べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「豊国神社」(京都府)

8/30。

大阪のsilver foxを終えて、

 

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近況 - べにーのGinger Booker Club

 

ぶらりと京都へ寄りまして、「蓮華王院」から徒歩で「豊国神社」へ移動。

 

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京都観光Navi:豊国神社

 

公式HPはないのか……。

 

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社標がそびえ立つ。

 

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鳥居は修理中。

 

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手水舎。

葺き直しの最中でしょうか。

 

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五七の桐。

豊臣秀吉」の家紋……家紋なのか馬印なのか(よくわかっていない)。

 

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豊国大明神」の扁額。

 

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入れません……。

 

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唐門の扉が素晴らしかったので。

 

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「豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃◼︎されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。」

 

なるほど、徳川幕府が一度は壊したわけですね。

明治以後、徳川時代の否定もあったのでしょう、名古屋でも「豊国神社」が建立される機運が高まりました。

明治維新関ヶ原の意趣返し、なんて見方もありますから……とはいえ、一度は天下をとりながら、ここまでの扱いをされたのに、怨霊にはなっていないと思われる「豊臣秀吉」、どうしてなんでしょうね……やっぱり徳川が強かったからなのか……。

 

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唐門。

むう、破風の様子なんかが勇壮。

 

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噂の石灯籠……だと思います。

 

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境内社のお稲荷さん。

おキツネさまが何か可愛い。

 

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唐門遠景。

 

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境内、広い。

 

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近くには「耳塚」があります。

「半島における人々の根強い抵抗」……でしたっけ。

まあ、歴史認識の違い、というやつでしょうか……その辺りあまり詳しくないもので。

首を斬るほうが、耳や鼻を削ぐよりまだまし、という風にも読めますね……あんまり違わないと思いますが。

 

御朱印

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さて。

引用するものがね……『都名所図会』というのがあるのですが、

 

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大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑何しろ、成立は江戸末期なので、「方広寺」「耳塚」はあっても、「豊国神社」はないのです。

一応、それらを引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

122コマです。

 

「大仏殿方広寺 は後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は盧舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向きにして、東西二十七間、南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置く、長は一丈四尺なり。門の内には高麗犬あり。金色にして長七尺。 これは豊国のやしろにありしといふ。 廻廊は南北百二十間、東西百間なり。堂前に建つる石灯籠には、列国諸侯の名を刻む。仏殿の敷石、又正面石垣の大石には、国々出所の名、或は諸侯の紋所等あり。廻廊の外には、桜、紅葉を交へて植ゑたり。
慶長七年十二月四日には、仏殿回禄す。同十五年、右大臣秀頼公ことごとく再営あり。寛文二年、本尊銅像を改めて木像とし給ふ。太閤秀吉公の石塔婆は、仏殿の南にあり。豊国崩れて後これを営みしといふ。塔前の石灯籠には、慶長十年九月とあり。
撞鐘堂は南廻廊の外にあり。四間四方にして、柱の数は十二本なり。鐘の高さ一丈四尺、指わたしは九尺二寸、厚さ一尺。

耳塚 は二王門の前にあり。文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守、加藤肥後守を大将として、数万の軍兵を討取り、首を日本へわたさん事益なければ、◼︎(※「耳」に「刂」)劓して送り、此所に埋み、耳塚といふ。」

 

……ええ、一年が過ぎようとする今は気づいています、「あ、『方広寺』ってあの『方広寺』なんだよな……」って……。

参拝したときに気づいていたような記憶もあるんですけれども……「あの方広寺」というのは、「国家安康」因縁事件、です。

日本史上で一番有名な因縁づけじゃないでしょうか……『まんが日本の歴史』でこれを知った小学生の私は、「ひどいよ家康」と思ったものです……「口実はなんでもいいのだ」という実利主義の「徳川家康」の恐ろしさを垣間見ることのできるエピソードかと。

