べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「橘樹神社」(横浜市保土ケ谷区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

昼の所用まで、まだ時間が少しあったので、「橘樹(たちばな)神社」へ行ってみました。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

↑ありがとう神奈川県神社庁さん。

 

 

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いきなり拝殿です申し訳ない。

 

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「石盥盤」。

 

保土ケ谷区郷土史に天王社へ江戸より石盥盤寄進せらる延宝六年霜月と明記されている」

 

そうです。

確かに刻文もそうなってますね。

 

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その隣に「力石」。

 

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境内にあった庚申塔

 

青面金剛
◯寛文九年(一六六九年)二月合掌六手青面金剛
青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。青面金剛像は、寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。
青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は、弓矢のかわりに、羂索と棒を持っている。赤面金剛は、もと流行病を流行らせる悪鬼であったがのち改心して病を駆逐する善神になったとされている。儀軌に示された青面金剛は、三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるがこの像はこれに合掌二手を付け加えて善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。
青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。(略)」

 

確かに、珍しいですね、円髪。

大津絵か……名前は聞いたことありますけれども、勉強せんと……。

 

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脇の鳥居。

 

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拝殿正面から。

 

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狛犬さんが凛々しい……耳の造形が珍しいように思います。

 

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凛々しいので、つい。

 

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明治天皇が東幸された記念の碑、ですね。

東海道を通られたと思うので、この辺りも通られたということでしょうか。

 

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境内社の「神明社」。

 

神明社再建に誌す
祭神 天照大神豊受大神稲荷大神猿田彦神
神明社は、その縁由詳ならずと雖も 峰岡町壱丁目六拾番地(俗称お伊勢山)の地を旧地とす。
該地より土師瓦の出土せるあり、又、旧幕時代當社除地弐反三畝十歩と録せる文書を存す。
新編武蔵風土記稿によれば、當時、牛頭天王社(現橘樹神社)と並び存して、前に鳥居を立てるを知る。
昭和二十年四月、未曾有の空襲に遭い附近一帯の民家と共に祝融の災を受けて烏有に帰す。
然れ共、神徳彌赫灼として、戦災の復興を照覧し給い、遂に街衢人煙の殷賑旧に倍し、橘樹神社楽殿亦成るに及びて氏子有志相議り爰に寶殿一宇を再建し、以て恩頼に報い奉らんとす。(略)」

 

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参道。

 

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社標。

 

御朱印をいただけるようでしたが、神職さんがいなかったのかな……。

引用などはまた次回に〜。 

「伊勢山皇大神宮」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

ええそうです、『横浜市史稿』です今回も(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

46ページです。

 

「一 皇大神宮
(略)
創建の年代不詳。元は久良岐郡戸部村伊勢山、今の花咲町四・五丁目と、戸部町四丁目の境界辺にあつた丘陵の上に鎮座したが、明治三年、本県権知事井関盛艮告諭を発して、当宮を新興横浜の総鎮守と定め 当時届出の際、皇大神宮と書したるため、特に大の字を用ひ、太字を使用せず。 四月十四日を以て、今の境内に奉遷した。(略)」

 

おっと、結構古くからあるのかと思いましたが、明治になって遷座されたようで。

 

「同年十二月、更に圏内の宗社と定められた。次いで新殿造営の工を起し、翌四年四月十五日成功、正遷宮執行。同年七月布告の郷社定則に因り、郷社兼社と為り、同年九月五日、官国弊社等外別格に定められた。同年十月十八日、英照皇太后宮御名代 松波資之。 社参。同六年十二月、一郷一社の制規に因り、兼社廃止。同七年一月、諸設備を完了し、境内に伊勢山碑を建設。同八年、県社に列せられた。同十五年、大谷嘉兵衛・同幸兵衛・茂木惣兵衛・箕田長二郎・近藤良薫等境内に灯明台を建設して奉納。同二十二年六月、一の鳥居を改築して注連縄となす。同二十三年六月二十二日、能舞台を建設。同二十七年十二月、同上観覧席及び第一社務所建設。大正四年、大正天皇御大礼記念の為め大鳥居改造。同十二年九月一日、不幸大震火災に罹り、本殿・拝殿を始めとして末社社務所以下附属建設物の殆どを倒潰して灰燼に帰した。
祭神は天照大御神
(略)
末社 二ヶ所
杵築宮 合殿 須賀宮 住吉宮  鹿島宮 合殿香取社
(略)
境内神社は左の如くである。
杵築宮。祭神は豊受大神・須佐男命・大国主命・底筒男神・中筒男神・上筒男神の六柱である。豊受大神は明治の初年、国産の生糸及び蠶種の守護神として忌殿に奉祀、後当社殿に合祀。同年五月に仮社殿造立。六月五日、始めて祭典を行ひ、爾後甲子の日を以て祭日と改む。又同五日より十一日まで須賀宮(相殿)の祭事を行ひ、同月二十九日、住吉宮(相殿)の祭典を執行した。同十四年十月十八日、新殿改築の工を起して、十一月三日、上棟式を挙げ、翌十五年一月二十三日落成して、臨時祭を行つた。同十四年十月二十四日、高島町にあつた大鳥神社を移転合祀し、十一月酉の日に神事を行ひ、又真金町に遥拝所を儲けた。其後、大鳥神社だけ真金町の同所に移したと云ふ。同十五年六月十四日、須賀宮祭典に始めて神輿の渡御を行つた。同十七年九月十五日、暴風雨の為め社殿頓倒し、次で更に復興を遂げた。大正十二年九月一日、大震火災に罹つて焼失。昭和三年四月、本宮の仮社殿を移して、当宮の仮殿とした。(略)
往時は村内延命寺の進退する所であつたが、明治維新神仏分離後は、本県で直接管理される事となつた。」

