べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「椿大神社」(再)(三重県鈴鹿市)

3/18。

思い立ったかどうかはさだかではありませんが、流れ的に近隣一宮巡りになっていたので、ふらっと椿大神社へ。

 

○こちら===>>>

「椿大神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

結構な混雑具合でしたので、写真は少なめ。

 

f:id:bennybebad:20170318103906j:plain

鳥居と社標。

 

f:id:bennybebad:20170318104115j:plain

参道の狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170318104127j:plain

狛犬さんその1。

 

f:id:bennybebad:20170318104228j:plain

あれ、こんな玉あったかな……「土公神陵」の近くだったかな……(レリーフは「猿田彦大神」だと思います)。

 

f:id:bennybebad:20170318104240j:plain

参道の狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170318104248j:plain

狛犬さんその2。

 

f:id:bennybebad:20170318104307j:plain

参道の狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170318104317j:plain

狛犬さんその3。

 

f:id:bennybebad:20170318104605j:plain

拝殿。

 

f:id:bennybebad:20170318104855j:plain

拝殿。

 

f:id:bennybebad:20170318105115j:plain

こちらは、「椿岸神社」の狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170318105125j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20170318105138j:plain

「椿岸神社」拝殿。

 

f:id:bennybebad:20170318105150j:plain

狛犬さん尻尾。

 

f:id:bennybebad:20170318105206j:plain

扇塚。

 

f:id:bennybebad:20170318105223j:plain

こちらも「椿岸神社」の狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170318105230j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20170318105548j:plain

かなえ滝。

 

f:id:bennybebad:20170318105612j:plain

シャッタースピードを遅くしてみました的な。

 

f:id:bennybebad:20170318105826j:plain

カエルさん。

 

f:id:bennybebad:20170318105838j:plain

滝、別角度。

 

f:id:bennybebad:20170318110008j:plain

「椿岸神社」鳥居。

 

f:id:bennybebad:20170318110314j:plain

ぐるっと裏手に回って、「行満堂」。

 

f:id:bennybebad:20170318110416j:plain

例の神社。

 

f:id:bennybebad:20170318110450j:plain

例の人。

 

f:id:bennybebad:20170318110531j:plain

f:id:bennybebad:20170318110539j:plain

f:id:bennybebad:20170318110551j:plain

カエルさん。

 

f:id:bennybebad:20170318110602j:plain

教育勅語」。

 

f:id:bennybebad:20170318110628j:plain

f:id:bennybebad:20170318110641j:plain

ハートと急須が可愛い石灯籠。

 

f:id:bennybebad:20170318110709j:plain

「行満堂」寺標。

 

f:id:bennybebad:20170318110821j:plain

なんか龍。

 

f:id:bennybebad:20170318110844j:plain

石塔と「地蔵菩薩」。

 

f:id:bennybebad:20170318111018j:plain

石灯籠。

 

f:id:bennybebad:20170318111030j:plain

手水舎。

 

f:id:bennybebad:20170318111043j:plain

カエルさん。

 

f:id:bennybebad:20170318111052j:plain

カエルさんと鯉の滝登り。

 

f:id:bennybebad:20170318111206j:plain

「獅子堂」。

 

f:id:bennybebad:20170402181419j:plain

御朱印

 

うん、狛犬中心で撮影してきたので、満足。

引用などは次回で〜。

 

「多度大社」(考)

さて。

まずは、神社でいただいた由緒書きより……前の記事でも書いたのかな……。

 

伊勢国最北端に位置し、古来、神が坐します神体山と仰ぐ多度山の麓に御鎮座になる多度大社は、御創始は定かではないが、山中に遺された数多の磐座・御神石から推して、神代の古に遡ることが出来る。社伝によれば、五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が造営された。
当社は『延喜式』巻九神名帳桑名郡十五座のうち「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式名神大社であり、後一条天皇の御代には東海道六社のうちの一社にも数えられた。また、南北朝時代の暦応年間(一三三八〜一三四一)には多度祭りの上ゲ馬神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られている。
しかしながら元亀二年、織田信長による兵火に罹り、美濃国(現在の岐阜県)赤坂山に御動座になり、御社殿を始め神宮寺などすべての御建物と、歴朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが灰燼に帰した。江戸時代に入ると、桑名藩本多忠勝公により莫大な寄進を受け慶長十年に本宮御社殿が再興され、以降別宮以下摂末社、年中の恒例祭儀等も漸次復興された。御祭神の関係もあり「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」と謡われる程の復興を遂げた。近代に入り、明治六年県社、大正四年には国幣大社という高い社格が授けられ、近年は東海の古社として多数の参拝者が訪れる。」

 

御祭神は本宮(「多度神社」)が、「天津彦根命」で、別宮(「一目連神社」)が「天目一箇命」。

式内社は、『神社覈録』とか『特選神名牒』から引用することが多いのですが、どちらも神位についての内容がほとんどなので、面白くないです。

というわけで、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 郷土の史蹟 : 新風土記

 

↑『郷土の史蹟』という新しめの本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

285ページです。

 

「多度神社と八壺谷
多度神社は伊勢電鉄大垣線多度駅の所在地、多度山は箕山ともいひ、山は甚だ高くないが山上は松杉蓊蔚として頗る眺望に富み、多度山八勝の名がある。その山麓に多度神社がある。国幣大社で多度神を祀る。社伝によれば、この神は天照大神第三の御子、天津日子根命であるといふ。続日本後紀に多度大神宮とあるのはこれで、土俗北伊勢大神宮と称する。旱魃の時は遠近の人の雨祈するを例とした。雄略天皇の御代の創造で歴聖の崇敬厚く、神宮寺を置かれたこともあつたが、元亀年間の兵火にかあkつて衰頽したのを、慶長年間本多忠勝の桑名に封ぜらるるに及び、社殿の再営を図つて以来、桑名侯の尊信を受けて略ぼ旧観に復した。別宮の一目連(ひとめつれ)神社は、本宮の御子天目一箇命を祀ると伝ふ。往古から神殿に扉がない。それが摂社の一拳祠で眼病の神と伝られ、藤の神木が社殿を掩うて陽春の頃になれば、懸艶垂紫恰も水晶簾のやうである。一拳の紫藤は多度秀景の一つである。境内は老樹天を掩ひ、森閑としてただ澗泉の響を聞くばかりの仙境である。御手洗川はその傍を流れ、芭蕉の句『宮人の我名をちらせ落葉川』で知られた落葉川となる。境内の上坂附近には神樹の楠木がある。往昔のは周囲五丈余の大木であつたが、現今のは後に植え換へたものである。なほ御供・明櫃・影向・籠などの神石が社境内にある。例祭の五月五日には、古風な流鏑馬の神事があつて頗る雑沓を極む。社宝の中にも神宮寺伽藍縁起・資財帳の一軸・古鏡三十面は国宝となつたゐる。多度山の中腹に愛宕山がある。その山下に法雲寺がある。法雲寺は一名多度大神宮寺と呼び、続日本紀に『承和六年多度大神宮寺を以て天台の一院となす。』とあるものは、即ちこれである。後ち織田氏の兵燹にかかつて焼燼し、松平氏がこれを重興したけれども、今は滅びて五輪の石塔が所々に散在するのを見るばかりである。(以下略)」

 

天津彦根命」は、「天照大神」と「素盞嗚尊」の「うけい」によって生まれた五男三女の一柱、ですね。

「アマツヒコ」というのは、「鵜葺草葺不合命」や「瓊瓊杵尊」にも用いられていることから、ある種の尊称なのではないかと思います。

逆にいえば、その尊称のために生み出された神格ではないか、と。

天一目箇命(あめのまひとつのみこと)」は、「天津彦根命」の御子神で、鍛冶(かぬち)の神、とされています。

天の岩戸神話で、「天照大神」を引きずり出すためのアイテム(刀斧、鉄鐸)を鍛えています。

高田崇史氏も小説でよく言及していますが、製鉄に従事する人は、片目で炉の火勢を確認するので、視力が低下してしまうことが多かった、という説があります。

そのため、製鉄・鍛治に関係のある存在は、片目(片腕(槌を振るため)・片足(ふいごを踏むため)で表現されている、そうした存在が零落して妖怪化すると、「一本だたら」のように描写されるのではないか、と。