そんな因縁溢れる「方広寺」の鐘について、『都名所図会』では言及がない、と……まあ、当時の鐘ではないでしょうからな。

「耳」に「刂」という漢字は、なぜかうちのPCではでなかったのですが、「劓」は「はなきり」と読みますので、当然「みみきり」と読むのでしょう……なんだその使い道の一つしかない漢字……と思いつつ、多いですよねそういう感じ、実は。

 

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古事類苑. 神祇部24 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『古事類苑』のほうが、いろいろと資料が載っております(が多すぎてね……)。

冒頭だけでも。

72コマです(カタカナをひらがなにしています)。

 

「豊国神社
豊国神社は、豊臣秀吉朝臣を祀る、秀吉の薨ずるや、之を京都阿弥陀峯に葬り、社を其麓に建て、豊国大明神の号を賜ひ、正一位を授けらる、爾来毎年大中納言を以て勅使と為し奉幣あり、秀吉の嗣子秀頼、一万石を納れて社領と為し、朝廷よりは吉田兼見をして、社務を総括せしめ、萩原兼従神主となり、神龍院梵舜は社僧となる、社殿宏壮にして四月八月両度の祭祀亦極て盛なりき、豊臣氏滅するに至り、徳川氏にて之を毀撤せんとせしが、秀吉室家の哀訴に由り、姑く其事み輟たりしかども、後終に神号を削り、妙法院中に一碑を建て、僅に遺跡を存するに過ぎず、而して社殿は修復を加へず、其頽圯に任することとなり、元和五年には之を妙法院に付し、神官社僧を逐ひ、永く祭祀を挙げず、然れども明暦万治の頃までは、尚ほ僅かに形跡を遺ししが、幾ばくもなくして全く泯滅に帰したり、然るに明治維新の初め、勅ありて更に祠宇を興し、尋て別格官幣社に列せらる。」

 

あー……この時代になると、吉田神道の勉強をしていないと、よくわからないことが多いんですよね……まあとにかく、「豊国大明神」の神号を得た、というのがそうそうないことなのだ、というのはわかります。

神仏混淆の時代、住み分けなのか、さすがに不遜と思うのか、「〜菩薩」という仏教的なものはほしがらないんですね……まあ、戒名はありますが……「八幡大菩薩」以降、歴史上の人物で「〜菩薩」と呼ばれる人はいないんじゃないか……ああ、「神変大菩薩」がいましたが、あの方はもう何だかよくわかりませんから……。

国土を守るのは神の力、なのでしょうかね……「勝軍地蔵」とかありますけれども……でも武家の時代になってからは、「八幡大菩薩」から、「香取大明神」「鹿島大明神」ですからね……純粋な武家ではない秀吉が、「大明神」号を望んだのかどうか、今の私の知識ではよくわかりませんけれども、「豊国大明神」にしろ「東照大権現」にしろ、神号なんだなぁ……というよくわからない感想です。

で、ここまでされても怨霊になっていない「豊臣秀吉」には、何が足らなかったのでしょうか……これが平安鎌倉なら大怨霊だと思うんですけれども……ええ、そうですね、豊臣家への扱いが、秀吉の死後に起こっている、というのがポイントです。

子孫への扱いを、残念ながら秀吉は知らず、本人の大願(それが天下人、だと仮定してですが)は叶ってしまっているので、怨霊になりづらいんでしょうね……「豊臣秀頼」なら資格十分なのですけれども……。

ちょっと淡白ですが、このあたりで。

「豊国神社」「萱津神社」「津島神社」

8/26。

さて、あんまり遠出ができなくなってきたもので、愛知県内をめぐるめぐるの旅。

まずは、「豊国神社」へ。

 

◯以前の記事===>>>

「豊国神社(とよくにじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

近況〜「豊国神社」「妙行寺」(中村区) - べにーのGinger Booker Club

近況(紅葉) - べにーのGinger Booker Club

近況〜「三輪神社」・大須など(名古屋市) - べにーのGinger Booker Club

 

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……中村公園が「秀吉清正公園」てな愛称に……。

しかし案内板が見やすくなったのは好ましい。

 

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ひょうたん。

 