 

おお、今回の横浜ぶらりで出会った神社がいろいろと……む……境内社、「杵築宮」はありますが、「大神神社」ではなく「鹿島宮」になってますね……。

どうしたことでしょう……どこかで見落としたのかな……。

「鹿島」「香取」はどちらもご存知の通り、国譲りに活躍したという点では皇室礼賛に引っかかることはなさそうですし、軍神としても数百年にわたる信仰……明治新政府的に問題があるようには思えないので、神仏分離は関係なさそうですけれども……そこに「大神神社」が祀られている、というのは、ちょっと違和感……ううむ……。

 

「(略)

史料

(略)
[新編武蔵風土記稿 久良岐郡戸部村の条]
太神宮。除地三畝歩許。村内延命寺持。

[現社司龍山親祇氏談]
此伊勢山は、元野毛山と申したが、御宮を建てたので、伊勢山となつたのでありました。此宮の御遷宮当時の事を申し上げあmせう。私は丁度その時は十七歳で、羽衣町の弁天社の社掌と云ふ役目でありました。その当時は面白いことには、真言宗の僧侶が神職に早替りをする者が沢山に出来ました。最も旧来よりの神官も神奈川・川崎など幾人かありましたが、僅かで、多くは復職の者でありました。私なども復職と云ふ名義で、神官になつたのでした。其故、祭神など心得て居る者は殆ど無いと云ふ有様で、伊勢山の御遷宮の時なども、其祭礼には大分困つたものでした。旧来からの神職は、おのづと復職の者を軽蔑すると云ふ風でありましたから、伊勢山の社掌に誰を命ずるかに就ては、中々県でも相当苦心したさうでした。處がはからずも十七歳の私に其白羽の矢が立つたのでした。私の父は当時元町の名主を勤めて居りましたので、父が御請けをして参りまして、非常に喜んで、大に奮励せよと申して、其祝として黄金作の大小を求めて私に呉れました。早速、御請けをした處、県からはそれはそれは、中々やかましい御命令で、最も清浄な場所で三十日間斎戒沐浴しろと云ふ事で、謹んで行つて居りました。いよいよ其当日になると、太陽と同時に祭典が行はれる。私は白の狩衣に著替へ、出迎の者に護衛されて、行列を作り、羽衣町から伊勢山へと乗込んで参りますると、太田の陣屋からは兵士が、洋服の袖に錦の小旗を附け、大小を洋服に差して、玉垣の周囲を警衛して居る。石段の處には野毛町・戸部町の名主が麻社裃で蓆の上に平伏して居るといふ按配、県庁の御役人は、県令は六位の服で狩衣を著し、其他の者は、白羽二重の服装に、皆烏帽子直垂に大小を帯び、それぞれ着席して、最も荘厳に御遷座の御儀が行はれました。其時、私の読みました祝詞は、中々県令から賞められましたが、之について面白い事があります。素より私は僅か十七歳の若輩で、祝詞など自分で書く力もありませんので、非常に困りましたから、藤沢に医者として居る文菊と云ふ人があつて、此人は中々の国学者であるので、幸ひと種々教へを受けて出来たものでした。其祝詞を県令へ進達を願うた處、之は上出来だと申されたのででした。此時の祭典は、開港の後から大正の今日に至る迄、是程の盛大な祭典は後にも先にもない位の祭典でありました。県庁からは賑やかにやれと云ふ命令であるから、名主から組頭や町役人を大勢集めて、他町に劣らぬ様にとの厳命を下すので、成るべく金持の家へは、娘を金棒引にだせと割当てるので、何百両と云ふ大金をかけて、著物をこしらへると云ふ風に、中々各自に競うてやったもので、中には何んとか奇抜な事をして見たいと言つて、白縮緬を田の泥に埋めて、取出して洗つて見た處が面白い雲形が染付られたなどと競争が出たものでした。私の妻なども其時、金棒引となつたなど今でも一つ話でありました。それから県庁の役人は、どんな下役の者迄も、白羽二重の烏帽子直垂など自分で調作した物で、中々大掛りのものでありました。只今の鳥居の側にあります手水鉢を見ても、当時の張込み方がよくわかりますのは、あの大きな手水鉢は、県庁に勤めて居りました駈使と云ふ使丁一同が奉献した物で、大変な費用であり、しかも人手を借らずに、自分達が此處迄運搬したと云ふ熱心さで、其為めに手水鉢の表面に大きな査の字を切付けてあるのだと聞きました。」

