べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「金神社」(補)

さて。

神社でいただいた由緒書から。

 

「由緒
当神社は古来殖産産業、財宝主宰、金運招福の御神徳あらたかな神として、篤い信仰を集めている美濃国屈指の名社である。
御鎮座の年代は遠く上代に在って。成務天皇の御代(西暦一三五年)、物部臣賀夫良命が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められ、篤く金大神を尊崇されたと伝えられている。
境内の東北の隅に命を祀る古墳「賀夫良城」があり、近くに「蕪城町」という町名が存するのも之に由来するものと思われる。
当神社の主祭神 渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、景行天皇の第六皇女で、伊奈波神社の祭神 五十瓊敷入彦命の妃である。
伊奈波神社に伝わる縁起によれば、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命をうけて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は命の成功をねたみ、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため朝敵として攻められ、この地に至りて討滅された。
夫の死を聞かれた妃渟熨斗姫命は、悲しさのあまり都を発ち、御跡を慕って此の地を訪れ、爾来、朝夕ひたすら夫の死を悼んで、その故地の辺りで御霊を慰められつつ生涯を終えられたと伝えられている。
その間、命は地域住民を母の如く温かく慈しまれた。後世の人々は命を聖観世音菩薩とも称え仰いだ時代もあるほど、慈悲深い神として慕われ、やがてその信仰は財宝をもたらす神として信仰されるようになった。
元和三年(西暦一六一七年)加納城主は本殿、拝殿、瑞垣、鳥居等を建立寄進している。
明治三十六年より数年の歳月をもって本殿、祭文殿を始め諸建物を造営したが、昭和二十年七月九日岐阜市空襲の際、焼夷弾を浴びて烏有に帰するところとなった。
昭和三十三年に至りて漸く一応の復興は出来たものの、時局財政困難な状況下での造営であったため、建築資材等も思うにまかせず、又その規模も小さく、年を逐って老朽化が進んで来た。
そこで昭和五十八年に造営奉賛会を結成し、会員、氏子崇敬者の赤誠溢るる協賛により、昭和六十三年三月金神社社有史以来の大造営をみた。現在の社殿である。(略)」

 

ということのようです(実は、この由緒書の伝説が、私の「日本武尊殺人事件」と結構被っていてですね……ということは、よくある話なんですけれども……)

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市案内 : 附・長良川鵜飼記

 

↑『岐阜市案内』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

38Pです。

 

「金神社 金町にあり。緑樹鬱蒼として、閑静なるところなり。社格は郷社にして、その祭神は彦多都彦命の後妃縣神及び其生み給ふ所の二王子市隼雄命、擁列根(だつらね)命の三柱を奉祀せり。創立は不詳伊奈波神社と同時代なりと言伝ふ。毎年四月五日祭典を行ひ伊奈波神社より渡御の儀式あり。境内の東北に一石あり。「カブラギ」又は御陵と云ふ。物部神社の御孫臣賀夫良命の御墓なりといふ。本社主神は伊奈波神社主神彦多都彦命の妃神にましませば伊奈波神社とは離るるべからざる神社なり。」

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰美濃志

 

↑岐阜ではお世話になる『新撰美濃志』の462ページ、「稲葉権現」の摂社紹介の中に「金神社」の記事があります。

 

「金大明神 は伊奈波神の御妃渟熨斗媛命をまつる是景行天皇の皇女なり 類聚国史 又 三代実録に 貞観十一年十二月廿五日戊申授美濃国正六位上金神従五位下 と見え 美濃神名記 に厚見郡正三位金大神としるしたる社なり 当社本縁起 にいへる 陸奥国よりむかへし金石の御魂にて金華山と呼べることのもとの神なるへし 金石を伊奈波の神の本体を申す事古き伝へにや 日本霊異記 にも美乃国方縣郡水野郷楠見村有一女人姓縣氏也年迄于廿有餘歳不嫁未通而身懐妊逕之三年山部天皇延暦元年癸亥春二月下旬産生二石方丈五寸一色青白斑一色専青毎年増長有此郡名曰淳見是郡部内有大神名曰伊奈婆託卜者言産二石是我子因其女家内立忌籠而斎往古今来未都見聞是亦我聖朝奇異事矣卜者籠斎往古託 と見えたり(略)」

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市史

 

↑『岐阜市史』より、448ページです。

 

