と記され、祖父右近の兄にあたる中村式部少輔一氏は豊臣三中老の一人であり、秀吉公が織田信長公の臣下にあるうちから仕えていたとの説もあり、当地との浅からぬ縁が伺える。(以下略)」

 

落成式に中村屋の方々がいらっしゃったんでしたっけ、確か(うろ覚え)。

歴史を伝えつつ、地域活性化に生かしてほしいところですが、銅像を立てただけでは……。

 

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昭和感。

 

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そういえばあまり見たことないな、の本殿。

 

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手水舎には金のひょうたんが。

千成瓢箪」といえば「豊臣秀吉」公の馬印……あれ、兜でしたっけ……付近の小学校の校歌にも歌われておリます。

 

ついでに(?)、ちょっと足を伸ばして「萱津神社」へ行ってきました。

 

◯以前の記事===>>>

「萱津神社」 - べにーのGinger Booker Club

「萱津神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

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お久しぶりね、というところで。

 

お久しぶりついでに、「津島神社」にも。

 

◯以前の記事===>>>

「津島神社」(前編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(中編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(後編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(再)2(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

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主に狛犬さん狙いでした。

御朱印

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「神明社」(補)

さて。

まずは、神社でいただいたパンフレットより、御祭神を。

 

・本社:天照太神宮:天照大御神
・摂社:豊受太神宮:豊受大御神
末社
・月読社:月読命伊勢神宮別宮月読宮
・風宮:志那津彦命 志那津姫命:伊勢神宮別宮風日祈宮
・切部之王子社:天照大御神 天忍穂耳命 瓊瓊杵命:和歌山県鎮座切目神社
・日之王子社:彦火々出見命 鵜茅葺不合尊:和歌山県鎮座日之王子社
・鹿島社:経津主神 武甕槌命茨城県鎮座鹿島神宮
・雷神社:別雷命 中筒男命京都府鎮座賀茂別雷神社
・白鳥社:日本武尊:東京都鎮座御嶽神社
・火産社:火産霊神静岡県鎮座秋葉神社
・山神社:大山祇命:神奈川県鎮座大山阿付利神社
・山王社:大山咋命滋賀県鎮座日吉大社
厳島社:市杵島姫命:神奈川県鎮座江島神社
・見目社:見目大神:静岡県鎮座白浜神社
天満宮菅原道真朝臣京都府鎮座北野天満宮
・稲荷社:宇迦之御魂神 素戔嗚命京都府鎮座伏見稲荷大社
・水神社:水波能女神 御井

 

御神徳は飛ばしましたが、様々……本社と思われるものがあっても、神奈川県の神社から勧請しているようなお方もいらっしゃる。

 

続いて、

 

◯こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

横浜市史稿』、ありがとう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに置き換えたところあり)。
260ページです。

 

「三二 神明社
神明社は、保土ヶ谷区神戸下町字宿後五百八十九番地に鎮座する。(略)
天文二十四年の当社縁起に據れば、天禄元年、伊勢大神宮が、武州御厨庄榛谷峯に影向あつて、それから川井へ移り、又二俣川に鎮座し、又更に下保土ヶ谷の宮林と云ふ地に徒つたので、其所の八坂と云ふ地に祀つた。然るに嘉禄元年神託があつて、此神戸の地に神明の下宮を建て、神宮寺を満福寺と名けたと云ふ。まことに信を措くことおん出来ぬふしが多いが、とにかく古社であることは否み難い。天正十八年、徳川氏入国の時、社殿の造営行はれたと云ふが、棟札の最も古いものの中に、元和五年のものがあるよし、風土記稿に見える。今の社殿は、明治二年、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てた鳳輦安置所の材を下賜されて修営したものである。明治六年、村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
(略)
史料
[新編武蔵風土記稿]神明社神戸町の内にあり。下岩間町まで大門通れり。今、保土ヶ谷神戸町の鎮守とす。(略)今神主がもとに伝ふる所は、この時始て鎮座なしけるやうにもいへり。もとより天禄の影向と云ものは、いとふるき世の事なれば、果して其実をつたへしにや否を知べからず。祭禮毎年六月十六日、九月十六日。
(略)
末社 五座相殿社。社地に入て左の方にあり、豊受大神宮・日神・天神・切部・見目の五座の神を祀れり。
四座相殿社。本社の左の方にあり、月神・雨神・風神・山神等の四座を祀れり。
御嶽社。社の後方にあり。
(略)
武蔵国榛谷御厨庄之内
神戸神明濫觴之事。
抑当宮之開起者、天禄元年庚午、伊勢天照皇大神宮飛来給、武州御厨谷庄之内、榛谷之峯影向、従其川井、有御飛従川井、又二俣川御移、御座所仮宿云。従二俣川、又下保土谷宮林云所、御影移給間、同所八坂云所奉祝、二成暫住給。然嘉禄元年乙酉、或少女託宣、吾出法性真如都、仮交分段同居之塵以降、垂一天四海跡和率土萬國光中、猶今、当国当郡和光同塵、守護一切衆生生晝夜思也。我得鎮座云。其時彼少女之云、目顔浄布懸言御託宣云、