 

↑この龍山親祇という人物は、遷座当時に神職についた方ですが、神仏分離などに関してのなかなか興味深いお話が書かれています。

まあ、何しろ神仏混淆時代は、神主さんは僧侶の下みたいな位置付けでしたから、神仏分離に乗じて勢い大きな態度になっちゃうのも……そして、真言宗のお坊さんが神職に早変わりというのもまた……基本的に仏教への風当たりが強かったので……人間ドラマ、です。

 

「[横濱沿革誌]
「四月十四日、皇太神宮ヲ野毛山ニ遷座シ、伊勢山ト改称シ、横濱惣鎮守ト定ム。当日及翌日共ニ大祭ヲ挙行ス。横濱各町ヨリ山車十五本、手踊二十餘台、付属地走道化・踊・花駕籠・引物等、各町競争シテ華美ヲ盡シタリ。当日県庁 当時裁判所ト云フ。 東ニ桟敷ヲ仮設シ、各国公使・領事ヲ招待シ、知事以下皆縦覧ス。各町順次ニ山車・手踊等練込、技芸ヲ演ズ。本町五ヶ町、堺町何レモ新趣向手踊引抜トモ二回ヅツ、其他ハ一回ヅツ、其間ニ道化踊ヲ演ズ。当日ハ本町・弁天通・馬車道通・吉田町・野毛町・伊勢山ノ間、昼夜見物人雑沓、開港以来ノ賑ヒナリ。此祭典ノ費用凡金六萬餘円ナリシト。当時横濱ノ盛況ヲ推知スルニ足ルベシ。」

 

開港以来の大盛り上がり、というのはなかなかすごいですね。

伊勢山、とか「伊勢」のつく地名って日本中にあると思うのですが、やはり「天照大御神」を勧請してから地名が変化したのでしょうか。

「お伊勢参り」が流行してから、「伊勢講」も大流行り、となると「伊勢」のつく地名の起源はそれほど古くないことが多いのかもしれないですね。

野毛山のままでよかったのかどうかはよくわかりませんけれども……。

それにしても横浜は、やっぱり「開港」と「関東大震災」が何らかの転機なんですねぇ……東海地方に住んでいると、その辺りが皮膚感覚としてわからないもので……勉強勉強。

「伊勢山皇大神宮」(横浜市西区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

そろそろ目的地(桜木町駅からみなとみらい方面)に向かわなければいけないのですが、ラストとして伊勢山皇大神宮へ。

 

◯こちら===>>>

www.iseyama.jp

 

……スマートフォンの地図を見ながら歩いていたんですが、結構な坂を登らなければならず……。

で、写真を撮る順番が逆になってしまったもので、まずは境内社の、

 

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大神神社」へ。

ちらっと磐座が覗いています。

三輪鳥居じゃないのが残念。

 

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本殿をなんとか横から狙って、失敗。

 

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同じく境内社の「杵築宮」。

 

御祭神は、「大国主命(子之大神) 豊受姫大神 須佐之男命 住吉三神 姥之大神」。

 

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再び本殿を狙うも……。

 

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拝殿遠景。

神明造で平入り。

 

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拝殿向かって左手に、「大神神社」「杵築宮」があります。

 

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えっと……なんだろうこれ……仕切られているのは車祓いの場所かな……。

 

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拝殿正面から。

 

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灯台(由来を撮影し忘れました)。

 

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鳥居へ向かって、わりと登っているのがわかるかと。

 

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参道に……うーん「聖徳太子」か……。

 

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境内図。

あ、灯台ではなくて「神光楼」というのだそうです。

 

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「蒋公頌徳碑」。

蒋介石」氏への感謝、ですね。

国共内戦がね……どうにかなっていたら、どうにかなっていたのかもしれませんが、まぁそれは……。

御影石かな、反射が美しかったもので。

 

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鳥居の基部、かな。

 

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鳥居。

 

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社標。

 

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御朱印(今日初ですな)。

というわけで、横浜ほにゃらら紀行の中ではわりと写真が多かったです……引用などはまた次回〜。

「厳島神社」(補)(横浜市中区)

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

もうずっと『横浜市史稿』の神社編に頼りきり(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

182ページです。

 