ギリシャ神話のサイクロプスという単眼の巨人が、やはり鍛治の達人(ゼウスの雷霆を鍛えた)とされるのも、同じものが根底にあるのではないか、とも。

で、一方で、本宮のほうですが、雨乞いの神だと言われ、ということは龍神ですね。
また、

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

『日本の神様読み解き事典』の「一目連大神」の項目より、

 

「一目連は主として江戸時代に庶民の間でその霊力を信じられていた神で、その地方中を稲光りさせたり、風雨雷鳴を起こしたりすると恐れられていた神である。
一目連とは、中部地方の方言で「つむじ風」のことである。
『和漢三才図会』巻三の「天象類」のなかに、「颶(うみのおおかぜ)」という項目がある。それには、「伊勢・尾張・美濃・飛騨の諸国では、不時に暴風が吹くことがあるが、これを俗に一目連といい、神風となす」という意味のことが漢文体で書かれている。ちなみに、颶は颶風で、秒速三二・七メートル以上の最強風のことをいう。(以下略)」

 

とあり、そのほか『斉諧俗談』や『笈埃随筆』(こちらには、「一目連」ではなく「一目竜」だ、という土地の人の話があります)といった文献からの引用もあったりして、要するに「暴風雨」なのだ、と。

ふむふむ。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大神宮叢書. 第3 後篇

 

『大神宮叢書』の第3・後編の中の「桑名郡」の記事に、「多度神社」という項目があります。

続日本紀』『文徳天皇実録』からの引用の他に、面白そうなものを。

454ページからです。

 

「(略)左経記ニハ、寛仁元年九月廿日乙卯、依可被定一代一度奉幣、早旦退出、風聞、頭右中辨於摂政殿御前書定文云々、東海道使蔭子藤原季忠、十月二日丁卯、巳刻許、右大辨被参八省東廊、被行大祓、是依京畿七道諸神一代一度幣帛神宝等被奉也、東海道伊勢国多度社、尾張国熱田、駿河国浅間、伊豆国三嶋、下総国香取、常陸国鹿嶋、云々(以下略)」

 

『左経記』は、「源経頼」の日記だそうですが、ちょうど謎だった「東海道六社」っぽいものが載っていたもので。

 

東海道伊勢国多度社、尾張国熱田、駿河国浅間、伊豆国三嶋、下総国香取、常陸国鹿嶋、」

 

平安時代から、大社という認識はあった、ということですね(神代に由来を遡れるような大社と肩を並べていますしね)。

 

「(略)延暦二十年多度寺資材帳云、以去天平宝字七年歳次癸卯十二月庚戌朔廿日丙辰、神社以東有井於道場、満願禅師居住、敬造阿弥陀丈六、于時在人託神云、我多度神也、吾経久劫作重罪業受神道報、今冀永為神身欲帰依三宝、如是託説雖忍数遍猶彌託云々、於茲満願禅師神坐山南邊伐掃、造立小堂及神御像、号称多度菩薩云々、種々所修功徳先用廻施於多度大神一切神等云々、ト載スレハ鎮座ハ天平宝字ノ前ナル事ハ明ナリ。(略)」

 

ここのところは、「満願禅師」という僧侶が、多度の神様の願いを聞き入れて、仏道に帰依させてあげた、つまり神仏習合が行われた、ということが書かれています。

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

コトバンクの『朝日日本歴史人物事典』より、

 

「満願
生年:生没年不詳
奈良時代後期の修験僧。養老年間(717~24)に大和(奈良県)の智仁の子として生まれ,弘仁7(816)年に死去したと伝えられる。20歳のとき,出家し,日課として方広経1万巻を読んだことによって「万巻」とも表記される。諸国を巡歴して,地方に仏教を伝播させるとともに,仏事をもって神に奉仕する神宮寺を建立し,神像を造立して,神仏習合を推進した。天平宝字7(763)年に,伊勢国(三重県)桑名郡の多度神社近くの道場に住み,丈六の阿弥陀仏の像を造立したところ,忽然と人が現れて,「重い罪業を行ってきたため,報いとして神の地位(神の身となって)を受けている,永久に神の身を離れるために,仏法に帰依したい」と多度神の託宣を告げた。満願は山を切り開いて,小堂を建て,また多度神の神像を造り,多度神に菩薩号を贈り,多度大菩薩と名づけて,この多度神宮寺に安置した。これが文書に現れた最初の神像制作である。のちに,桑名郡の郡司や他の僧侶,在家の仏教信者の手によって,多度神宮寺(多度神社)は整備された。この10年ほど前の天平勝宝1(749)年,常陸国(茨城県)鹿島において,鹿島神宮寺を創建し,大般若経600巻の写経をし,仏像を描いている。また天平宝字3(759)年には,相模国(神奈川県)の箱根山で修行していたところ,霊夢の中に三神が現れ,箱根三所権現(箱根神社)を創建したとされる。<参考文献>『伊勢国多度神宮寺伽藍縁起 并 資財帳』『筥根山縁起并序』」

 

……引用した『資材帳』の現代語訳も載ってました、ありがたい。

どうも、「満願禅師」、修験僧ということは私度僧(国家非公認の僧侶)っぽいですけれども……この辺りは、専門的なものを読まないと私では何ともかんともですが、とりあえずあっちこっちで神の願いを聞き入れては仏法に帰依させる、ということをやられたようです。

結果「神殺し」かけしからん、という意見もおありかと思いますが、むしろ「神の延命」のように思えるのですよね、私には。

仏教が比較的鷹揚だった、ということも関係していそうですが、一介の修験僧がですよ、「多度の神」を「多度大菩薩」にしちゃうんです。

すごくないですか?

「菩薩」っていったら「如来」の次に悟りを得られると信じられていて、多くの「菩薩」は実際にはすでに悟っているけれど人界の凡俗どもを哀れんで救いをもたらそうとしている存在なのです。

例えば、仏教に取り込まれたらしき「帝釈天」なんかは所詮「天部」ですし、「阿修羅王」なんて「天部」ですらない。

それなのに、「多度大菩薩」……これはもう、仏教を利用して神の延命を図ったとしか……思えなくもない、と思いませんか?

そしてそれは、結構うまいこといったのでしょうね、本地垂跡なんてアクロバティックなものも生み出し、神が仏教に取り込まれた、と思わせつつ神は延命したのです。

江戸期以降の国学のおかげで、それをぶっ壊したのが、果たしてよかったのかどうなのかはまた意見の分かれるところでしょう……。

 

「(略)是ヲ以テ後世祭神ヲ臆測シテ、国常立尊或ハ大若子命或ハ天津彦根命トモ云ヘリ。共ニ信受シカタクナム。(略)」

 

で、まあ、祭神についてはいろいろ言われているけれども、どうもどれも違うんじゃないの、というご意見。

 

製鉄に関係する神は暴風にも関係している、という説があったような気がしますが、それをおいておいて、「多度の神」については二つの系統、「暴風」の神と「鍛治」の神、があるとしましょうか。

もちろん、「暴風」の神のほうが古い信仰なのでしょうが、あんまり痕跡が見られないような……しかし、『風土記』の「伊勢国逸文」に登場する「伊勢津彦」はですね、東(諏訪)に追いやられるにあたって、「大風を起こし海水を巻き上げ波に乗って、辺りを昼のように照らしながら東に向かう」のです。

太陽神であり暴風神、の様相が伺えます。

これを伊勢の神の属性、と単純に捉えるわけにはいきませんが、「暴風津、いてもいんじゃね?」ってことで、名前を奪われた暴風神がいた、と。

じゃあ「鍛治」の神はどうなったのか、といいますと、これも古来からいても不思議ではないんですが、ちょっと引っかかるのが、神社の由緒書きにあった、

 