「金神社(略)
一、祭神 渟熨斗媛命
五十瓊敷入彦命 左相殿
日葉酢媛命 右相殿
市隼雄命 同  四座 木像座像(社伝)
一、由緒
渟熨斗媛命は、景行天皇の第六皇女で、五十瓊敷入彦命の妃である。社入記に、美濃国厚見郡上加納村、金津山正三位金大明神、俗称金堂、祭神は、人皇第十二代景行天皇の皇子、五十瓊敷入彦命の御妃渟熨斗媛命とある。美濃国神名帳に、厚見郡十八社の内、正三位金大神、三代実録に、清和天皇貞観十一年十一月二十五日、授美濃国正六位上金神社従五位下、とあるは此社の事である。
元亀年中、暴風の爲め、社殿破壊し、再建した。其後、元和三年丁巳三月、旧加納城主、松平飛騨守の誕生あつた時、右社殿が風霜の久しきを経て、傾頽して居るのを痛歎し、之を建立した(金神社縁起古書)とある。
当社境内の北に接して古墳がある。桜の大樹あつて、其の下に、一個の自然石がある。土俗此地を称して、「カブラキ」亦「ミササキ」とも云ふ。これ古へ、三野後国造、物部臣賀夫良命の墓であるよしを言伝へて居る。蓋し、カブラキとは、賀夫良城にて、賀夫良は、臣賀夫良の略語、城は、古事記伝に奥津城にて、屍を蔵る構を云ふとあるから、恐らくそれであらう。
一、金神社の祭神に就て 金神社の祭神を、彦多都彦命の妃、縣氏と主張するものもある。其の根拠とするこころは、大日本史神祇志に、「金神社は、厚見郡上加納村にあり。蓋し、丹波道主命の室縣氏、及び其の生むところの二王子を祀る云々。又、註に、道主嘗て本国にあり、縣氏を娶りて二子を生む。後人、社をたてて之を祀る。二子は、石を以て神体となす云々」とあるに依るのであるが、さきに伊奈波神社の條に述べた如く、此記事は日本霊異記の文を、根拠としてゐるのであつて、延暦頃の出来事であると記述してゐるから、あまり信を措くことが出来ない。加之、仮に、これを肯定するも、社伝にある木像にして坐像四つ柱と合はない。故に、これは、社伝のままを正当と見た方が穏当であらうと思はれる。」

 

諸説いろいろ、という感じですが、基本は「伊奈波神社」関係……おっと、そういえば、由緒によると、御祭神は

 

「金大神
渟熨斗姫命 景行天皇第六皇女(一云 五十瓊入彦命)
日葉酢姫命 垂仁天皇皇后(五十瓊入彦命の母)
五十瓊入彦命 垂仁天皇第一皇子
市隼雄命 一云 五十瓊入彦命の御子」

 

となっており、この四柱をもって「金(こがね)大神」ということのよう……で、思い出したのが、

 

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「伊奈波神社」 - べにーのGinger Booker Club

「伊奈波神社」(続) - べにーのGinger Booker Club

「伊奈波神社」(続々) - べにーのGinger Booker Club

「伊奈波神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club


↑「伊奈波神社」での妄想です。

伊奈波神社」の御祭神は、

 

(1)丹波道主命(彦多都彦命)……「開化天皇」の子である「日子坐王」の子。四道将軍の一人。因幡国造。


(2)日葉酢媛命……(1)丹波道主命の娘で、「垂仁天皇」の皇后。


(3)五十瓊敷入彦命……(2)日葉酢媛命の子で、「垂仁天皇」の皇子、「景行天皇」の兄。天皇位ではなく、軍事職を選択。「石上神宮」の神宝を掌る。


(4)物部十千根命……(2)五十瓊敷入彦命のあとを受けて、「石上神宮」の神宝を掌る。美濃後国造の祖先。


(5)淳熨斗媛命……「景行天皇」の第六皇女、(3)「五十瓊敷入彦命」の妃

 

ということになっておりまして……じっと見ると、「金神社」の御祭神とあんまり変わらないのがお分かりかと。

↑の『岐阜市案内』には、

 

「その祭神は彦多都彦命の後妃縣神及び其生み給ふ所の二王子市隼雄命、擁列根(だつらね)命の三柱」

 

という記述がありまして、ある時代までは、「伊奈波神社」の御祭神について「丹波道主命」という伝承と、「彦多都彦命」という伝承とがあったのではないか、と思わせます。

物部十千根命」に関しては、昔は「物部神社」があったので、相殿になったのはあまり遠い時代のことではありません(「伊奈波神社」と「物部神社」の関係性は、「金神社」と「賀夫良木神社」に何となく重なる部分があり、これはこれで興味深いです……物部系氏族の勢力範囲の拡大は、いわゆる大和朝廷初期においては、天皇系の一族の拡大とともにあった、ということなのかもしれません)。

というわけで、そう考えますと、「伊奈波神社」の祭神は、まるっと「丹波道主命」系の一族に入れ替わっていると思われます。

丹波道主命」と「彦多都彦命」が同一人物だった、という説は『岐阜市案内』にあるのですが……どうなんでしょう、あんまりはっきりとしたことはわかりません……誰かがそういうことにした、という可能性はあるのかな、と。

で……これ以上掘り下げるには、どうにも私の根気と下調べが足りなくなってきていまして……。

 

一つ、ずっと引っかかっているのがですね、少なくとも『日本三代実録』の頃には、「金神社」(と呼ばれていた神社)が美濃国にあったらしいのですが、これが何故に「金」なのか……。

Goldのことを指しているのか、貨幣のことなのか(大陸から入ってきていてもおかしくはない)、あるいは五行思想なのか……あり得るのは冶金技術や製鉄技術という意味での「かね」でしょうか(実は、これも『岐阜市史』で考察されて……あれ、されていた気がしますが……)。

そうしますと、「南宮大社」や「猿投神社」とも繋がってくるような気がしますし……結構昔から、「金神社」は「伊奈波神社」の妃神、つまり女神だと考えられていたようですので、この地域土着の女神(「伊邪那美命」のような存在かな)を祀っていたのが、だんだんと変遷していったのかもしれないです。

 

それほど遠くないですので、「南宮大社」ともども、また参拝させていただこうと思います。

ああ、中途半端……これだから……(ちょっとまだ、沈んでいるもので……)。

「金神社」(岐阜県岐阜市)

2/25。

「御首神社」の参拝を終えて、ぶらっとしているうちに岐阜市内に。

「金神社」へ行ってみました。

 

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金神社ホームページ

 