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あ、そうか、思い出した、歌舞伎役者の初代「中村勘三郎」の像が立った、ということで見に来たんでした。

字小さいわ……。

 

豊臣秀吉公・加藤清正公の生誕の地として知られる当地、名古屋中村が生んだもう一人の偉人が初代中村勘三郎である。
初代中村勘三郎は慶長三年(一五九八)頃から万治元年(一六五八)頃までを生きたとされる歌舞伎役者。京都で大蔵流狂言を学び、創作した舞踊は後に「猿若舞」と呼ばれ、当時大変な人気を集めたと伝わっている。それにちなみ、京から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、寛永元年(一六二四)頃、中橋南地(現在の日本橋付近)で、「猿若座」を開設。江戸で初めての常設の芝居小屋であり、初代中村勘三郎江戸歌舞伎の開祖といわれる由縁である。以後、明治まで幕府の認可を受けた江戸三座のうちにあり続けた。
慶安四年(一六五一)頃に堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、この時猿若座の名前も中村座と改められたと言われている。
(略)
出自には諸説あるが、「甲子夜話」(江戸後期)にも「生國尾州愛智郡中村」と記され、祖父右近の兄にあたる中村式部少輔一氏は豊臣三中老の一人であり、秀吉公が織田信長公の臣下にあるうちから仕えていたとの説もあり、当地との浅からぬ縁が伺える。(以下略)」

 

落成式に中村屋の方々がいらっしゃったんでしたっけ、確か(うろ覚え)。

歴史を伝えつつ、地域活性化に生かしてほしいところですが、銅像を立てただけでは……。

 

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昭和感。

 

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そういえばあまり見たことないな、の本殿。

 

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手水舎には金のひょうたんが。

千成瓢箪」といえば「豊臣秀吉」公の馬印……あれ、兜でしたっけ……付近の小学校の校歌にも歌われておリます。

 

ついでに(?)、ちょっと足を伸ばして「萱津神社」へ行ってきました。

 

◯以前の記事===>>>

「萱津神社」 - べにーのGinger Booker Club

「萱津神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

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お久しぶりね、というところで。

 

お久しぶりついでに、「津島神社」にも。

 

◯以前の記事===>>>

「津島神社」(前編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(中編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(後編) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(再)2(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

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主に狛犬さん狙いでした。

御朱印

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「神明社」(補)

さて。

まずは、神社でいただいたパンフレットより、御祭神を。

 

・本社:天照太神宮:天照大御神
・摂社:豊受太神宮:豊受大御神
末社
・月読社:月読命伊勢神宮別宮月読宮
・風宮:志那津彦命 志那津姫命:伊勢神宮別宮風日祈宮
・切部之王子社:天照大御神 天忍穂耳命 瓊瓊杵命:和歌山県鎮座切目神社
・日之王子社:彦火々出見命 鵜茅葺不合尊:和歌山県鎮座日之王子社
・鹿島社:経津主神 武甕槌命茨城県鎮座鹿島神宮
・雷神社:別雷命 中筒男命京都府鎮座賀茂別雷神社
・白鳥社:日本武尊:東京都鎮座御嶽神社
・火産社:火産霊神静岡県鎮座秋葉神社
・山神社:大山祇命:神奈川県鎮座大山阿付利神社
・山王社:大山咋命滋賀県鎮座日吉大社
厳島社:市杵島姫命:神奈川県鎮座江島神社
・見目社:見目大神:静岡県鎮座白浜神社
天満宮菅原道真朝臣京都府鎮座北野天満宮
・稲荷社:宇迦之御魂神 素戔嗚命京都府鎮座伏見稲荷大社
・水神社:水波能女神 御井

 

御神徳は飛ばしましたが、様々……本社と思われるものがあっても、神奈川県の神社から勧請しているようなお方もいらっしゃる。

 

続いて、

 

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横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

横浜市史稿』、ありがとう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに置き換えたところあり)。
260ページです。

 