織田信長による兵火に罹り、美濃国(現在の岐阜県)赤坂山に御動座になり、御社殿を始め神宮寺などすべての御建物と、歴朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが灰燼に帰した。」

 

っていうやつで。

「美濃」って、当時は「織田信長」の国なのに、なんでまたわざわざ「美濃」に御動座になったのか。

それも気になるのですが、『延喜式』では「多度神社一座」、その他の記録でもですね、「別宮」への言及はないわけです。

もし、「別宮」が古来からあったのだとすれば、「暴風」の神と「鍛治」の神、それぞれを祀っていた、という可能性があります。

「別宮」が結構新しいとするとですね……「美濃」から属性をお借りしてきた、ということになったりしないですかね……ほら、「南宮大社」。

梁塵秘抄』の例の、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

です。
これを、製鉄関係のラインだとすると、「美濃」に御動座になったのをいいことに、お借りしてきた……なんて。

で、すでに「本宮」にはどちらの属性も失われて久しいので、「別宮」に「暴風」も「鍛治」も祀ってしまえ、あ、そうだ、ちょうど「一目連」というのがあるじゃないか……みたいな。

「一目連」が流行したのは、江戸時代だそうですからね。

 

 

 

 

 


いやまあ、妄想ですけれど。

 

 

 


うん、なかなかの妄想に育った。

というわけで、この辺りで〜。

「多度大社」(再)(三重県桑名市)

3/4。

「油日神社」からの帰り道……でもないのですが、久々に「多度大社」へ。

 

○こちら===>>>

www.tadotaisya.or.jp

 

○こちら===>>>

「多度大社」 - べにーのGinger Booker Club

(続)「多度大社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

f:id:bennybebad:20170304124247j:plain

f:id:bennybebad:20170304124251j:plain

大鳥居を、道すがら撮影(車内から)。

 

f:id:bennybebad:20170304124952j:plain

いきなりですが境内。

「上げ馬神事」の例の坂です(前回の参拝後くらいでしたか、馬に興奮剤を使っていた、というニュースが出たのは……)。

大きな神社ですので、観光客の方も多かったです(ので、あんまり写真がありません……)。

 

f:id:bennybebad:20170304125236j:plain

石灯籠の群。

 

f:id:bennybebad:20170304125254j:plain

別角度。

 

f:id:bennybebad:20170304125301j:plain

ハートの石灯籠……どこかでも見たな……。

 

f:id:bennybebad:20170304125512j:plain

いきなり本宮。

 

f:id:bennybebad:20170304125518j:plain

f:id:bennybebad:20170304125523j:plain

本宮と別宮の間の、磐境……かな。

 

f:id:bennybebad:20170304125610j:plain

f:id:bennybebad:20170304125619j:plain

別宮。

 

f:id:bennybebad:20170304125703j:plain

末社の「神明社」。

 

f:id:bennybebad:20170304125725j:plain

扁額。

 

f:id:bennybebad:20170304125803j:plain

摂社の「美御前社」。

 

f:id:bennybebad:20170304130018j:plain

八紘一宇……とはちょっと違いますが、方角を示した石。

 

f:id:bennybebad:20170304130058j:plain

切支丹燈籠。

 

f:id:bennybebad:20170304130114j:plain

歌碑……ちょっと絵が面白いんですが、見辛いですね。

 

f:id:bennybebad:20170304130150j:plain

苔生す岩。

 

f:id:bennybebad:20170304131200j:plain

f:id:bennybebad:20170304131147j:plain

「多度稲荷神社」のおキツネ様

手甲がちょっとぞうりみたいで可愛い。

 

おっと、以上です……。

 

f:id:bennybebad:20170304215416j:plain

御朱印

引用などは次回に〜。

「油日神社」(補)

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 県社油日神社誌

 

『県社油日神社誌』という、ありがたい文献を発見(他のは探していない)。

これからまいりましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

まずは、7ページ。

 

「第二 祭神
祭神は油日神にまします。後世、油日明神、又は油日大明神とも称す。
三代実録三十二云、油日神。
式外神名考巻下云、今有三社、本宮油日明神。
伊水温故云、三社 本社 油日大明神。
伊賀國誌考巻一云、三社 本社 油日大明神。
然れども、其の何神に在らせらるるかを詳かにせず。蓋、按ずるに、油日大明神縁起を始め、油日神社濫觴記、及淡海地志、近江國與地志略等引く所の縁起には、皆斉しく当社祭神は、元と油日嶽に鎮座あらせられ、其号を通山大明神とし奉れりと記し、又古来、油日嶽山頂に、岳大明神を奉斎し、毎歳、八月十一日夕より、七ケ村の氏子、同社に参籠の事ある等を総合すれば、当社祭神は油日嶽に鎮座あらせられし山神に在らせられ、油日神と称するは油日嶽に鎮座す神なるが故なるべし。然るに縁起等に、天元若しくは天延年間、油日嶽山頂に油火の如き火顕はれしより、号を改めて油火大明神と称し、後に火を日とせりと称するは、油日の文字より附会せる説にして信じ難し。

近江國與地志略巻五十三云、天延三年、嶽上に大光明ある故、始めて油日の神号を奉るのよし、笑に堪たり。 三代実録曰、元慶元年十二月三日己巳、授近江國正六位上油日神従五位下云々。 元慶は人皇五十七代陽成天皇の年号なり。 天延は人皇十四代円融天皇の年号なり。 元慶元年と天延三年とは、九十七年違へり。 淡海録また此略記を以て正説とす。 謬れりと云ふべし。○中略 嗚呼社僧金剛寺の略記、虚偽人をまとはすこと甚し。

伝云ふ、初め通山大明神と称せりと。

油日大明神縁起云、太子○聖徳太子 此神可奉名通山大明神宣。 此神悦気色。
淡海地誌巻十二云、甲賀郡谷油日大明神 初曰通山大明神

江州甲賀郡油日大明神縁起○中略
用明天皇之皇子聖徳太子 ○中略 曰、霊ナリ、的哉、号曰通山大明神

其他社蔵の宝暦卯九年九月及十月の文書に、「旧号通山大明神トモ云」と見え、近江國與地志略巻五十二等にも、太子貴敬而宣、奉号通山大明神」と見えたり。但、油日大明神縁起に見えたる内保と同名なる伊賀國阿拝郡内保に鎮座あらせらるる宇都可神社も亦通山大明神と称す。

伊水温故云、通山大明神と称す。 伊賀に十五座宇都可社、縁起有秘事、仍不審。宇都賀を内保と謬たる也。

伊賀國誌云、通山大明神有内保村 神名帳に宇都可神社と云也。

其他神名帳考証等にも、「宇都可神社 ○中略 [伊考]在内保村、云通山社」と見えたり。蓋、此の間何等の関係あるにあらざるか、後考を俟つ。 
然るに、近世大山咋命和子姫二座とす。

近江輿地志略巻五十三云、油日大明神 ○中略 当社に祭る神体未詳と雖も、尾張風土記を按ずるに、海部郡雪田山西え傍有神、号油日宮、大山咋神子和子姫也云々、是れを以て考ふれば、当社も亦大山咋神と和子姫なるとにや。

琵琶湖志云、油日明神 ○中略 祭所大山咋神和子姫二座也と云。

然れども、近江國輿地志略は尾張風土記に據りたるものにして、琵琶湖志は輿地志略に憑據せるものなるべし。 而して近江國輿地志略の據れる尾張風土記は、日本総国風土記に収めたる偽書なれば憑據し難し。 しかも風土記の云ふ所の雪田山及油日宮、古来海部郡内にありしと云ふに於てをや。 当社社司瀬古氏、嘗て、此事に関し書を熱田神宮に致せるに、同宮政所庶務係よりの返事に、

客月廿三日、御中越之旨に付、取調方被申付候、海部郡は、現今、海東、海西の二郡ニ相分レ候ヘドモ、郡名ノ如クニテ、山嶽等更ニ無之、平面之田畑ノミニ候。 偽作ノ風土記ニ、良材ヲ出シ、禽獣多シナドアルハ、実地ヲ知ラザル者ノ説ト存候、○中略
明治四十年六月九日