母方の実家があったりするので、この辺りもそれなりに歩いているはずなんですが、こんな神社があることはさっぱり知らず。

車で行ったのですが、駐車場の入り方が結構わかりづらいのでご注意を。

 

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社標。

 

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駐車場の側の鳥居。

 

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駐車場側からの参道。

 

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鳥居。

 

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正面鳥居…………。

まさしく、「金神社」な感じ。

 

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いきなりですが、扁額。

 

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社殿の裏側に摂社が。

 

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摂社への鳥居。

 

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摂社遠景。

 

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摂社の一番手前は「賀夫良城神社」です。

 

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の前に、社殿を裏から。

 

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さて「賀夫良城神社」。

 

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案内板が読みづらい……天気がよかったもので。

 

「史蹟 賀夫良城
賀臣夫良命の奥都城(墓)と伝えられている。命は物部十千根命の嫡孫で今を去る凡そ一千八百年前成務天皇御代はるばるこの三野後(みののしり)の地に国造として赴任され、国府をこの高台に定められた。
(略)」

 

なるほど、物部系と……どこかで聞いたことのある話ですね……まあいいや。

 

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「金高椅神社御由緒
御祭神は、磐鹿六雁命と申し、景行天皇御東征のみぎり膳臣として供奉され、天武天皇二年朝廷より高橋の姓を賜ったと伝えられる。
総本社は栃木県小山市に鎮座され、古来料理を司る神として多くの信仰をあつめている。
昭和五十六年三月岐阜市調理師連合会に於ては、その御神徳を慕いて此の地に社殿を造営し、其の尊き御分霊を奉斎せしめるものなり。」

 

……あ、すいません、いきなり碑文ですが。

 

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こちらが社殿。

 

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ちょっと下がりました。

昭和になってからの勧請、というのもそんなにあることではないですよね。

続いて、奥から、

 

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「玉姫神社」。

 

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物部神社」。

露出がもう……えらいことに……。

 

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神明神社」。

 

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猿田彦神社」。

急に雲がかかったらしいです。

 

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秋葉神社」。

 

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本殿を裏から。

 

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おキツネ様

 

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拝殿と、その向かって右手に、

 

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「金祥稲荷神社」が。

 

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たくましき狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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御朱印

 

 

……あれ、そういえば御祭神も何も案内がなかったな……まあいいや、それは次回にいたします〜。

 

「御首神社」(再)(岐阜県大垣市)

2/25。

南宮大社」に行ったついでに……ではなく、こちらが本命でした「御首神社」

 

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首から上の大神様|御首神社

 

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「御首神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事。

以前もやっぱり「南宮大社」の帰りに寄っていますね……定番コースみたいになっているようです(私の中で)。

ちょっと身近で、脳腫瘍の手術をするということになりまして、その成功祈願を(自分のことは特に祈願しませんが、人のことならまあよろしいかと/手術自体は無事成功しましたので、お礼参りにいかなければ……)。

 

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正面。

 

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手水場。

 

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釣瓶。

 

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扁額。

 

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境内社の「末廣稲荷神社」。

 

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境内社の「鍬山神社」。

 

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狛犬さんと拝殿。

 

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御朱印

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯 第1編

 

木曽路名所図会』の記事です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

「仲山金山彦神社」の記事の中にあります。

 

「首社 同郡荒尾村、南宮より六十町あり。平将門の霊を祭る。宇留生祠ともいふ。むかし将門誅伏せられ、秀郷其首を得て入洛す。然る所其首おのづから獄門をぬけて関東へ飛帰らんとする時、当社の隼人神矢を放つて射落す。其首をここに祭る。矢の通りたる所を矢通村といふ。世人首の諸病を憂ふる者、立願すれば霊験あり。」

 

神社の説明とあまり変わらず。

かなり強固な伝承のように思われます。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 不破の古蹟

 

↑『不破の古蹟』より。

32コマです。

 

「六二 御首社
御首社は宇留生村大字荒尾にあり平将門の霊を祀る天慶の乱藤原秀郷平貞盛は将門を誅し其首を京師に送り獄門に梟す其首自飛びて関東に帰らんとせしに豫て賊徒降伏の祈願ありける南宮の神矢を放ちて之を射落し給ふよりて此に祀る神矢の通り路は今の矢道村なりと云ふ又伝ふ将門の首形を作りて南宮社に降伏を祈りしに其骨霊異ありて動揺せり人民驚きて之を土中に埋め祠を立てたりと云ふ首のあたりの諸病を患ふものは祈れば霊験あり本復すれば穴ある石を捧げて奉賽すへしと云ふ」

 

まあ、こちらもあまり変わらず……ただ、別の説として、平将門の首形を作って南宮社に奉ったら動いたもので、みんな驚いて地中に埋めて、そこに立てた祠が今の「御首神社」だよ〜」という話が載っています。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰美濃志

 

↑『新撰美濃志』もみてみましょう。

91コマです。

 

「御頭(みかうべ)明神社 は平将門の霊を祭る藤原秀郷等将門を誅戮して其首を都に送りしに其首獄門をぬけて関東に下らむとせしを南宮にいます隼人の神矢を放ちて射落し給ふ則ここに祭りて首の社に称す 神社考に朝敵平将門頭伝言飛入洛時神放矢射其頭今俗称箭路御首宮者是其縁也 とある是なり 又里民の説には将門の首形を作りて南宮社にて降伏を祈請ありしに其作りたる首霊異ありて動揺し人民を驚ろかしけれは荒尾村の土中に埋みて祠を立御首社と名つけしよしいへり境内九反半の除地にて今宇留生社とも称し首のあたりの諸病を憂ふるもの祈願すれは霊験ありといふ就中耳聾を憂ふるもの此社にいのれは必ず霊験あり本復すれは穴のあきたる石をささげて奉賽すといふ」