「三二 神明社
神明社は、保土ヶ谷区神戸下町字宿後五百八十九番地に鎮座する。(略)
天文二十四年の当社縁起に據れば、天禄元年、伊勢大神宮が、武州御厨庄榛谷峯に影向あつて、それから川井へ移り、又二俣川に鎮座し、又更に下保土ヶ谷の宮林と云ふ地に徒つたので、其所の八坂と云ふ地に祀つた。然るに嘉禄元年神託があつて、此神戸の地に神明の下宮を建て、神宮寺を満福寺と名けたと云ふ。まことに信を措くことおん出来ぬふしが多いが、とにかく古社であることは否み難い。天正十八年、徳川氏入国の時、社殿の造営行はれたと云ふが、棟札の最も古いものの中に、元和五年のものがあるよし、風土記稿に見える。今の社殿は、明治二年、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てた鳳輦安置所の材を下賜されて修営したものである。明治六年、村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
(略)
史料
[新編武蔵風土記稿]神明社神戸町の内にあり。下岩間町まで大門通れり。今、保土ヶ谷神戸町の鎮守とす。(略)今神主がもとに伝ふる所は、この時始て鎮座なしけるやうにもいへり。もとより天禄の影向と云ものは、いとふるき世の事なれば、果して其実をつたへしにや否を知べからず。祭禮毎年六月十六日、九月十六日。
(略)
末社 五座相殿社。社地に入て左の方にあり、豊受大神宮・日神・天神・切部・見目の五座の神を祀れり。
四座相殿社。本社の左の方にあり、月神・雨神・風神・山神等の四座を祀れり。
御嶽社。社の後方にあり。
(略)
武蔵国榛谷御厨庄之内
神戸神明濫觴之事。
抑当宮之開起者、天禄元年庚午、伊勢天照皇大神宮飛来給、武州御厨谷庄之内、榛谷之峯影向、従其川井、有御飛従川井、又二俣川御移、御座所仮宿云。従二俣川、又下保土谷宮林云所、御影移給間、同所八坂云所奉祝、二成暫住給。然嘉禄元年乙酉、或少女託宣、吾出法性真如都、仮交分段同居之塵以降、垂一天四海跡和率土萬國光中、猶今、当国当郡和光同塵、守護一切衆生生晝夜思也。我得鎮座云。其時彼少女之云、目顔浄布懸言御託宣云、

伊勢の神ここに飛くるしるしにはうつす御影ををかめもろ人

少女様々自託給、時天光物飛散、雷電鳴渡、今二成奉崇神明、御伊勢御正体申。下宮造、在所、号神戸神宮寺名満福寺、経蔵堂称神照寺、弘法大師御作之愛染明王今御座。是則顕深之本地給者歟。末社、雨宮・風三郎殿・切辺之王子・日王子・高根明神・稲荷・天神・山王・見目等也。倩見此地形體、伊勢国度会郡御本社之霊地少不違。先有高間原。是宮云宮川、是神戸川云。有五十鈴川、是小帷子川云。有御裳濯川、爰古部川云。有大湊、爰神奈川前云。有二見浦、爰宮崎云。有大橋、爰小帷子橋云。有宇治橋、爰神戸橋云。其外、外宮・内宮、山田・三方・宇治・朝熊嶽之景地相似。肆法企之勧請成。自然之宮立質也。依之武蔵二十四郡之内、十郡之守護神別者、御厨谷八郷之鎮守也。爰以昔年七十五度有祭祀田。此外五度之御供免一二三四之有禰宜。有神主、有八乙女、二十五人之有社人、六口之有供僧巫女。斯上代雖美々敷、今神領被収間、其形計也。加様之旨趣、(略)」

 

『新編武蔵風土記稿』に掲載されていた伝承が、最後の部分です。

神がかるのは乙女、と相場が決まっているのでまぁいいとしまして、どうやらこの「神明社」の辺りが伊勢に似ているのだ、ということが述べられておりまして、正当性を説明している、ということでしょうか。

ちょっと無理ないかな……と思ったりします(現代、そのような説が無視されているのはそのためでしょうか)。

あるいは、パンフレットによれば、

 