と、同月十七日、更に同宮より瀬古氏に書を贈りて

海部郡に油日ノ社ナク、地名モナシ。 同郡ハ平面ノ田畑ノミニテ、素ヨリ山林ハナシ。

と云へり。
明治維新以後、更に道臣命天忍日命、樴取姫の三座なりとせり。
明治七年十二月川枯神社取調帖云、

一祭神三座 天忍日命 道臣命、樴取女

蓋、古来この三神を以て当社祭神とすること曾て所見なし。 然るに明治の初に至り、突如としてこの三神を以て当社祭神とせるは其の據るところ詳ならざれど、此地の旧家に甲賀武士と称する某家あり、諸社宝蔵の鍵を預る。 其の蔵する所の系図、家祖を道臣命とせり。
ここに明治維新の際当社祭神詳ならざるに乗じ、かねて鎮祭の神像三軀を以て其の祖三座に充て、古来の縁起に道臣命を加へ、新に、社伝を撰して命神邑仁天神崩玉比則御嶽乃麓字風呂止云地仁葬留、と記したり。 然るに明治十八年四月に至り、滋賀県甲賀郡役所より、内務省社寺局長より照会ありたりとて、取調帖載する所の道臣命の墳墓見取図及地名古記等提出方を、当村に命じたり。 是に於て、村民倉皇、社頭を去る一町許の地に、墳墓の形を存するものあるをそれとなし、上申せりと。 蓋 当社祭神を天忍日命道臣命樴取女の三座とすることは、某の家祖を道臣命とするに起因せるものなるべし。 但、維新匇々の際、偶々此挙に出でたるものにて、敢て神威を褻瀆し奉らんとにはあらざりけらしと雖も、爾来幾十年、世運は長足の進歩をなして、百事明かになりては、斯くてあることの畏こさに禁へず。 向に漫然之を容認したる者も、心自ら平なる能はずして、祭神訂正の議起り、遂に大正元年十月十四日を以て其筋に出願せしに、翌二年二月五日に至り、左記指令の如く許可なりぬ。 即ち国史典籍の明徴ある古ふ復りたるなり。(略)」

 

長く引用しましたが、「油日神」がなんなのかはさっぱりわからないようです。

「油」という言葉がいつから使われていたのか、語源的に「あぶる」や「あふる(る)」から出ているのであれば古そうな気がしますが、それにしたって「油」「日」という用字がなかなかな謎。

とはいえ、『日本三代実録』には「油日神」とあるのですから、1000年以上続く呼称ではあると。

むーん……何かしら「あぶらひ」「あふらひ」といった言葉に当て字をした、と考えるのがいいのかな……元の言葉が何かはさっぱりわかりません。

謎。

聖徳太子」絡みで「通山大明神」というのも言われていますが、「油日」と全く通じない……「とおりやま」なのか「とおしやま」なのか……「あふらひ」が「往来」のことだと何となく近づきそう……「蟻通明神」っていらっしゃいますよね確か、その辺りと関係あったりするのかな……まあ後世の附会でしょうけれど。

面白いのは、『尾張風土記』に、海部郡に「油日宮」があるよって書かれてるけど、「熱田神宮」に問い合わせたら、「んなもんねえよ、『日本總国風土記』って偽書だろ」とばっさりやられているところでしょうか。

確かに、そんな神社があれば、愛知県でも話題になっているでしょうしね。

続いて、108ページより、

 

「第十二 末社並境内神社
末社に白鬚、岳の二社あり。 古来本社の相殿の神にして、今共に無格社たり。 白鬚神社は、古来今の地、即ち当村字岡崎に鎮座あらせられ、祭神は猿田彦命に坐す。 古来白鬚明神とも白鬚大明神とも称し、社号を白鬚神社といふ。 別に西の宮の号あり。 蓋、当社ノ西にあるを以てなるべし。 又奥院とも白髭大明神者とも、西宮白髭大明神とも号せり。(略)維新以前奉安する所の御神体三躯、並に木像坐體にあらせらる。 皆奈良朝時代の服装にして、中は男神、丈一尺二寸、幅五寸四分、左は女神、丈九寸五分、幅五寸、 右は姫神、丈四寸五分、幅二寸七分、元と当社に奉安の神体より古し。 創立年月詳かならず。 但、当社と其の創立を同じうすとも、其の以前なりとも称す。(略)
岳神社は、古来の地、即ち油日嶽山頂に鎮坐あらせらる。 祭神詳かならず。 但、伊水温故、伊賀国誌、式外神名考は岳(タケ)大明神と記し、年中行事は、社号龍王社又は嶽善女龍王社と記せしが、明治七年の当社取調帳には、於山頭龍神小社祭神大綿津見神と記し、今、罔象女命とせり。 按ずるに、維新後、或ハ大綿津見神と称し、或は罔象女命と称するは、維新前龍王社又は嶽善女龍王社と称せるに憑據せるものなるべく、龍王社又は嶽善女龍王社と称せるは、油日大明神縁起、油日神社濫觴記等に、円融天皇の御宇、此地に大蛇あり、住民を悩ます。 時に橘敏保、勅を奉して之れを討つと見えたる縁起より称せる社号なるべし。 而して伊水温故、伊賀国誌及式外神名考等に称する岳大明神の神号の由来詳ならずといへども、恐らくは古来の称ならんか。 そは罔象神社は、年中行事に、西宮と同一に、特に一項を設け、其項に、管理寺院、宮守、例祭日及境内の除地たること、当社を称して大宮と称すること見え、別項に龍王社神主と見え、又伊水温故等に油日大明神三社の一として記し、又鎮座地、当社を距る一里餘なる事等よりいへば、西宮と同一に当社の末社と称せざるべからざるにも係らず、末社と称せられずして、年中行事油日大明神社の項に、境内社として記されたる事、及同じく年中行事に八月十一日の夜、七ヶ村の氏子山頂に至りて参籠、若し雨天なれば当社に参籠の事見えたる、其他当社縁起が、当社の創始、祭神を山中に祭り、後ち社殿を麓に建立せりと見えたる事等を合せ考ふるに、岳神社は、当社の元宮にして、祭神は油日嶽に鎮座あらせらるる山神にあらせられざるか。 果して然りとせば、彼の末社と称せざる理由、嶽参籠に際し雨天なれば、当社に参籠の理由、及当社が油日嶽の麓に在るの理由釈然たるべし。 殊に伊水温故等が伝へたる神号、即ち油日又は其他の名称を冠せずして、単に岳大明神と称する神号の由来釈然たるべし。社号其の始めを詳かにせずといへども、近世龍王社、委しくは嶽善女龍王社と称せしが、明治十二年神社明細帳編製の際、罔象神社とし、爾来かく呼び来りしを、同四十四年九月二十五日許可を得て、岳神社の旧に復せり。 創立年月詳ならず。 但、当社と創立殆んど同じかりしなるべし。 境内は油日嶽の山頂たり。 油日嶽は、油日村の東に在り、一に東山と称す。(略)」

 

ということで、相殿の「猿田彦」と「罔象女神」が謎だったのですが、「白鬚明神」「岳明神」のことだったようです。

「白鬚神社」が「猿田彦神」なのはまあいいですし、「岳神社」が蛇体の神で、一旦は「善女龍王」ってことになったけど、神仏分離の辺りで「罔象女神」になった、というのもわかります。

「善女龍王」は、

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑より、

 

空海神泉苑で請雨修法の際に応現したと伝える龍王の名で、経軌に見えず、御遺告に、もとインドの無熱達池に住み、害を加えず真言の奥義を敬って出現した8寸(2.5cm)の金色蛇で9尺(3m弱)の蛇の頂上にいると。(略)」(p439)

 

ということで、密教系でよく出現する、どこが由来かわからない神の一つのようです(「赤山明神」とか「新羅明神」とか)。

雨乞いにはやっぱり龍(蛇)ってことなのでしょう。

甲賀郡だし、「甲賀三郎」と絡んでいたら面白いんですけれども。

その他、辺りの神社を習合した「八幡神社」、大字瀧字檜尾谷に鎮座していた「常松神社」のことが書かれています。

 