 

『不破の古蹟』の記述と大差ありませんが、「首」なのか「頭」なのかはっきりしたほうがいいのでは……まあ、昔のことですし。

こちらでも、作った首が動いた、という話があります。

「首を埋めて……」という部分は、「吉備津彦神社」の「釜鳴神事」を思い出しますね。

どっちが古いのかはよくわかりませんが、何か共通する呪術的モチーフがあるような気がします……朝廷への反逆者が首を取られて埋められて、という辺り、「温羅」と「平将門」は似たようなものなのだ、ということなのかもしれないです。

 

ところで、「隼人神」というのは、「南宮大社」に祀られており、一説に「火闌降(ほすそり)命」である、と前回の記事で紹介しました。

 

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「南宮大社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

「火闌降命」は「火照命」とも呼ばれ、いわゆる「海幸彦」のことです。

その子孫が隼人という一族になった、ということが記紀神話で語られています。

朝廷の先祖が、実際にはどうだったかはともかく、九州の勢力をある程度背景としながらも、九州全体を影響下に置いていたわけではないことは、熊襲の反乱云々が記紀神話で語られているところから、まあその通りだろうと。

早くから朝廷の先祖に従ったのではないか、と思われるのが、隼人と呼ばれる、九州南部の土着の民です(ちょいちょい反乱も起こしますが)。

基本的に隼人は朝廷の警固に任ぜられたりするので、武勇に優れていたのか、でも武力のある連中を宮城の近くに置いておくのは結構なリスクのようにも思います……なんらかの取引があってのこと、なのでしょう。

特に弓の扱いに秀でているようではないですが、何しろ飛んでいく「平将門」の首を射落としたのですから、武芸に優れる、というイメージが強かったのでしょう。

ここで面白いな、と思うのは、「南宮大社」の神ではなく、その摂社である「隼人神」が首を射落とした、ということです。

反乱を鎮めるに当たって霊験ある「南宮大社」ですから、軍神の属性がないといけないのではないかと思います(ひょっとすると、五行的な何かで勝ったのかもしれないのですけれど)。

これは、首だけになった「平将門」なんか摂社の神で十分なんよ、という余裕なのか。

主祭神自ら矢を射ったりはしないのだよ、ということなのか。

他にも何か理由があるのかもしれないですが、いずれにしろ、「南宮大社」の神は、「平将門」を二回殺しています。

1回目はまあ、正当な(?)討伐だとして、2回目はどうでしょう、死んだ後で首が飛んでいくのですから、結構な怨念です。

その首を落とすのを、「隼人神」にやらせているっていうのは、どうにも「夷を以て夷を制す」のにおいがするんですよね……怨念から防御するため、といいますか……まあそんなことを言い始めると、「平将門」退治に「藤原秀郷」が出張っているのも、ある意味「夷を以て夷を制す」ではあるのですが。

 

うーん……やっぱり中世以降のことがよくわかっていないのがいかんですね……勉強したい……。

 

あけまして

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戌年だけど狛犬にしてみました。

キャラクター化していくと、どっかで『妖怪ウ◯ッチ』に寄ってしまうので、このあたりでとめておきました。

あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。

 

初詣、犬関連の神社仏閣、ということで言いますと、名古屋市の方は、

 

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「伊奴神社」(西区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「伊奴神社」でしょうか。

12年に一度のことなので、大変な混雑が予想されますが。

 

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「矢奈比賣神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑静岡であれば「矢奈比賣神社」の「霊犬神社」。

「しっぺい太郎」さんがお祭りされています。

 

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「宝積山光前寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑長野は「光前寺」に「早太郎」さんがお祭りされています。

どちらも、霊犬の御朱印をいただけます。

他にも、全国には犬にちなんだ神社仏閣があると思いますので、お近くで探してみてください〜。

 

あ、氏神様も忘れずに。

 

それでは、まだ昨年2月の記事を書いておりますが、本年もよろしくお願いいたします。

「南宮大社」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部27

 

↑……検索してから式内社だったな、と思い出しましたが、とりあえず『古事類苑』の「神祇部」より。

707ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに改めた箇所あり)。

 