「◼︎本居宣長神明社
当神社の江戸時代の神主岡田刑部は、国学者本居宣長と姻戚関係にありました。刑部の孫娘りゅうが宣長の次男恭次郎に嫁いだことから、折々の書簡が残され、その多くが本居宣長全集に収められています。」

 

とありますので、ここからの入れ知恵だったりするのかもしれません。

こうした牽強付会がなくとも、平安時代には「伊勢神宮」の神領だったようです。

いずれ、古い「神明社」であることには間違いないでしょう。

 

 

ふう、考察も何もない。                   

「神明社」(横浜市保土ヶ谷区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

さて、もういい加減一年遅れの記事を書くのがしんどくなってきましたが、「橘樹神社」をあとにしまして、神明社へ向かいました。

 

◯こちら===>>>

www.shinmeisya.or.jp

 

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鳥居。

 

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神明社由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)

今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(九七〇)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井・二俣川・下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(一二二五)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年(一六一九)宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ、神饌幣帛供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座一〇三〇年祭・当地遷座七七〇祭・伊勢神宮鎮座二〇〇〇年祭を記念して「平成の御造営」が行われ、三八〇年ぶりに御本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。平成十二年四月、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。(略)」

 

かつて、主に大寺院や大神社は寺領・神領を各地に備えており、そこから献上品を得ていたもの、と思われます。

宗教勢力が領主化する、というのは洋の東西を問わないわけですね。

そういった辺りから、ヨーロッパと日本の封建制について検討してみるのもいいかもしれません(誰宛て?)。

 

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参道。

かなり長いですね(そして、なかなか効果的な樹木の配置です)。

 

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拝殿前。

 

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なぜか境内社の「水神社」。

御祭神が少し小さくて読めません……また後で。

 

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「稲荷社」。

 

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本殿ちらり。

 

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「月読社」と「風宮」。

 

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拝殿をくぐる地下道がありました……なんだろう、「五百羅漢寺」的な作りなのだろうか(あれ、「吉備津神社」か「吉備津彦神社」もこんな感じだったかな……。

 

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「切部之王子社」「日之王子社」「鹿島社」。

 

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気になったのでアップで撮影。

「切部之王子社」は和歌山の「切目神社」、「日之王子社」は同じく和歌山の「日之王子社」から勧請しているようです。

 

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こちらも境内社

奥から「雷神社」(賀茂別雷神社)、「山神社」(大山阿夫利神社)、「山王社」(日吉大社)、「火産社」(秋葉神社)、「白鳥社」(御嶽神社)、「見目社」(白浜神社)、「厳島社」(江島神社)。

存じ上げない神社も多い……勉強不足……。

 

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おいなりさんの小祠、だと思います。

 

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おキツネ様……だよなぁ……。

 

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柱が影になって……。

 

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社殿向かって右手から。

神明造、平入。

 

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ちょっと下がってみました。

 

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再びの入り口。

 

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石灯籠なのですが、笠の部分には「卍」が、火袋には如意輪があります。

神仏習合の名残、でしょうか。

 

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参道からの社殿遠景。

 

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おまけ……どこで撮影したんだっけな……の庚申塔、お地蔵様。

 

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御朱印

 

ふう、やっと横浜ほにゃらら紀行最後の記事……あ、引用などは次回に〜。

近況

ついに追いつかれた……ので、最近の動向などを。

 

6/2。

大須の「三輪神社」です。

 

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月参です。

6/9。

岡崎の「菅生神社」にて、新しい御朱印帳の頒布がはじまった、ということで、珍しく御朱印帳のために参拝。

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実物はもっと美しいです……この御朱印帳に、徳川所縁の御朱印をいただいていこう、とプチテーマ設定。

 

神社の写真がないですが、6/30に再び「三輪神社」へ。

夏越の大祓。

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7/7。

再びの「三輪神社」。

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七夕限定の書置きの御朱印

 

◯こちら===>>>

「春日神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前こちらの記事で、牧氏は「大和を再現したかったのではないか」とか書いたのですが、「三輪神社」の案内板にきちんと、

 