それから、70ページより、

 

「第九 社殿
社殿及附属建物は、今、本殿(三間社切妻造縋リ破風造檜材屋根檜皮葺、九坪)、神門(入母屋一ト軒造檜材屋根檜皮葺二坪四合九勺)、瑞垣(略)、拝殿(入母屋二軒唐破風造檜材檜皮葺、九坪)、楼門(略)、廻廊(略)、寶庫(略)、社務所(略)、神輿庫(略)、水舎(略)、鳥居(略)、制札場(略)、制札(略)あり。但、維新前の社殿及建物は年中行事に、拝殿・護摩堂・八講堂・寶蔵・鐘楼・楼門・回廊・御輿庫・神楽所・華表と見えたり。」

 

維新前の社殿のことが書かれています。

図絵がないのが残念。

 

というわけで、何もわからないままに終わりますが、きっと考察していらっしゃる方も見えるでしょうから、文献を探してみようと思います。

とにかく、神社の様子が素晴らしいので、機会があれば是非とも。

「油日神社」(滋賀県甲賀市)

3/4。

敢國神社」から足をちらっと伸ばしまして、どこまで伸ばしたかというとお隣滋賀県甲賀市「油日神社」

 

○こちら===>>>

www.aburahijinjya.jp

 

↑公式HPです。

いや、『手裏剣戦隊ニンニンジャー』の映画のロケ地になっていて、その聖地巡礼……というわけでもないのですよ。

実際に行ってみると、なかなか鄙びた道を走り抜け、住宅地の奥まったところに突如出現するので、ちょっと驚きます(ここでよかったのか……と何度か確認しました)。

 

f:id:bennybebad:20170304111629j:plain

正面鳥居。

 

f:id:bennybebad:20170304111642j:plain


鳥居。

 

f:id:bennybebad:20170304111748j:plain


拝殿に関する案内板。

 

「桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、正面及び背面軒唐破風付 檜皮葺 桃山時代
油日神社の草創は明らかではないが、三代実録(元慶元年=八七七年)には、「油日神」の記述が見られるので、この頃にはすでに神社としての形態を持っていたことがわかる。
建物は建築様式、技法よりみて桃山時代の建立と考えられる。昭和三十七年の修理の際には格子戸と縁廻りが復原整備された。
拝殿は四方に格子戸を建て縁を廻し、内部は床拭板張りに棹縁天井とする。柱上には舟肘木を置いて軒桁を受け、二軒疎垂木とする。
この拝殿は軒唐破風をつけて正面を蟇股で飾り、簡素な中にも軽快で華やかさを加えた優れた建物である。(以下略)」

 

ううむ、建築様式に関する知識がほとんどないのですが、なかなか特徴的なようで。

 

f:id:bennybebad:20170304111754j:plain

こちらは本殿の案内板。

 

「(略)
この本殿は、明応二年(一四九三)に建立されたもので、正面三間、奥行二間の内陣(身舎)の前面に葺き降ろしの一間通り(庇)を取り込み外陣とし、さらに正面中央間に向拝(孫庇)を付ける。周囲三方には刎高欄付き切目縁を廻し、後端に脇障子を付け、正面に浜床と階段を設ける。
内陣は奥行二間を前後二室に区切る。丸柱を立て、正面と東側面前寄りの間は板扉で、それら以外は板壁とする。床は内陣後室が最も高く、天井は格縁天井である。外陣は大面取り角柱、菱格子戸引き違いの開放的な意匠で、床は低く、天井は化粧屋根裏とする。組物は平三斗で、外陣と向拝の桁行両端を連三斗とし、向拝には手挟を付け、中備えは外陣正面と向拝に蟇股を入れる。脇障子には舞楽を舞う珍しい薄肉彫刻を入れる。
この本殿は外陣を前室とする三間社流造で、動植物の透し彫りの蟇股などの意匠に室町時代後期の特徴がよく表されている。また、建立と後世修理の棟札十数枚が附指定され、その経緯を知ることができることも貴重である。(以下略)」

 

ふふん、さっぱりわかんない。

 

f:id:bennybebad:20170304111807j:plain

というわけで、参道を抜けた先でまず遭遇する楼門。

 

f:id:bennybebad:20170304111827j:plain

かっこいい……。

渋い……。

 

f:id:bennybebad:20170304112005j:plain

で、一気に拝殿正面。

 

f:id:bennybebad:20170304112014j:plain

格子を透かして、ちょっとだけ本殿。

 

f:id:bennybebad:20170304112030j:plain

舞殿……かと思ったのですが、あれ、こっちが拝殿かな。

 

f:id:bennybebad:20170304112110j:plain

拝殿向かって左側(だったと思います)にある摂社。

 

f:id:bennybebad:20170304112121j:plain

向かって左側より、社殿。

 

f:id:bennybebad:20170304112137j:plain

もうちょっと奥に回ったら、流造がよくわかる本殿が見えました。

 

f:id:bennybebad:20170304112156j:plain

もうちょっと手前から。

 

f:id:bennybebad:20170304112210j:plain

さらに手前から。

 

f:id:bennybebad:20170304112225j:plain

うーん、写真と、実際に見るのとは違いますね……実物は、いろいろな角度から見ていて飽きない感じがしました。

 

f:id:bennybebad:20170304112240j:plain

もっと、ぐっと下がってみました。

露出やらの関係で、渋みが増している感じ。

 

f:id:bennybebad:20170304112248j:plain

これが先ほどの舞殿の遠景。

 

f:id:bennybebad:20170304112315j:plain

舞殿の正面。

 

f:id:bennybebad:20170304112328j:plain

「鎮護」の額が……あれ、やっぱりこっちが拝殿かな。

尾張造っぽさのある社殿配置です。

 

f:id:bennybebad:20170304112346j:plain

うーん……何か、こう、気持ちいい……。

 

f:id:bennybebad:20170304112418j:plain

向かって右側からの社殿。

 

f:id:bennybebad:20170304112441j:plain

境内を右手奥の方へいきますと、まず神馬像。

 

f:id:bennybebad:20170304112507j:plain

案内板。

消えかけて……何とか読んでみます。

 

「御祭神 油日神
東相殿 罔象女神
西相殿 猿田彦神
御神徳 太古油日嶽◼︎◼︎◼︎坐シ 皇国鎮護ノ御聖◼︎◼︎◼︎トシテ朝野ノ崇敬格別ナリ 荒魂ハ無雙ノ勝軍神トシテ武門ノ尊崇ヲ◼︎メ給ヒ和魂ハ農耕ノ水神トシテ◼︎◼︎◼︎近ニ光◼︎シ給フ(以下略)」

 

ふう……。

 

f:id:bennybebad:20170304112606j:plain

摂社……なんですが、案内はあったかな……。

 

f:id:bennybebad:20170304112621j:plain

f:id:bennybebad:20170304112633j:plain

ちらりと覗く本殿。

 

f:id:bennybebad:20170304112729j:plain

右手奥にずんずん進んでいくと、突然登場、経堂(だと思いましたが……神輿庫、という感じではなかったと思います……)。

 

f:id:bennybebad:20170304112847j:plain

境内、拝殿向かって右手から楼門方向。

 

f:id:bennybebad:20170304112923j:plain

遠景、いやいい写真。

 

f:id:bennybebad:20170304112928j:plain

楼門付近から、左手の回廊。

 

f:id:bennybebad:20170304112948j:plain

遠景、いやいい写真。

 

f:id:bennybebad:20170304112953j:plain

楼門付近から、右手の回廊。

 

f:id:bennybebad:20170304113005j:plain

楼門の組み木。

 

f:id:bennybebad:20170304113050j:plain

楼門正面。

 

f:id:bennybebad:20170304113146j:plain

楼門を向かって左手に行きますと、鳥居。

 

f:id:bennybebad:20170304113213j:plain

鐘楼。

 

f:id:bennybebad:20170304113225j:plain

神社正面の道。

このカーブと、この灯篭の連続性。

 

f:id:bennybebad:20170304113438j:plain

参道から楼門。

 

f:id:bennybebad:20170304113526j:plain

正面鳥居の扁額。

 

f:id:bennybebad:20170304113543j:plain

もう一回鳥居。

 

f:id:bennybebad:20170304113651j:plain

f:id:bennybebad:20170304113704j:plain

駐車場の横にあった池。

 

f:id:bennybebad:20170304113729j:plain

そこからの楼門。

 

f:id:bennybebad:20170304113745j:plain

楼門。

 