「南宮神社
南宮神社は美濃国不破郡宮代村にあり、原と仲山金山彦神社と称して金山彦命を祀る、延喜の制、名神大社に列し、後本国の一宮と称す、現今国幣中社たり、
(略)
延喜式神名帳頭註]美濃不破郡 金山彦 風土記云、伊弉冉尊、生火神軻遇槌之時、悶熱懊悩、因爲吐、此化神曰金山彦神是也、一宮也(略)
[諸国神名帳 美濃]不破郡仲山金山彦神社、名神大 俗謂南宮、即当国之一宮也、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
本社 金山彦命、見野尊、彦火々出見尊、秘神二座、五座、
木曽路名所図会 二]仲山金山彦神社 南宮に鎮座、正一位勲一等仲山金山彦大神と稱す、延喜式名神大美濃国一宮と稱す、
祭神五座 金山彦命 見野命、彦火々出見尊 罔象女命 埴山媛命此二座秘神とす
(略)
木曽路之記 下]垂井の宿の南に南宮山あり、美濃の中山といふ名所也、不破の中山とも云、南宮のうしろにもひろき谷有、両の谷の中にあるゆゑ、中山と云、又御社山とも云、南宮の社有ゆゑなり、社は山の麓に有、大社なり、東にむかへり、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
慶長五年庚子九月、関ヶ原合戦之時、安国寺之手勢放火、神社爲灰燼、東照大神君祈願、天下一統之後、至于家光公寛永十九年壬午、造営成、元禄七年修造鳥居 石鳥居在垂井、額寛永十九年より、青蓮院尊鎮親王宮御筆、古代額有正一位勲一等
(略)
木曽路名所図会 二]仲山金山彦神
勅使殿 本社の北にあり  
護摩堂 本尊弘法大師御自作、長日天下安全御祈祷を修す、  
本地堂 無量寿仏、勝軍地蔵、多門天、十一面観音、不動尊を安ず、人皇四十五代聖武天皇天平十一年、行基僧正の草創也、法體殿南神宮寺と号す、  
元三大師堂 天喜年中に安置す 右瑞垣の内にあり  
三重塔 社頭にあり  
釈迦堂 同所にあり  
薬師堂 延暦十二年開基、本尊如来伝教大師の作 ◯中略  
十一面観音堂 山上高山宮本地、本尊は行基作、神護年中草創、  
千手観音堂 子安社本地、本尊は慈覚大師の作 ◯中略  
十王堂 宮の入口にあり  
地蔵堂 同所にあり  
鐘 高さ五尺三寸、亘三尺三寸、厚さ三寸五分、無銘、むかし垂井駅の南、森の中盆地より出る、俗龍宮より上りしといふm  狛犬 楼門に居る、仏工春日の作、  
石鳥居額 正一位中山金山彦大神と書す、一品◼︎智院宮尊純法親王の御筆  
鉄塔 塔の南にあり、南蛮鉄なり、如法経を書写し、此塔の中に納む事あり、永正年中迄行之、其後中絶、
(略)
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
朱雀天皇天慶三年、平将門叛逆之時、勅祈誓、神功最掲、被授勲一等、
後冷泉天皇康平年中安倍貞任宗任が乱、亦有霊験、被授正一位
(略)
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神、南宮摂社
本社南 高山大神 瓊瓊杵尊、開耶媛命、此社昔は在于山上、今本社の南に鎮座、山の上にも亦此社あり、美濃神名記正一位高山大神、
本社北 十禅師社 瓊瓊杵尊大己貴命、此社天慶年中、自江州坂本遷座瓊瓊杵尊、有二神、禰宜の説に、大己貴命一座云々、社僧説二座、
本社南 南大神 火明命
本社北 隼人神 火闌降命、美濃神名記曰、正三位隼人大明神、 
一湖千海社、豊玉彦命、塔の西に鎮座、
七王子社 大山祇 中山祇 ◼︎山祇 ◼︎山祇 正勝山祇 闇龗 高龗 七座を祭る、本社の後ろ也
御田代社 豊玉姫命、本社御后宮代村東鎮座
総社、猿田彦大神、入口に鎮座、数立宮とも云
七ノ宮、山王七社、或云、稲荷社、十王堂北道西側
山麓 坂本社 十禅師
(略)
東照宮
稲荷社
荒神社 神秘
山上 高山大神
子安社 保食神、葺不合尊
隼人社
(略)
[本朝神社考 三]南宮 俗号南宮大菩薩
余聞之、美濃国人曰、南宮山神者、天武天皇白鳳之初所建祭也、其華表題曰正一位勲一等金山彦大神、金山彦者何神乎、余答曰、日本紀神代巻所謂、伊弉冉尊将生火神時、悶熱懊悩而吐、即化爲神、号之金山彦是也、此神於五行爲金神、於是乎其人又言曰、初美濃国不破郡府中祭之、後移于郡之南仲山、故号南宮、祭祀供魚鳥、凡産子美濃者、必以南宮爲氏神云、余復告曰、天武天皇、自吉野経伊勢入美濃、塞不破関、遂撃大友皇子、蓋於此時有所祈于美濃中山、而後建神祠耶、其人答曰、彼社家者亦云爾、余復詰問之、答曰、朝敵平将門頭伝、言飛入洛時、神放矢射其頭、今俗称箭路御首宮者、是其縁也、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
崇神天皇五年十一月中十日鎮座 ◯中略 天武天皇、壬申乱之時行幸、社家伝也 ◯中略 天慶乱、依勅命比叡山明達律師、来宮代祈誓、此時十禅師ノ社造営、明達弟子十人爲社僧、至今有十坊、十禅師社僧掌之 ◯中略 南宮神宝有、大織冠鎌足之鎌図形、其形如片鎌鎗、(以下略)」

 

諸々の文献から引用されているのですが、そうか『木曽路名所図会』がありましたか……失敗失敗。

延喜式神名帳では「仲山金山彦神社」ですが、「南宮」と呼ばれたのも古い時代のことのようです。

摂社の御祭神なんかがおおよそわかってありがたい限りです。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 不破の古蹟

 

↑『不破の古蹟』から。
44ページです。

 