伊勢の神ここに飛くるしるしにはうつす御影ををかめもろ人

少女様々自託給、時天光物飛散、雷電鳴渡、今二成奉崇神明、御伊勢御正体申。下宮造、在所、号神戸神宮寺名満福寺、経蔵堂称神照寺、弘法大師御作之愛染明王今御座。是則顕深之本地給者歟。末社、雨宮・風三郎殿・切辺之王子・日王子・高根明神・稲荷・天神・山王・見目等也。倩見此地形體、伊勢国度会郡御本社之霊地少不違。先有高間原。是宮云宮川、是神戸川云。有五十鈴川、是小帷子川云。有御裳濯川、爰古部川云。有大湊、爰神奈川前云。有二見浦、爰宮崎云。有大橋、爰小帷子橋云。有宇治橋、爰神戸橋云。其外、外宮・内宮、山田・三方・宇治・朝熊嶽之景地相似。肆法企之勧請成。自然之宮立質也。依之武蔵二十四郡之内、十郡之守護神別者、御厨谷八郷之鎮守也。爰以昔年七十五度有祭祀田。此外五度之御供免一二三四之有禰宜。有神主、有八乙女、二十五人之有社人、六口之有供僧巫女。斯上代雖美々敷、今神領被収間、其形計也。加様之旨趣、(略)」

 

『新編武蔵風土記稿』に掲載されていた伝承が、最後の部分です。

神がかるのは乙女、と相場が決まっているのでまぁいいとしまして、どうやらこの「神明社」の辺りが伊勢に似ているのだ、ということが述べられておりまして、正当性を説明している、ということでしょうか。

ちょっと無理ないかな……と思ったりします(現代、そのような説が無視されているのはそのためでしょうか)。

あるいは、パンフレットによれば、

 

「◼︎本居宣長神明社
当神社の江戸時代の神主岡田刑部は、国学者本居宣長と姻戚関係にありました。刑部の孫娘りゅうが宣長の次男恭次郎に嫁いだことから、折々の書簡が残され、その多くが本居宣長全集に収められています。」

 

とありますので、ここからの入れ知恵だったりするのかもしれません。

こうした牽強付会がなくとも、平安時代には「伊勢神宮」の神領だったようです。

いずれ、古い「神明社」であることには間違いないでしょう。

 

 

ふう、考察も何もない。                   

「神明社」(横浜市保土ヶ谷区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

さて、もういい加減一年遅れの記事を書くのがしんどくなってきましたが、「橘樹神社」をあとにしまして、神明社へ向かいました。

 

◯こちら===>>>

www.shinmeisya.or.jp

 

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鳥居。

 

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神明社由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)

今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(九七〇)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井・二俣川・下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(一二二五)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年(一六一九)宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ、神饌幣帛供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座一〇三〇年祭・当地遷座七七〇祭・伊勢神宮鎮座二〇〇〇年祭を記念して「平成の御造営」が行われ、三八〇年ぶりに御本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。平成十二年四月、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。(略)」

 

かつて、主に大寺院や大神社は寺領・神領を各地に備えており、そこから献上品を得ていたもの、と思われます。

宗教勢力が領主化する、というのは洋の東西を問わないわけですね。

そういった辺りから、ヨーロッパと日本の封建制について検討してみるのもいいかもしれません(誰宛て?)。

 

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参道。

かなり長いですね(そして、なかなか効果的な樹木の配置です)。

 

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拝殿前。

 

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なぜか境内社の「水神社」。

御祭神が少し小さくて読めません……また後で。

 

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「稲荷社」。

 

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本殿ちらり。

 

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「月読社」と「風宮」。

 

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拝殿をくぐる地下道がありました……なんだろう、「五百羅漢寺」的な作りなのだろうか(あれ、「吉備津神社」か「吉備津彦神社」もこんな感じだったかな……。

 

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「切部之王子社」「日之王子社」「鹿島社」。

 

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気になったのでアップで撮影。

「切部之王子社」は和歌山の「切目神社」、「日之王子社」は同じく和歌山の「日之王子社」から勧請しているようです。

 

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こちらも境内社

奥から「雷神社」(賀茂別雷神社)、「山神社」(大山阿夫利神社)、「山王社」(日吉大社)、「火産社」(秋葉神社)、「白鳥社」(御嶽神社)、「見目社」(白浜神社)、「厳島社」(江島神社)。

存じ上げない神社も多い……勉強不足……。

 

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おいなりさんの小祠、だと思います。

 

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おキツネ様……だよなぁ……。

 

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柱が影になって……。

 

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社殿向かって右手から。

神明造、平入。

 

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ちょっと下がってみました。

 

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再びの入り口。

 

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石灯籠なのですが、笠の部分には「卍」が、火袋には如意輪があります。

神仏習合の名残、でしょうか。

 

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参道からの社殿遠景。

 

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おまけ……どこで撮影したんだっけな……の庚申塔、お地蔵様。

 

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御朱印

 

ふう、やっと横浜ほにゃらら紀行最後の記事……あ、引用などは次回に〜。