いや、もう、様子が素晴らしい……季節ごとに行ってみたいなぁ……次は、もうちょっと春めいてから(といいながら、もうすぐ一年経ちますが)。

御朱印は、いただけるのかもしれないですが、いただいておりません……。

 

「敢國神社」(妄)

さて。

 

まずは、神社でいただける由緒書きから。

 

「当社敢國神社は、伊賀の神奈備山・南宮山(標高350メートル)を遥拝する形で鎮座し、もとは南宮山の頂上に祀られていました。その後、山麓に降ろしてお祭りするようになったのが敢國神社のはじまりです。大岩祭祀跡からは古墳時代の祭祀用土器が出土しており、神が宿る御神体山を仰ぎ奉るかのようにお祭りが行われた。
斉明天皇4年(658)には、社殿が現在地に創建され奈良時代には、この地に大きな勢力をもった安部氏(敢氏)の氏神敢國津神」をお祭りするようになります。『日本三代実録』には、「安部神」が「敢國津神」に神名を変え国家から神階を与えられる記事を見ることができます。また貞観15年(875)には、延喜式内大社に位置づけられ、伊賀国の一之宮へと神格が高められました。(『延喜式神名帳』)
江戸時代には藤堂高虎伊賀上野城の鬼門鎮護の神とし、慶長19年(1614)には107石の神領が寄進されました。
主祭神は、孝元天皇第一皇子の「大彦命」で崇神天皇の時代に北陸・東海平定に貢献した四道将軍の一人をお祀りしています。この他、医薬と酒造の神「少彦名命」と鉱山師や鍛治職人が信仰する「金山比咩命」をお祭りしています。」

 

ふむふむ……「安部の氏神」として祀っていたものが、「あへのくにつかみ」に名前を変えたと……で、どうやらその「安部の氏神」は「大彦命」だということのようです(前回参拝のときの記事にもつらっと書きましたけれども)。

岐阜県の「南宮大社」と共通する「南宮山」が気になります。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社ということで、『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなにあらためた箇所あり)。

598ページです。

 

敢國神社 大
(略)◯祭神金山彦命、一宮記、頭注 ◯一宮村に在す ◯当国一宮也、一宮記、頭注等、南宮金山姫命、永万記、南宮、(略)◯残編風土記云、一宮山、中略 有神号敢國大明神、所祭金山比咩命也
速胤云、(略)残編風土記に、当郡南宮大明神、所祭少彦名神、とあるは同名にして別社と聞ゆるを、伊水温故に、國分云、人皇十四代円融院貞観二年二月修造の告の事ありて、此南宮明神を一宮敢國明神と同所に遷し奉る、さる故に南宮山も一宮の山と成侍ると云ふ、南宮山とは今の小富士山なり。
神位
文徳実録、嘉祥三年六月庚戌、伊賀国津神授従五位下、三代実録、貞観九年十月五日庚午、授伊賀国従五位下国津神従五位上、同十五年九月廿七日己丑、授伊賀国従五位上敢国津大社神正五位下、直指抄、冷泉院御宇安和二年八月三日、授正一位
速胤按るに、阿拝郡は国府にて、殊に一宮とも崇る社なれば、敢国津神、また敢国津大社神と称しし事然るべし、嘉祥三年に津神とあるは、恐らくは国津神とありし国の字重ぬるより、伝写の時脱したるならん、猶古本を得て訂すべし」

 

……あれ、御祭神が「金山彦命」になっていますが……こりゃもう「南宮山」に引っ張られている感じでしょうか。

後半の『文徳実録』『日本三代実録」の引用は、由緒書きでも触れられている部分ですね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部26

 

↑『古事類苑』を見ておきましょう。

299ページです。

 

敢國神社
(略)
神名帳考証 伊賀]敢國神社 在上寺村 大彦命 ◯中略 日本紀云、大彦命、阿倍臣、阿閉臣、伊賀臣之始祖也◯中略 今按敢興阿閉訓同、考姓氏録有安倍臣、而無敢臣、且伊賀名張、皆大彦命之後也、
(略)
日本書紀 四 孝元]七年二月丁卯、立欝色謎命、爲皇后、后生二男一女、第一曰大彦命、◯中略 大彦命、是阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡七族之始祖也、
(略)
延喜式神名帳頭注]伊賀阿閉郡 敢國 南宮也、金山姫命也、
[伊賀名所記]敢國大明神 直指抄云、少彦名神者、伊賀國阿拝郡敢國明神也、冷泉御宇安和二年八月三日授正一位云々、國分に云、当國の一宮にてましませばありがたき事なり、延喜のみかどの修造などのために、おほく木工寮治部省のやからを下し給ふよし、此所の縁起に侍る事なり、南宮山金山明神 金山比咩のみことにてましますよし、直指抄に見えたり、國分に云、人皇十四代、円融院貞元二年二月、造営の事ありて、この南宮明神を、一宮の敢國明神と同所にうつしたてまつれり、さるゆゑに南宮山も一宮の山となり侍ると云々、
[伊水温故 阿拝郡]敢國神社 一ノ宮村、千歳村の内 本宮二座、少彦名の命、南宮金山日賣、当國の一宮にして一州の総鎮守、本社は少彦名、号正一位敢國角大明神、延喜式伊賀二十五座の大社なり、
[三國地誌 六十 阿拝郡]敢國神社
祭神二座、少彦名命、金山比咩命なり、敢國は社号、南宮は地名、分て云ときは、敢國津神少彦名命、南宮は金山比咩命也、風土記一本、神名を錯り挙ぐ
(略)
源平盛衰記 三十五]範頼義経京入事
拓殖里くらぶ山、風の森をも打過て、当國 ◯伊賀 の一の宮南宮大菩薩の御前をば、心計に再拝して、暫く新居川原に
磬たり、
社格篇一宮條に、此文を美濃國の下に掲ぐたるは誤なり、
(略)
[三國地誌 六十 阿拝郡]敢國神社
摂社 九社権現 本社の西瑞籬の内 祭神詳ならず、六所権現、本社の東瑞籬の内 是故郡司甲賀三郎兼家が霊を祀るとも云、観音大士の像を安す、又二尊日月神蛭兒素尊を祭とも云、是非をしらず、花園離宮、佐那具村にあり 若宮八幡祠 三處あり、一は佐那具村、一は千歳村野添宮即是なり、一は本社の南にあり、 大石明神祠 本社の西南、丘陵の上大石あり、俗黒巌と称す、 結神祠、本社の西にあり、 神明祠 宮谷にあり今廃す 小観宮弁財天祠、牛頭天王祠、二祠、一は本邑、一は佐那具村にあり、 峯伏神祠、櫻木明神祠、巳上二祠、千歳村にあり、 春日神祠 佐那具村にあり、 諏訪明神祠、 外山村にあり、神祇秘抄、諏訪を以て南宮とす、蓋兼家、生土神を以て此に遷祀ることを謬伝る歟、
[伊賀史 下]光仁天皇御宇、宝亀辛亥正月、藤原永手病焉、其臣阿閉包衡、祈於阿閉神无験、二月永手薨焉、包衡帰於阿閉、登松樹縊死、後爲鬼横惑人、国司所有命、以其子在阿閉称鬼子、子太慚訴歟於彼松、於此霊休焉、」

というわけで、いろいろな文献からの引用ですが、

 

「拓殖里くらぶ山、風の森をも打過て、当國 ◯伊賀 の一の宮南宮大菩薩の御前をば、心計に再拝して、暫く新居川原に
磬たり、」

 