「一七 厳島神社
厳島神社は、中区羽衣町一丁目十二番地に鎮座。(略)関内及び羽衣町の鎮守である。
当社は元、弁天社と称して、洲干島(洲乾、或は宗閑、又は秀暇とも書かれた。)一に茗荷島とも呼ばれた出洲にあつた。 今の弁天通六丁目及び本町通六丁目に跨る一万二千余坪は旧神域にあたり、社殿は弁天通6丁目百九番地のあたりにあつたと云う。 当時の尊体は、元伊豆国土肥の杉山に鎮座したものを、治承年中、源頼朝が宿願成就の報賽の為めに、勝地を当所に選んで新殿を造営し、奉遷したところであると言はれる。依つて杉山弁財天とも称し、又境内に七つの池があつて、清水が湧き出づるために清水弁天とも号した。其後は歴代武将の崇敬も浅からず、特に関東管領足利氏満に至つては、紺紙金泥の般若心経を奉納し、また太田道灌は、社殿を再建したと言はれて居る。此尊体は江之島弁天と同木同材であると言ひ、一説には弘法大師が七躯の弁財天を刻んで、江之島に安置したものを、頼朝が七所に祠を建てて、これを奉遷した中の、則ち当社が其一であるとも言はれる。故に、古人は時に、畫島 一に繪島又は江島 弁財天と称したかとも思はれるのである。但し、萬里の望畫島の詩は、当社を刺すものか、又は誤解であるか、一考を要すべきものである。(略)」

 

ううむ、『横浜市史稿』を見ていると、「杉山神社」がやたら多かったのですが、ひょっとするとこの「源頼朝」の話が元なんでしょうか。

 

「慶安二年八月二十四日、徳川三代将軍から、先規によつて社領六石一斗余の朱印地を寄せられた。その当時の別当は増徳院であつた。
新編武蔵風土記稿の、正保中の郷帳の項に、六石一斗五合秀閑領と見ゆることが載せてある。口碑に據れば、秀閑寺は当時、当社の別当寺であつたが、其後廃絶したと云ふのである。思ふに、此際は、増徳院が代つて之に当つたもので、即ち先規により改めて此寄進があつた訳のものであらうか。元禄年中、増徳院境内に仮殿を造成して、これを上之宮杉山弁天と唱え、平日は神体を此処に奉安して置き、本社には前立の神体のみを置いて下之宮清水弁天と称することとなし来り、爾来年々十一月十七日に、上之宮に於て祭典を行ひ、其夜に神体を下之宮に遷し、また翌十八日に、本社に於て神事を行ふことを例としたといふ時代もあり、嘉永二年の再建当時は、八月十五日を例祭日とし、万延元年六月二日の開港満一年の記念日には、神奈川奉行の命によつて、特に大祭を行ひ、以来此日を以て例祭日に改めたといふこともあつた。明治維新神仏分離の際は、厳島神社と改称し、増徳院の別当を停め、仏体は同院に付属したと云ふ。明治二年六月三日、官命によつて現在の境内に遷座し、翌三年六月二十七日に新殿の造立、明治四年神社の社格を定めらてから、後に村社に列せられたのである。明治二十年八月再建。同三十二年八月十二日、市中の大火に類焼して、一時仮殿に奉祀。同四十年四月三十日、神饌幣帛量供進社に指定され同四十二年、開港五十年記念祝典挙行の際、例祭を七月一日に改めた。大正五年、社殿再建。同六年六月二十日、鳥居再建。大正十二年九月一日、不幸大震火災に遭遇消失。同十五年五月二十八日、仮殿の造営を遂げた。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命多岐都姫命の三柱である。
(略)」

 

昔、別当だったっぽい「秀閑寺」は、「洲乾」に通じていますね(どっちが新しいのかはさておき)。

この御神体の移動の起源はなんなんでしょうね……。

いや、御神体を移動させる、ということ自体は珍しくなく(まあ、神輿を出すような祭りはほぼそれなんですが)、起源的に何があるのかはわかりませんが、例えば本宮は山の上、麓に別宮とか里宮がある場合は、祭りのときだけ降りてきていただくことはあり得るでしょう。

逆に、普段は別のところにいていただかなくてはならない(祟るから)けれど、ときに解放して差し上げないといけないパターンもあるでしょうか。

他に……単純に順番ね、っていうこともあるのか(「善光寺」の御本尊のようなもの……かな)。

まあどうしても理由が必要なわけでもないんですが。

前立本尊っぽいのは、当時の神仏習合のせいだと思います(というか、「弁天様」ですからね、ほぼ仏教側)。

 

「境内神社は左の如くである。

三社稲荷神社。太田屋新田の開墾者、太田屋源左衛門が江戸浅草の三社稲荷を当社境内に勧請し、草創する所であつたと云ふ。明治二年、本社と共に現境内に遷つた。祭神は御年神・大市比賣神・素盞嗚命の三柱である。
駒形神社。元横浜村駒形水神森に鎮座。慶応元年本社境内に遷座。明治二年、本社と共に現境内に移る。祭神は水波之賣神・底筒男神・中筒男神・上筒男神の四柱で、社は小祠である。
(略)
境内には、明治三十七八年戦捷記念の為めに建設した獅子岩象一対、及び大正天皇御即位奉祝記念建設の石灯籠一対がある。
(略)」

 

獅子山(岩)はなかったかな……あったのは、「中村八幡宮」か。

 