「四八 南宮神社
南宮神社は宮代村に鎮座し美濃国一の宮と称し金山彦命外四神を祀る境内広潤にして清潔幽𨗉なり桜楓松杉の間に點綴し風致最佳なり神武天皇元年府中に鎮座せしか崇神天皇五年十一月中山の麓に遷座あり慶長五年関ヶ原の役西軍の将安国寺恵瓊此處に陣し社殿兵火に罹かりしを徳川家光命じて再建せしめ盡く旧観に復し勅使殿拝殿釣殿回廊舞殿神楽御供所神輿舎其他数十の殿舎金碧燦爛たらしめたり石鳥居は垂井にあり正一位中山金山彦大神の額は寛永十九年に掲げ青蓮宮一品尊純法親王号は円智院宮の真筆なり円柱周り七尺四寸高さ二丈一尺六寸あり神木白玉椿は瑞牆の中本社の西北にあり有名なり朱雀天皇天慶三年平将門反す詔りして賊徒平復を祈らる神験あるを以て勲一等を授けらる後冷泉天皇康平年中安倍貞任の乱にも霊験ありて正一位を授けらる摂社末社殆ど四十あり神宝には古駅鈴二個鎌鉾一柄古代鐙一足其他刀剣の類甚多し本社の側に白玉椿あり古来有名なり(略)」

 

ざっと書かれているのは、鎮座したのが「神武天皇」の頃、「崇神天皇」の頃に中山の麓に遷座関ヶ原の合戦で西軍の「安国寺恵瓊」が焼き払った、それを「徳川家光」が再建した、といったところでしょうか。

あと、「平将門」の反乱を平定したのもこちらの神様の験力である、と。

ふむ。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰美濃志

 

↑『新撰美濃志』という、岐阜県関係ではお世話になる文献から。
72ページです。

 

正一位勲一等仲山金山彦神社は美濃の中山に御鎮座ありて延喜神名式に不破郡仲山金山彦神社 名神大 同し神祇式名神祭二百八十五座のうちに仲山金山彦神社一座美濃国 とみるゆ 美濃神名記に正一位勲一等仲山金山彦大神と録せり当国の一宮と称しまた南宮とも申すまた美濃一国の氏神なるよしは 神社考に初美濃国不破郡府中祭之後移于郡之南仲山故号南宮祭祀供魚鳥凡産于美濃者必以南宮爲氏神云 と見えたり 社記に神武天皇元年鎮座当国府中又崇神天皇五年十一月中子日遷坐中山麓天武天皇壬申騒擾時幸行云云 とありて久しき御世よりこの国にしづまりましまし蒼生を守り給へる尊き御社なるが慶長五年の逆乱に石田三成が賊徒安国寺恵瓊ここに陣せしかばその兵火に社頭荒蕪頽廃せしを大猷院将軍の御世に御再営ありて殿宇ことごとく旧貫に復しいとも尊き御社なり (略) 本社 祭神五座 金山彦命 見野尊 彦火火出見尊 罔象女命 埴山媛命也 のちの二座は神秘なりといふ 卜部兼邦の神道百首に あらはるる御名も頼もし影高き金山彦を祭る神垣 藤川記に南宮の鳥ゐは南にあり云云 名も高き南の宮のちかひとて山の東の道そただしき と見へたり此哥をもつて見れば東山道の国々を守り給へる御ちかひのよし聞えたり 
摂社 十禅師社 本社の北瑞牆の内に鎮座ありて二宮と称す祭神大己貴命 天慶年中近江の坂本より勧請すよりて社僧の説には 瓊々杵尊 大己貴命 二座とす  
高山大神 本社の南瑞牆のうちに在りて三宮と称す祭神瓊々杵尊 木花開耶姫命なり 美濃神名記に正一位高山大神とある祠にてむかしは山上に在しがのち今の所へ迂座す 山上にも叉此神社あり  
隼人神 本社の北瑞牆の内にありて四宮と称す祭神は火闌降命 美濃神名記に正二位隼人大明神とあるはこの祠なり  
南大神 本社の南瑞牆のうちに鎮座 祭神は火明命 五宮と称す  
七王子社 本社のうしろ瑞牆の内にありて 大山祇 中山祇 麓山祇 離山祇 正勝山祇 闇龗 高龗 の七神を七扉にまつれり  
御築地外の末社は 
御田代社 東南の方にありて祭神豊玉姫命本社の御后也と云 
湖千海(コセガイ)社 南の方の山にありて豊玉彦命を祭る  
数立社 楼門そり橋の外北の方に鎮座ありて惣社と称し塩土老翁をまつる  
落合社 北東の方にある小祠にて祭神素盞嗚尊相殿五座といふ 将門調伏のいのりをせし所に鎮座ありて其所水の落合なりし故社号とす  
七之宮 大門通り北の方西側にありて山王の七社也といひ或は稲荷と云  
衣裳堂社 大門通東側七之宮の向へに鎮座ありて天吉葛(アマノヨサツラ)を祭るむかしは常楽会といふ祭祀ありしか今は廃して行はす  
氏神社 山の麓にありて勝氏宮氏の祖神を祭る宮勝は不破郡本貫の姓氏なれば氏神と称せしなり下の太領神社の條にくはしくしるせり  
坂本社 山の麓にありて日吉の七社を勧請す  
東照宮 山の麓にありて龍飛将軍家の御宮と称し奉る  
稲荷社 山の麓にありて宇賀魂命を祭る  
荒神社 山の麓にありて荒御前神を祭る当社地主の神なりといふうりその塚は悪魔降伏を築こめしといひ将門調伏の供器をここに収めしと云伝へたり  
子安社 山上にありて祭神保食神伊弉冊尊也社の前に王子石とて白黒の石二ツあり参詣の女此石をまはして男子を生む事を祈る故に子泰石といふ社号も此石より起れり  
高山権現社 同所にありて祭神は境内の摂社に同じ麓より十八町山上にありゆゑに奥の院と称す  
隼人社 同所いなりて祭神境内の摂社に同じ  
神明社 同所にありて宗源大神宮と称す  
その外山上山下のうちに
松下社 八咫烏を祭る 
神明治社 崇道畫敬天皇を祭る 
弁財天社 金敷金床社 
等ありて今廃社となりたるもあり 又十八末社とて 春日 八幡 富士 熊野 熱田 日吉 白山 祇園 住吉 諏訪 愛宕 多賀 三輪 稲荷 天満宮 兒御前 等の小祠ありしか中古より廃絶し今は其地其地に神号の標杭を立たり 
殿宇は 勅使殿 本社の東北にあり  
護摩堂 同じ所にありて弘法大師の像を安置す  
本地堂 本社の南東にありて法躰殿南神宮寺と號す天平十一年行基菩薩の開基にて勝軍地蔵多門天不動尊無量寿仏十一面観世音等の像を安置す  
拝殿 本社の東のかたにあり  
釣殿 本社と拝殿の間なり 
回廊 拝殿の左右のつづきなり  
舞殿 拝殿の東にあり  
鐘楼 護摩堂の東の方にあり洪鐘高さ五尺三寸径三尺三寸厚さ三寸五歩無銘なりむかし垂井の宿の南森のうちの盆池よりあがりしといひ伝ふ  
元三大師堂 本地堂の東の方にありて天喜年中の創立なり  
楼門 東の門にて督長またこま犬を左右に置く狛犬は仏工春日の作といひ伝ふ  
反橋 楼門の外に架す左右に通用の板橋あり (略)
薬師堂 延暦十二年の創建にて伝教大師作の薬師像を安置せり  
千手観音堂 子安の本地仏と称し慈覚大師作の千手観音の像を安置す  
十一面観音堂 高山権現の本地仏にて行基菩薩の作の十一面観音の像を安置す天平神護年中の開基なり (略) 
神木白玉椿 は瑞牆のうち本社の北西にあり夫木和歌抄に宝治二年百種豊明節会従三位行家卿 現存六帖には藤原行宗朝臣と見えたり 美濃山の白玉椿いつよりか豊のあかりにあひはしめけむ 此歌新拾遺集にも入れり 南宮社十首に伊豆守利綱 色かえぬ白玉つはきみの山に神や八千代のたねをうゑけむ 権律師秀永 梓弓八千代の花はみの山の白玉椿さきやそめにし と見えたり  (略)
鐡塔 南の山にありて小さき家をつくりて其うちに置き雨露をふせく南蛮鐡にて其かたち釜の形の如く高さ五尺六寸七分上の亘り二尺二寸五分下の亘り三尺二寸上の重ねに朔日より卅日までの日をしるし上に菩薩六体下に四天王の像を鋳つけ其かたち甚雅にして珍らしき塔なり如法経を書写して此塔中に納めしといふ銘ありて左のごとし