源平盛衰記』に出てくる「南宮大菩薩」が「敢國神社」のことだとすれば、なんらかの意味での軍神だった、と考えられます。

それから、「甲賀三郎」が出てきましたね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 三重県神社誌. 第2

 

↑『三重県神社誌』の第2巻に、考証も含めたたっぷりの記事が掲載されていますので、興味のあるかたは全文を。

13ページより。

 

「(略)又「伊賀國誌」には少彦名命及南宮金山日賣二座となし且相殿に甲賀三郎兼家の霊を祀るとし 「敢國社 (略)本社者少彦名命正一位敢國角大明神。中略 少彦名命の神体仙人影像也。 註文略す 金山比咩の身体蛇形の蟠る形ち美濃國垂井の南宮に同相殿に甲賀三郎兼家霊儀十一面観音の座像 兼家は信濃國望月源左衛門尉重頼三男也承平二年相馬将門逆謀の節有軍功江州◼︎◼︎の守護と成又伊陽國守となる千歳佐那具の辺に造舘閣住之天正九年信長下知当國寺社及回禄当社神体散乱す其行方を不知一乱落居の後当國愛宕の小天狗新に造一殿敢國と南宮の玉像を奉◼︎して兼家霊儀は此三十年以後山城伏見在番侍洛陽三条寺町賣家にて求め出し藤堂高虎え奉りり程再興ありし也」と記したり 「伊水温故」に云ふ所も大体以上に同し但甲賀三郎のことに就ては「温故」述る所最も詳なり 即ち左に掲く

「六十一代醍醐天王の御宇に信濃國の大主に諏訪源左衛門源重頼と號し武将有て朝家に仕奉たり其子三人有嫡男太郎は号望月信濃守重宗 次郎は望月美濃守貞頼と號す 三郎は望月隠岐守兼家と號す 皆源左衛門重頼子にして源姓也 其先をいへは大己貴命第二の子建御名方命 諏訪明神也 其苗裔の末葉也 源左衛門子三人共に人皇六十代仕醍醐天皇延喜三年八月三郎兼家舎兄太郎次郎共に國山にあそふ 兼家若狭國高懸山の窟に入て鬼輪王を射殺す 于時太郎次郎二人として兼家をたはかり龍穴につき落す 漸々窟中をしのき出江州甲賀郡に徘徊し六十一代朱雀院御宇承平二年に以往日之事天聴に達す 故に太郎重宗次郎貞頼者兼家か威力を恐て自害す 兼家は同年平将門謀逆によつて有軍功爲甲賀郡主称甲賀近江守被任刑部卿太郎重宗次郎貞頼か子孫は号諏訪と或望月号然後当國の太守成 当郡に住して世を去彌威甚光を増に依て敢國にあはせ奉勧請則正体として十一面観音を奉納す。(略)」
(以下略)」

 

 

↑というわけで、

 

◯こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑「コトバンク」の『朝日日本歴史人物事典』によると、

 

甲賀三郎

信州諏訪明神として祭られた伝説上の人物。中世唱導物の典型である『神道集』の「諏訪縁起」で説かれている。近江国(滋賀県)甲賀郡の出身。その地の地頭で甲賀三郎訪方のこと。妻春日姫を天狗にさらわれたため,そのあとを追いかけるが,2人の兄のはかりごとにより蓼科山の人穴に突き落とされ,地底の国々を遍歴する。地底の国々には,農業を営む村々が多くあり,甲賀三郎は各村でもてなされる。最後に維縵国にたどりついた。そこは毎日,鹿狩りを日課とする狩猟民の村で,維摩姫から手厚く遇されて月日を過ごすが,春日姫のもとに戻る気持ちが高じて,ふたたび地上へ脱出をはかる。その間さまざまの試練に遭遇したが,やっと浅間岳に出ることができた。そして本国の近江国甲賀郡の釈迦堂にきて,自分の姿が蛇身になっていることに気づいて,わが身を恥じ隠れたが,蛇身を逃れる方法として,石菖の植えられている池に入るとよいことを知り,それを試みて元の姿に戻り,春日姫と再会することができた。甲賀三郎は,地上から異界である地底国を訪れた人物であり,地底の人々からみると,地上からやってきた異人とみなされている。ふたたび現世に戻ったときは異界の姿すなわち蛇身となっていたが,その地底国は,あまり地上界とは変わっていない。農業と狩猟が主たる生業となっており,のちに甲賀三郎が,狩猟神と農耕神をかねる諏訪明神の性格を反映しているといえる。」

 

とあり、中世以降、「諏訪大社」の縁起を説く上で駆り出された伝説上の人物が「甲賀三郎」なわけですが、『伊賀國誌』では「少彦名命」が仙人の姿、「金山比咩命」が蛇体だとしており、何といいますか、いろいろと混ざり過ぎていてよくわかりません。

ただ、諏訪の伝説である「甲賀三郎」をここに登場させたのには、

 

 

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

 

 

梁塵秘抄』の、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

↑という記述との共通性をうかがわせます。

「南宮」の本山が信濃(諏訪)で、美濃の「南宮」が中の宮(中宮という意味なのか、中間という意味なのか……)、伊賀の「南宮」は御子神、という解釈がされていた、ということだとすると……諏訪ー美濃ー伊賀、というなんらかのルートがあったということで、そうすると、これは蛇体の神の流れなのか、あるいは鉄に関する神の流れなのか……とりあえず、諏訪ー美濃ー伊賀というラインに何か意味があったのだろう、と思います。

そういえば、

 

 

風土記 (平凡社ライブラリー328)

風土記 (平凡社ライブラリー328)

 

 

風土記』によれば、伊勢の国号は、「天日別命」に追い出された「伊勢津彦」という神にちなんでいるのですが、このかた、信濃に行ってます(『万葉集註釈』)。

また、別の伝説として、伊勢にいた「伊勢津彦」を追い出そうとしてやってきたのが「阿倍志彦の神」なのですが、結局追い出せなかったというのも残っていて、しかも何故か「伊勢津彦」は、「伊賀の安志(あなし)の社」にいる神だ、とされています(『日本書紀私見聞』)。

とすると、「諏訪ー美濃ー伊賀ー伊勢」というラインが本来で、何なら伊賀国はそもそも伊勢国の一部だったとされていますから、「諏訪ー美濃ー伊勢」というラインに帰着する、と。

 

……で?

 

 

 

 

 

 

いや、よくわかりませんけれども。

伊賀の国号は、「伊賀津姫」とか「吾娥津媛」(「猿田彦大神」の娘だったりします)に由来する、と書かれたりもしています(『日本総国風土記』『風土記残篇』)。

猿田彦大神」が、現在の三重県(伊勢、伊賀)辺りの神格で、ひょっとすると「伊勢津彦」とも共通する背景があるかもしれない……と妄想が果てしなく進んでいきますが、後の朝廷勢力が、何度かに渡り「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインを越えよう(攻略しよう)とした、その記憶が複数の伝説になったのではないか、と思えたりもします。

 

◯こちら===>>>

「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club

 

↑過去の「猿投神社」の記事でも引用した、

 

◯こちら===>>>

www.maibun.com

 

↑に掲載の「古墳時代の鉄鐸について」から、最後の「付・鉄鐸、鉄製祭祀具の儀礼的背景」を、再度引用してみます。

 