「[横浜湊惣鎮守 杉山弁財天略縁起]
当山杉山大弁財天の尊像は、弘法大師の彫刻にて、原は豆州土肥の杉山に鎮座ましましける所、治承四年八月、頼朝卿義兵を挙給ふ砌、深く御祈願ありけるに、霊験著しければ、四海一統の後、其冥加を報謝成給はんとて、諸々に勝地を撰まれけるところ、幸ひ当所を茗荷島劔ヶ淵といふを聞し召され、佳名といひ佳景といひ、末年萬民の機縁発すべき弁財天鎮座相応の勝地、茲に過ぎずと新に社殿を造営ありて、彼地の尊体を遷し勧請成したまふが故に、杉山弁財天と號し奉る。
此尊体は江之島弁天と同木といふ。劔ヶ淵とは劔の形なるを以て名づく。又琵琶島ともいふ。また七つの池ありて、清水わき出る故に清水弁天ともいふ。すべて此地は松多く偃蓋凌宵、根を結び枝を接へて淵にのぞみ、四時蒼々として風景斜めたらざれば、袖ヶ浦八景のうち洲乾の帰帆と唱美せし詩歌数多あり。むかし当初は風浪の難しばしばありて、陸地常に乾かざりしが、此弁天を安置してより、その患さらに無きゆえ、地名を洲乾とよぶ。誠に稀有の神変なり。江之島も神託によつて、建保四年五月十五日、大海忽通路となりし奇瑞に同じ。
然るが故、代々の武将も御尊敬あり、就中、足利氏満朝臣一宇三体に般若心経を紺紙金泥に書写して奉納あり。太田道灌は社殿の荒廃を再建せられ、忝くも当御代に至りては、大猷院殿尊君、社領竝に別当の院中、山林・竹木諸役免除の御朱印を下し賜ふ。依之彌々丹精を抽、天下泰平五穀豊穣の祈念怠慢なきところ、去安政六年、当所御開港になりて、海外より萬貨輻湊するが故、四民甍を竝べし繁昌の地と成ければ、諸人鎮守の神徳を仰ぎ、且、夫々の立願に利益を蒙る者数多なれば、日々に参詣の者群集して昼夜に絶えず、御祭礼は毎年六月朔日・十一月十七日いと賑はへり。そもそも当御神の功徳広大無量なる事は、三部の御経

頓得阿羅尼経 貧轉成就経 宇賀神王圓満陀羅尼経
その外にも、専ら智恵弁財天の大徳を司り、三世諸仏の化儀を助けて、一切衆生の貧苦を救、五穀成就を守りたまふ感得を説が故、禁中にも四月初巳の日、十月上の亥の日、御園祭あるなり。御名を或は宇賀神王、また如意珠王とも號し奉るは、深意ある事にて、則ち宇賀は食物にて、人間第一の寶、殊に大日本国は八大龍王の海蔵なれば、和光同塵の利益を垂たまふ事多し。先土の神を祈念する事を思はば、白月一日より十五日に至るべし。就中一日・三日・十三日最吉、又、八日・十四日・十五日勝れたり。
若、白月に祭らざる者は、毎月巳の日・亥の日に供養すれば、もろもろの芸術に妙逹して、あらゆる苦患を消滅し、貧窮を転じて財宝を豊ならしめ、親族和合して妙弁財の智慧を授り、利得を得、加之、悪夢・悪神・厭魅・蠱毒・星宿障難・呪詛鬼屍等、闘諍・王難・賊難・怨敵・疾疫・厄難等皆悉除滅、得延寿、安穏乃至速證、無上菩提との金文あれば、諸人太らに家内安全・子孫繁栄・福智円満を祈りて、此福神の加護にあづかり、大功徳を蒙るべき者なり。」

 

万能……。

 

「[新編武蔵風土記稿]弁天者。(略)洲乾ノ出洲ニアリ。土人清水弁天ト呼ブ。(略)村ノ鎮守ナリ。社中ニハ前立ノ像ノミヲ置。神体ハ元禄中ヨリ別当増徳院仮殿ニ安ジ、彼所ニテハ杉山弁天ト唱フ。坐像長二尺程、弘法大師ノ作、此社地ハ海面ニ望、勝景ノ地ナレバ、遊客神奈川駅ヨリ乗船シテ至ル者多シ。
(略)」

 

なるほど、遊興の先としても有名だったようです。

 