平氏能登入道沙彌浄普
平氏左京亮氏仲
土岐美濃守源朝臣法名常保
土岐刑部少輔源朝臣頼世法名真兼
右兵衛大夫秀行 藤原散位秀顯
源盛光 沙彌道順
沙彌浄阿弥
勧進聖 沙彌妙全
大工河内国高大路家久
応永五年戊寅八月十日敬白

古銘は鎌倉二位の尼の建立新銘は応永再興の修補の銘なりといふ 賎の小手巻に慶長庚子の秋関ヶ原の節長宗我部此山に陣して鐡塔を竃に用ひて兵糧を炊し故に破損せりと云としるせり塔の家の側に泉井あり 如法水と云名水なり(略)」

 

引用が多くて申し訳ない……読みやすいように適宜改行を入れています。

木曽路名所図会』には図絵もありますので、そちらもご参考にしていただければ、と。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯 第1編

 

↑151ページからです。

伝教大師」作の仏像があったり、元三大師堂があったりと、「平将門」の反乱を鎮めるべく比叡山から「明達」を招いたあたりから、だいぶ比叡山色が強くなっているように思えますね。

御祭神の近くを固めている摂社は、基本「瓊瓊杵尊」と「木花開耶媛命」関係なのですが、その意図はよくわからないまでも、整理の仕方に「日吉大社」の「山王七社」「二十一社」に近いものを感じます(つまり、(恐らくは)天台宗の僧侶が解釈した神統譜があったのだろう、と)。

それ以前のこと、となるとよくわかりませんけれども……「天武天皇」が壬申の乱で東国から助力を受けたときに何かあったのか、そういえば「不破関」ですからね……古代の歴史に直結した場所なのですが……なんでしょう、地味な印象が拭えない……実に見どころたっぷりで、掘り下げると非常に面白そうなんですけれども。

 

「南宮神宝有、大織冠鎌足之鎌図形、其形如片鎌鎗」

 

↑これなんか面白そうな情報ですよね。

奉納されている刃物、特に鎌の起源をここに求めたくなります(違うと思いますけれど)。

 

ところで

 

 

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

 

 

 