「祭祀具としての鉄鐸と、鉄器製作との接点を記す記述が、『古語拾遺』、天石屋戸段の「令天目一筒神作雑刀・斧及鉄鐸(古語、 佐那伎)」の記述である。また、『延喜式四時祭式』鎮魂祭条には「大刀一口 弓一張 箭二隻 鈴廿口 佐奈伎廿口(下略)」 とあることから、鉄鐸(サナギ)は鎮魂に用いられた祭祀具とされている。 『梁塵秘抄』巻二、二六二番歌、「南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮」の 歌は、信濃国諏訪社、美濃国仲山金山彦神社(南宮大社)、伊賀国敢国神社が「南宮」と称せられたことを示すもので、八木意 知男は、諏訪大社が、先の『古語拾遺』所伝の「天目一箇神」、あるいはその系統に連なる神、仲山金山彦神社(南宮大社)が 金山彦神、敢国神社が金山毘売神(金屋子神か)を祀り、三社が三位一体の製鉄神を祀っていたことを背景とすることを洞察し た(八木意知男 1977「南宮考―『梁塵秘抄』二六二番歌を中心として―」『古代文化』第 29 巻第 11 号 財団法人古代学協会)。 これに関連して、諏訪大社などに祭具として、「神代鉾(鉄鉾)」に付属する「鉄鐸」が伝世されていることについては、すで に大場磐雄や真弓常忠による考証がある(大場磐雄 1972「続鉄鐸考」『信濃』第 24 巻第4号 信濃史学会、真弓常忠 1981『日 本古代祭祀と鉄』学生社)。また、敢国神社の近隣には、「鐸」に関係するとされる「佐那具」の地名が残る。南宮と称されるこ ともあったという美作国一宮中山神社については、先の西吉田北1号墳、長畝山・長畝山北古墳群、河辺上原古墳群との関係が 想起される。」

 

ということで、「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインと、「美濃ー尾張三河」ライン、という製鉄に関係するラインがあった……のか、「猿投神社」の主祭神大碓命」は美濃の支配者でもありましたから、単に尾張三河に追いやられただけなのか。

「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインが攻略されていった過程が、諏訪の主祭神建御名方神」の伝説、四道将軍の伝説、「大碓命」と「日本武尊」の伝説、というように、いくつかに分断されて残されたのではないか、と妄想したりすると、また楽しいです。

で、「敢國神社」の祭神が「大彦命」ということはまあよくて、「金山比咩命」も元々の製鉄系の神だとすれば残っていてもおかしくなくて、ところで「少彦名命」はなんなのよ、と。

大彦命」を「大己貴命」と考えての配祀かな、とも思ったのですが、多分これは、『古事記』での「大毘古命」の弟である「少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)」(『日本書紀」であれば「少彦男心命(すくなひこおごころのみこと)」)のことではないかな、と思います。

大彦命」は「孝元天皇」の皇子ですが長兄で、末弟が後の「開化天皇」です。

末子相続を表しているわけですが、ここに「大碓命」と「小碓尊日本武尊)」の伝説を重ねることもできますし(「日本武尊」は結局天皇(大王)にはなっていませんが、『風土記」伝承には「倭建天皇」と書かれていたりします)、「甲賀三郎」伝説はこの辺りからもネタを引っ張ってきている気がします。

中世になって、古代に封じられた諏訪の神が息を吹き返すために、かつての朝廷が使った末子相続(末っ子最強)を持ち出してきたのは、鬱屈とした中で生まれた意趣返し、のように思えてなりません。

で、「大彦命」と「少名日子建猪心命」が「敢國神社」で祀られたのは、土着の神である「伊勢津彦」(「猿田彦大神」、あるいは製鉄系の神としての「金山比咩命」、ひいては諏訪の「建御名方神」)を封印するため、なんでしょうかね……。

うーん、丁寧さに欠ける妄想でした(まあ、妄想なので丁寧もくそもないのですが)。

でも、久々に楽しく妄想できました(○)。

 

あ、神社でいただける由緒には、服部氏との関係についても書かれていて、これがまた面白いです(古代の「秦氏」、さらに「敢国服部」と「建御名方神」の関係なんかも……)。

「敢國神社」(再)(三重県伊賀市)

3/4。

現実時間に完全に追いつかれつつあります……がともかく、昨年3月です。

ちょっと遠いところを目指そう、と思って家を出たのですが、時間的に寄れるかな、と思い敢國神社へ。

 

◯こちら===>>>

http://www.aekuni.jp

 

◯こちら===>>>

「敢国神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

f:id:bennybebad:20170304102354j:plain

……なんか、自販機が主役の写真にしか見えませんが、社標を撮りました。

 

f:id:bennybebad:20170304102559j:plain

f:id:bennybebad:20170304102615j:plain

表参道途中の「市杵島神社」。

 

f:id:bennybebad:20170304102659j:plain

案内図。

 

f:id:bennybebad:20170304102712j:plain

鳥居から。

 

f:id:bennybebad:20170304102726j:plain

扁額……読めない……。

 

f:id:bennybebad:20170304102830j:plain

手水鉢。

 

f:id:bennybebad:20170304102958j:plain

拝殿前から、鳥居方向を。

絵になる神社だったことを思い出しました。

 

f:id:bennybebad:20170304103015j:plain

拝殿。

 

f:id:bennybebad:20170304103025j:plain

拝殿の扁額。

そうか、社紋は菊なんですね。

 

f:id:bennybebad:20170304103043j:plain

前も撮影しましたが、星と月の灯篭。

 

f:id:bennybebad:20170304103144j:plain

桃太郎岩。

 

f:id:bennybebad:20170304103218j:plain

釣瓶。

何だか懐かしかったので(いや、使ったことないです……井戸は、ポンプなら使ったかな……)。

 

f:id:bennybebad:20170304103232j:plain

狛犬さんたら、

 

f:id:bennybebad:20170304103243j:plain

狛犬さん。

マッチョ系ですね。

 

f:id:bennybebad:20170304103259j:plain

f:id:bennybebad:20170304103309j:plain

f:id:bennybebad:20170304103324j:plain

拝殿への階段。

連続性の美しさ。

 

f:id:bennybebad:20170304103338j:plain

角ばった、シンプルな石灯籠は案外珍しいかな、と。

 

f:id:bennybebad:20170304103829j:plain

f:id:bennybebad:20170304103903j:plain

裏参道から拝殿方向。

 

f:id:bennybebad:20170304104218j:plain

f:id:bennybebad:20170304104135j:plain

f:id:bennybebad:20170304104120j:plain

「大石社」。

 

「御祭神 須佐男命 金山比古命 大山祇命 大日孁命 大物主命
一宮敢國神社末社として鎮座創立年代は未詳である 一之宮より中瀬字寺田に至る道路の左傍に大池あり 池の東方山麓に岩石ありてこれを黒岩といふ 大石の社名はこの岩石よりつけられしものであらう 大石社独立時代の祭神は文献なく知る由もない 明治四十三年三重県の指令により村内にある津島神社と琴平社を大石社に合祀した 社殿は明治四十四年の暴風雨により倒潰したが大正二年に再建された
津島神社は元村社で当時来迎寺の南五十米のところ(現在民有地の畑)に鎮座され境内も広く大鳥居御社殿参集殿など建立されていた 尚愛知県津島市に鎮座する本宮津島神社を崇敬する人々が徳川時代中期より津島講を結成しその講員は来迎寺の檀家衆及び敢國神社の氏子によつてその年長者より十一名と定められその活動を現在も存続している
琴平社は妙慶寺東百五十米東山の上平池に鎮座され、津島神社と同じやうに鳥居御社殿参集殿なども建立されていたが両社ともその思影は殆ど見当たらない 香川県こんぴらさんを崇敬する妙慶寺住職を始め九人の講員が現在講を持続している(略)」

 

なるほど、謎だと思っていましたが、廃仏毀釈とそのあとの神社整理の結果、こちらにいらっしゃることになりましたか。

「黒岩」と呼ばれていた岩だったのに、社名は「大石」かぁ……何かありそうな気もしますが、たどれますまい。

津島神社」は、もちろん「牛頭天王」だったので目をつけられたのでしょう。

 

f:id:bennybebad:20170304104150j:plain

f:id:bennybebad:20170304104203j:plain

謎のしゃちほこ、健在でした。

 

f:id:bennybebad:20170304104253j:plain

句碑……読めない……。

 

f:id:bennybebad:20170304104310j:plain

 

f:id:bennybebad:20170304215357j:plain

御朱印

一宮だというのに、あまり参拝者がおらず、いいところだな……と前回も思いました。

境内の構成が不思議な感じになっていますが、これがいつからなのか……まあ昔からだと思いますが、引用などあれば次回に〜。