「[開港側面史]
私共、子供の時、年寄達の話に聞きましたには、弘法大師が江の島で護摩を修行して、七体の弁天様を刻んで納めて置かれたのを、頼朝公が七ヶ所に御社を建て、勧請されて、御朱印地を附けられた、其七社の弁天の一つで、頼朝公以来徳川家でも代々の将軍様より、御維新迄は御朱印が附て居ました。此辺に御朱印の有つた御社は誠に少なかつたです。
御社地は元は、丁度今の弁天通六丁目辺にありまして、南の方、太田町五丁目辺、北は南仲通五丁目、東は弁天通五丁目、今の正金銀行の辺に一の鳥居がありました。西は海岸で、寄洲になつて、社地一万余坪と言はれた広弘としたもので、砂地に松の大樹が沢山有て、所謂白砂青松と云ふ御社地であつた。西北には野毛浦、保土ヶ谷、神奈川から遥かに大師河原・羽根田の岬を眺め、遠く富士・筥根・大山を見て、景色のよさ、絵も及ばないと云て時々異人さんが此所へ来て、油画を書て居ました。夏などは松の蔭へ海風が吹て来る其涼しさ、今なら手も入れずに公園地にされるものをと、時々愚痴を申すことです。
御社と申すは五間四面の茅屋根で、彫物も有て立派な物でした。其前に瓢箪形の池が有て、潮入に成て居ました。潮が満て来ますと、魚が一ぱい這入て来ますが、此池の魚は誰もとりません。御別当が元町の増徳院の法印さんで、別に神主は有りませんでした。
開港一周年祭と云ふのが万延元年の六月二日に、此弁天様にありました。何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、其頃は金の沢山儲かる時だから、我勝ちに立派にして、中には緋呉呂服の股引を穿て出て、股も陰嚢も赤肌にして医者にかかつたと云ふ滑稽も有つた位で、其前後今に(五十年)彼の位な大祭は有りません。此時から開港の記念として古来の八月十五日の大祭を改めて、六月二日に弁天様の祭りをする事に成たのです。(略)」

 

↑この部分が面白いです。
「何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、」って感じで、祭りの日取りを変えてしまうという……まあ是非はともかく、ハマっ子の気っぷみたいなものが現れているのかもしれません(よく知りませんけれど、ハマっ子のこと)。

 

「[江戸名所図会]洲乾弁天祠。芒新田横浜村にあり。故に土人、横浜弁天とも称せり。別当真言宗にして、同所増徳院奉祀す。祭礼は十一月十六日なり。安置する処の弁財天の像は、弘法大師の作にして、江の島と同木也。此地は洲崎に左右共に海に臨み、海岸の松風は波濤に響をかはす、尤、佳景の地なり。海中姥島など称する奇巌ありて、眺望はなはだ秀美なり。(略)」

 

……え、『江戸名所図会』か……当たろうとも思ってなかったな……資料探しの時間が結構ないもので……。
現在と比べると、昔はもっと栄えた神社だったのだろうな(いえ、現在でも結構敷地は広いし、参拝客も多かったのですけれど……)、ということが記事の量から伺えます。

そうか、神奈川だしな、「源頼朝」まで遡っておかないといけないか……横浜を侮っていましたよ……。

まだまだ続きます横浜ほにゃらら紀行〜。

「厳島神社」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

金刀比羅神社」をあとにして、とりあえずまだ行けるだろう……と思ったもので、「横浜弁天」こと羽衣町厳島神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

うん、有名そうなのに、内容が薄いな……。

で、これがまた驚くほど写真が少なくてですね……。

 

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社殿。

 

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境内社の「豊受稲荷大明神」。

 

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おキツネ様がおキツネ様なのか……犬っぽさが……。

 

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手水鉢。

宝珠がくっきり。

 

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横手に泉っぽいものがあります。

 

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こちらは「銭洗弁天」。

 

鎌倉の、

 

◯こちら===>>>

「銭洗弁財天 宇賀福神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

「銭洗弁財天」にちなんでいるのかな、と思います。

 

 

 

 

 

 

……そう、こんだけなのです、写真。

引用は、最近滞っておりますが、また今度で〜。

「金刀比羅神社」(横浜市南区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

「中村八幡宮」を後にして、スマホの地図とにらめっこしながら、発見しました金刀比羅神社

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

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いきなり拝殿です。

 

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狛犬さん。

ちょっとつるりとされておりまして。

 

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横浜市南区真金町 鎮座 
金刀比羅 大鷲神社 由緒
祭神 大物主神 崇徳天皇 天之鳥船命 手力雄命 日本武命

当社は遠く安政六年(一八五九年)六月二日横浜が開港するにあたり港崎町(現在の横浜公園)に讃岐国象頭山香川県琴平町)に鎮座する金比羅大権現として創建された。
慶応二年十月二十日の大火に類焼され翌三年吉原町に御遷座し更に明治五年に再び高島町七丁目の海側に遷座金刀比羅神社と社号を改正した。
これより先すでに万延元年(一八六〇年)十月六日港崎町名主佐吉代要助はかねて神奈川奉行に差し出していた金刀比羅神社の発令許可に請書を出している。
明治六年三月には地方長官の認可を受け無格社として神社明細帳に登録されることになり更に明治十五年四月に今の真金町に移転されこれが現在の神域であります。
本来当社は花柳街に勧請せられたのでありますから其の移転と共にしばしばの御遷座が行われたものと思われます。
大正十二年九月の関東大地震、更には大東亜戦争の戦災に惜しくも社殿は炎上され昭和二十五年仮社殿再建、平成元年八月鉄筋コンクリート入り母屋造りに建設されたものである。
酉の市行事は明治初年高島町金刀比羅神社遷座された頃、江戸吉原の例に倣ってお酉様を同社境内に末社として勧請されこれが大鷲神社のはじめである。
この頃から酉の市祭りは盛んで、「開運守護」「商売繁盛」の守り神として崇敬篤く現在は戦後金刀比羅神社と御同座して現在の社号に社名変更された。酉の市祭事はもっぱら武士階級の祭りでもあったようだが酉の市祭事が商人や花街の根強い開運守護または福運を熊手をもってかき集める縁起から喜ばれご神徳高く毎年十一月の酉の日盛大に斎行され当日は数百軒の露天商が立ち並び開運の熊手を受けられる善男善女で殷賑を極め独占的な年中行事として有名である。