「元亀年間(一五七〇年)奈良桜井三輪町から小林城(現在の矢場町交差点辺り)に移った城主、牧若狭守長清が生まれ故郷の三輪山に鎮まります大物主大神大国主大神)を祭ったと伝えられています。」

 

と書かれていました。

謎は全て解けた。

 

7/14。

所用で上京したので、とりあえず。

 

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上野東照宮」、やっぱいいですなぁ……。

あと、「五條天神社」も寄ったので。

 

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ほぼ狛犬さんだけです。

お次は芝へ。

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増上寺」……「詳細はホームページを……」て随分開き直ってるなぁ。

 

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芝東照宮」。

こちらも狛犬さんばかり。

 

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増上寺」ではお手軽お写経を行なって、「南無阿弥陀仏」の御朱印(書置き)をいただきました。

 

7/27。

「三輪神社」再び。

 

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 という感じです〜。

「橘樹神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

他に文献探さないのねそうなのね、というわけで、『横浜市史稿』です今回も(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

268ページです。

 

「三三 橘樹神社
橘樹神社は、保土ケ谷区天王町三百八十三・四番地に跨つて鎮座し、境内は二段一畝二十七歩、同町の鎮守である。
明細帳に據れば、文治二年に源頼朝が、天下の平定を賀して、尚、子孫の繁栄を祈らんがために、国中の大小神祇を奉幣して、祭祀の典を行はれた時の創建であると云ふ。中世に於て永正七年の兵火と、文政八年との両度、回禄の厄に罹つて旧記等は悉く烏有に帰し、沿革等は詳かに知る事を得ないが、口碑に據れば、文治二年九月、京都の祇園社から分霊を勧請し奉祀した所で、当社も又祇園社と称したのであつた。永正七年七月、上杉治部少輔の家臣上田蔵人が、北条早雲に一味して、神奈川の権現川の管領の軍と合戦した時に、当社及び付近の民家を共に兵火に滅盡せしめたので、翌八年に社殿の造営を行つて後、徳川氏に至り、牛頭天王社とも称したのであつた。当時は村内の遍照院が別当となつて居た。文政の回禄後、天保十三年、時の代官たる関保右衛門が名主苅部清兵衛・年寄大須吉右衛門・足立平兵衛・氏子総代岡野勘四郎・石田萬蔵・足立善兵衛。磯貝萬右衛門等に諮り、金一千二百両を以て、本殿及び拝殿の再建を遂げた。今の本殿は、その当時の再建に係るものである。爾来、星霜を重ねて、更に大正十二年九月に至り、震災のために社殿が大破に帰したので、これが再建を企画起工し、昭和四年九月、拝殿・覆電・幣殿・水屋等の落成を告げて、同月十四日に落成式を挙行した。当社は明治六年、村社に列せられ、又、大正五年十月十三日、神饌幣帛料供進社に指定せられたのである。
祭神は素戔嗚命
(略)
境内末社は左の如くである。
神明社。祭神は天照皇大神・国常立命・阿夜訶志古泥命・宇迦乃魂命・猿田彦命。由緒は不詳。(略)
三保神社。祭神は大山咋命・斎火彦霊命・天児屋根命。由緒は不詳。(略)
豊営神社。祭神は市杵島比賣命・玉依姫命・誉田別尊。由緒は不詳。(略)

史料
[新編武蔵風土記稿]牛頭天王社。(帷子町)帷子川ノ辺、縄手ニテ、江戸ノ方ヨリ宿ヘ入所ノ右ニアリ。相伝フ当社ノ神体ハ、モト仏向村ノ内寶寺ト号スル寺ニアリシモノナリシガ、戦争ノ間、破却セラレシ頃、此神体帷子川ヘ入テ流レ来リシヲ、其辺ノ百姓等三人ニテ取アゲ、今ノ所ヘ社を造リマツレリト。此ニヨリテ今モ社修造ノ後、遷座ノタビゴトニ彼三人ノ子孫進退セリト云。(略)神体秘物ナレバトテ、後口ヘ向ケテ座セリ。故ニ祈願ノアル者ハ、社ノ後ノ方ヘ廻リテ拝スト云。(略)
末社 五座相殿社。本社ノ左ノ方ニアリ。山王権現・天神・三法荒神・第六天・蔵王権現ノ五社ナリ。
四座相殿社。本社ノ右ノ方ニアリ。御嶽権現・稲荷・八宮・弁財天ノ四座ヲ合祀セリ。」