稲荷社 祭神 宇迦之魂命
京都伏見稲荷大社の御分霊を祀り五穀を司り万民に働く食生活を授け導き人民を利し幸福を与え「家業繁栄」「心願成就」「五穀豊穣」の御神徳ありて万物生成の霊験顕著なるものとして信仰がある。
毎年二月の午の日が例祭である」

 

ふむ、なかなか新しめな神社ですが……横浜の神社は、おおよそ「横浜開港」と「関東大震災」が絡んでくるわけですね。

 

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「酉の市」の説明。

日本中の「(大)鷲神社」で行われています。

熊手、の最初は、やはり東京は浅草の「鷲神社」でしょうか……。

 

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あれ、お稲荷さんの写真がない……。

 

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ちょっと遠景。

 

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遠景。

 

ううむ……スマホの電池が減りやすくなっていた時期ではありますが……写真少ないな……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

今回も『横浜市史稿』の神社編に頼ります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

412ページです。

 

「五九 金刀比羅神社
金刀比羅神社は、中区真金町一丁目三番地に鎮座。(略)
安政六年、讃岐国象頭山金毘羅大権現を勧請して創建したと言ふ社であるが、初めは金毘羅大権現と称して、港崎町にあつたものを、慶応二年十月二十日の大火に類焼して、翌三年三月、吉原町に遷座し、更に明治五年に、再び高島町 七丁目の海側 に遷座。同年現社号に改称したが、翌六年三月に、無格社として神社明細帳に載せられ、明治十五年四月、復た、真金町に移転した。(略)これが現在の神域である。 当社は本来、遊郭内に勧請せられた所であるから、其移転と共に属次の遷座が行はれたものである。 大正十二年九月の大震災に焼失し、同十三年六月に再建を遂げた。
祭神は大物主神崇徳天皇の二柱である。
(略)
境内神社は左の二社がある。
大鷲神社。創立不詳。初めは高島町遊郭内にあつた。其頃から酉の市の祭事が行はれたと云ふ。明治十五年に、遊郭が真金町に移転したので、伊勢山大神宮の末社の中に合祀し、真金町の方には遥拝所を置いたが、後に移して、金刀比羅神社の境内神社としたと云ふ。祭神は手力雄命、日本武命の二柱である。(略)毎年十一月の酉の日に祭事を執行する。
稲荷神社。沿革不詳。祭神は宇迦魂命。(以下略)。」

 

神社の由緒書のほうが詳しいくらいでしょうか……。

開港に合わせて遊郭が作られたんでしたっけ……その辺りの知識がとんと薄いもので……まあ、人の集まるところには花街ができるのは当然といえば当然で。

そういえば、「唐人お七」……あれ、お七でしたっけ……って、あれは浦賀か(ハリスの愛人、と言われている人だったかな……)、なんて方もいらっしゃったようなので、いろいろなドラマがあったのでしょう。

この辺りは郷土史家の方々にお任せしまして、まだ巡ります〜。

 

「中村八幡宮」(横浜市南区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。
さて、石川町の「諏訪神社」をあとにしまして、続いては「中村八幡宮に行ってみました〜。

 

◯こちら===>>>

http://www.nakamura-hachimangu.yokohama/#

 

いやほんと、神奈川神社庁のHPは優秀です……愛知の神社庁もがんばってくれないか……もしもうあったら申し訳ない……。

 

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川沿いの道を歩いていたんですが、こんな看板が……「地元でたばこを買いましょう」……すごいな、神奈川県だけで742億以上のたばこ税が……でもそれが、喫煙原因の肺がん治療費に不足しているというのはなんとも……もっと値段があがると思いますね、たばこ……。

 

そういうブログではないのでした。

 

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参道入口。

うっすら見えるかと思いますが、また登っています。

うーん、地域的に、そういう神社が多いだけなのかな……郷土史家のみなさんにお任せしよう。

 

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どうも、明治になって設置された水準点があったようです……さすがに、その辺りに強い興味はないです……巡ってみたら、それはそれで面白そうですけれども。

 

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鳥居。

階段の奥に、コンクリで固められた崖が。

やっぱり地域的なものか。

 

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お地蔵さんと庚申塔

庚申塔のほうは、「青面金剛」なのかどうかもわからず、向かって右のお地蔵さんは顔が……。

経年劣化にしては、どちらも不自然かなぁ……。

 

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階段。

 

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石灯籠。

うーん、何の故事なのか……御嶽講か富士講の紋っぽいものも……刻文まできちんと読まなかったなぁ……後ろの「平」はなんだろう……。

 

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階段を登りきると、獅子山があります(逆光逆光)。

親子獅子……阿形のほうの子獅子は、山の裏から登るつもりのようです。

 

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扁額。

シンプル。

 

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こちら、拝殿……なかなかな雰囲気じゃないでしょうか……公式HPには、歴代社殿の貴重な写真がありますので、ご参考に〜。

 

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こちらは境内社の「吾妻稲荷社」。

ちょっと大きさがわからないと思うのですが……。

 

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とりあえず、この木彫りのおキツネ様の風情といったら……。

 

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外からはこんな感じ。

 

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お隣は「忠霊祠」。

 

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再びの獅子山。

うーん、もう少し天気が良くて、逆光でなければ……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

今回も『横浜市史稿』の神社編に頼ります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

197ページです。

 

「一九 八幡宮
八幡宮は、中区中村町千二百三十七番地に鎮座。(略)
由緒書に云ふ、古ハ記録モ存シ、御由緒等詳ナリシモ、中世当宮ノ別当タリシ玉泉寺類焼ノ砌焼失シテ今ハ其ノ影ダニナシ。然レドモ、古老ノ口碑ニ曰ク、醍醐天皇ノ御宇、既ニ神祠此ノ地ニ存在シ、八幡大明神と称ヘ奉レリト云フトアリ。然ルニ当宮ハ、古ク神地・神田等ヲ有シタリシモ、明治十年地租改正ノ際、或ハ上地トナリ、或ハ散ジテ、今ハ餘ス處ナシ。明治六年、村社に列セラル。而シテ頼朝、鎌倉ニ幕府ヲ樹テ、鶴岡ニ八幡宮ヲ勧請セラレシヨリ、毎年一回、幕府ヨリ当宮ヘモ幣帛を捧ゲラレ、又、北條氏ニ至リテハ、殊ニ崇敬ノ念厚ク、年一回、幣帛ノ外ニ、米穀又ハ、田地ヲ寄進セラレタリシト云フ。又、当村ノ旧家 石川徳右衛門。 ニ残リシ旧地図 寛保二年。 ニモ、八幡宮除地若クハ、八幡宮神田ト云フ個所散見ス。云々。」慶応三年、幣殿及び拝殿を新築。明治維新の際、神仏混淆の禁止によつて、玉泉寺の別当を停め、其後、神地・神田等或は上知又は分散し盡したと云はれて居る。明治二十一年五月二日に、社名を八幡宮と改称し、明治四十二年九月十五日に、神饌幣帛料供進社に指定せられ、大正六年に、本殿・幣殿・拝殿の改築成り、同十二年九月一日、大震火災にて社殿以下悉くを焼失。直後、御下賜材を拝受して仮本殿を造立し、続いて仮拝殿及び神楽殿社務所・神庫・境内神社の再建を遂げた。今や社殿の本建築は設計弥成り、将に造営の工事に着手する運びとなつて居るのである。
祭神は譽田別命である。

附記。由緒書には、主神に譽田別命、相殿に天照皇大神五丹大明神を斎き祀るとあれど、今の明細帳には相殿の祭神が載せてない。

(略)
境内神社、稲荷神社。祭神は稲倉魂命。(略)
古来は、鶴岡八幡宮に倣つて、八月十四日・十五日を例祭日としたが、明治二十九年に九月二日・三日に改め、大正六年七月に再び改めて、八月十五日・十六日としたとのころである。十五日には神饌・幣帛供進使の参向があり、式後神輿の渡御を行ひ、例祭の外は又、古式祭を行ふ。即ち正月十五日の祈弓祭、五月十五日の尚武祭、九月十五日の例祭で、蟇目神楽の神事をなし、更に六月晦日及び十二月晦日に大祓式を行ふことである。
(略)
史料
(略)
[新編武蔵風土記稿]八幡社。除地二畝十八歩。村ノ中程ニ建リ。鎮守ナリ。伍丹明神ヲ相殿トス。是伍丹大王ヲ祀レルナリ。玉泉寺持。」

 

醍醐天皇」といえば平安時代ですから、1000年以上の歴史がある、というわけですね。

記録はなくなってしまっていますけれども。

それにしても、「五丹大明神」ってなんだろう……『新編武蔵風土記稿』にも「伍丹明神」「伍丹大王」ってありますねぇ……名古屋の神社でもですね、「五仁」って人を祀っているところがありましてね、それに関しては「王仁」のことだろうと思っているのですが……語感的に言うと、「巨旦将来」のことでしょうか、「蘇民将来」伝説の……。

むむ……謎を(すでに謎でなかったら申し訳ない)残しつつ、まだまだ続きます〜。