 

うむ、当時の境内社どころか、昭和の頃の境内社もきちんと見つけられていませんな……急いでたのかな……。

どうも『新編武蔵風土記稿』の記事によれば、廃棄された御神体(何かは不明)が川を流れて来て、よっこいしょと百姓が三人拾い上げた……あれ、どこかで聞きましたねこの話。

 

◯こちら===>>>

「浅草神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

「漆部神社」(あま市)(再) - べにーのGinger Booker Club



↑これですね。

拾った仏像を祀って、祀った人も祀られちゃう、っていうのは「善光寺」もそうでしょうか。

このネタ、日本人はよほどお好きなようです。

浅草神社」が古いのか、「善光寺」が古いのか、さてはて。

 

「神体秘物ナレバトテ、後口ヘ向ケテ座セリ。故ニ祈願ノアル者ハ、社ノ後ノ方ヘ廻リテ拝スト云。」

 

↑この辺りから、天台宗の「後戸の神」が想起されますね……ということで、結構な感じで後世の牽強付会だと思いますけれども、まあ、日本人が好きなネタということで。

 

(ああ、8月なのに、去年の8月の記事が終わらない……)。

「橘樹神社」(横浜市保土ケ谷区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

昼の所用まで、まだ時間が少しあったので、「橘樹(たちばな)神社」へ行ってみました。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

↑ありがとう神奈川県神社庁さん。

 

 

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いきなり拝殿です申し訳ない。

 

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「石盥盤」。

 

保土ケ谷区郷土史に天王社へ江戸より石盥盤寄進せらる延宝六年霜月と明記されている」

 

そうです。

確かに刻文もそうなってますね。

 

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その隣に「力石」。

 

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境内にあった庚申塔

 

青面金剛
◯寛文九年(一六六九年)二月合掌六手青面金剛
青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。青面金剛像は、寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。
青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は、弓矢のかわりに、羂索と棒を持っている。赤面金剛は、もと流行病を流行らせる悪鬼であったがのち改心して病を駆逐する善神になったとされている。儀軌に示された青面金剛は、三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるがこの像はこれに合掌二手を付け加えて善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。
青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。(略)」

 

確かに、珍しいですね、円髪。

大津絵か……名前は聞いたことありますけれども、勉強せんと……。

 

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脇の鳥居。

 

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拝殿正面から。

 

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狛犬さんが凛々しい……耳の造形が珍しいように思います。

 

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凛々しいので、つい。

 

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明治天皇が東幸された記念の碑、ですね。

東海道を通られたと思うので、この辺りも通られたということでしょうか。

 

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境内社の「神明社」。

 

神明社再建に誌す
祭神 天照大神豊受大神稲荷大神猿田彦神
神明社は、その縁由詳ならずと雖も 峰岡町壱丁目六拾番地(俗称お伊勢山)の地を旧地とす。
該地より土師瓦の出土せるあり、又、旧幕時代當社除地弐反三畝十歩と録せる文書を存す。
新編武蔵風土記稿によれば、當時、牛頭天王社(現橘樹神社)と並び存して、前に鳥居を立てるを知る。
昭和二十年四月、未曾有の空襲に遭い附近一帯の民家と共に祝融の災を受けて烏有に帰す。
然れ共、神徳彌赫灼として、戦災の復興を照覧し給い、遂に街衢人煙の殷賑旧に倍し、橘樹神社楽殿亦成るに及びて氏子有志相議り爰に寶殿一宇を再建し、以て恩頼に報い奉らんとす。(略)」

 

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参道。

 

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社標。

 

御朱印をいただけるようでしたが、神職さんがいなかったのかな……。

引用などはまた次回に〜。