梁塵秘抄』には、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

という歌が残されており、これが何かしらのルートを表しているのではないか、と言われたりしています。

御祭神が「金山彦命」であることから、信濃→美濃→伊賀、という鉄に関係するルートがあったのではないか、あるいは逆に伊賀→美濃→信濃というルートか……。

わざわざ「二位の尼」、つまり「平時子」が「鉄塔」を奉納した、ということにも意味があるのでしょうけれども……単純に金属の神様だったから、という理由なんでしょうか(普通、お経を収めるなら石塔ですものね……考えすぎか)。

ううむ、不勉強なのでこれ以上は踏み込めませぬ……。

 

罔象女命 埴山媛命此二座秘神とす」

 

↑とかもよくわかりませんし(五行的な何かかな……)。

 

あ、そうそう、「金山彦命」は、「火乃迦具土神」が生まれたあとで「伊弉冉尊」が吐き出して生まれた神、ということですが、これは製鉄の過程を考えると、炉の中から金属を取り出す暗喩なのではないか、ということです。

吐き出す、というのは実は生まれる、ということで、これは「女陰」を「ホド」といい、「火処」と通じ、つまり「炉」を女神の胎内に例えてのこと、という説があります。

「吐き出す」がどうにも納得できなかった私は、この解釈がありだな、と思っていますがいかがでしょう。

「南宮大社」(再)(岐阜県不破郡)

2/25。

もはや遠い記憶で……どうして行ったのかはよく覚えていませんが、南宮大社を再訪しました〜。

 

◯こちら===>>>

www.nangu-san.com

 

↑公式HPです。

 

◯こちら===>>>

「南宮大社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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天気がいいのか悪いのか……とりあえず社標。

 

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神橋と楼門。

 

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橋はいい風合いですね、相変わらず渡れませんけれども。

 

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灯篭の連続からの楼門。

 

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蟇股の彫刻は前からこんな感じでしたっけ……記憶が……。

 

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手水鉢。

 

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ちょっと角度を変えてみたり。

 

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拝殿。

 

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拝殿向かって左手の奉納額。

 

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「南」を意匠化した釣り灯籠の紋。

ちょっと可愛い。

 

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拝殿を別角度から。

 

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楽殿

 

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と、一気に飛んでいますが、鉄塔。

 

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もうちょっと寄ってみました。

ぱらぱらっと雨が降ったような気がします……前もあんまり天気はよくなかったな。

 

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「湖千海神社 帳内引常名神」。

 

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そうだ、「瓦塚」の写真を撮りにきたんでした。

いや、インスタ映えするかなぁと思って(センスのずれ方がひどい……)。

というわけでしばらく、「瓦塚」ギャラリー、カワランダーランドをお楽しみください。

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……なんか、基本怪しいですね……表情とかやばい方がいらっしゃった気がします。

 

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「南宮稲荷神社」の参道。

伏見稲荷」にはなかなかかないませんが、いい連続性だと思います。

 

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消失点へ一直線。

 

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振り返って、消失点のその先へ。

 

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「南宮稲荷」の石灯籠がなかなかなデコ具合だったので……やっぱりインスタ映えポイントなのではないだろうか。

 

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お狐様。

 

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拝殿、というか社殿。

 

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アーティスティック。

 

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「瓦塚」を、「南宮稲荷」方面から。

 

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横から。

 

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前も撮影しましたが軍人勅諭

 

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どんだけ好きなんだ「瓦塚」……ちょうど雲間から日光が射してきたので。

 

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別角度で。

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狛犬さん。

 

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角。

 

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狛犬さん。

 

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別角度で。

 

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遠景。

 

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境内遠景。

 

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別角度で。

 

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青空バックに朱塗りの社殿はいいですね。

 

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楼門の狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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いろいろな角度で。

 

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案内図。

 

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御朱印

知らない間に、二宮三宮の御朱印もいただけるようになっておりました……参拝していないのでいただいてませんが(変なところで生真面目)。

まあ、さして遠くないですから、冬が終わったらまた行きましょう……ええと、つまり来年の2月以降ですね……。

 

「春日神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

267ページです。

 

 

「春日社 前津長道にあり。祭神第一殿武雷命、第二殿斎主命、第三殿天児屋根命、第四殿姫大神。当社は牧氏の修造なり。其頃此西の方に大池を掘りて、猿澤の池に象りしとぞ。其地今に池の内といふ字のこれり。例祭八月十八日。神楽あり。」

 

うーん、図絵もないので、往時の様子はさっぱりです。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』を見てみましょうか。

287ページです。

 

「二三 春日神
春日神社は中区上前津町(もと前津村、次に春日町)の西側に在り、(略)旧称は春日大明神、又は春日社といふ、勧請の年時詳ならず、(一に天暦二年となし、或は転業以前となす)小林城主牧與三右衛門長清(元亀元年卒す)之を再興す、其後正徳二年、享保三年、元文五年、宝暦八年、天保二年、明治二十七年の各々修造遷宮あり、明治初年村社に列す、祭神は天児屋根命(金鱗九十九之塵、尾張名陽図会、尾張名所図会には、第一殿武雷命、第二殿斎主命、第三殿天児屋根命、第四殿姫大神となす、塩尻に春日四所法相宗本地伝を引き、第一釈迦、第二薬師、第三地蔵、第四観音とせり、是れ、其本地仏なり)殿宇には神殿(奈良春日大社の本殿を模す)、中門(楼門)、左右廊殿、拝殿、社務所等あり、末社は大直彌子神社の一所あり、例祭は九月十八日、十九日にして、市より供進使の参向(十九日)あり、神輿一台(明治四十四年新調)を出し、古例として廊殿前に油火百八燈を点す(徳川時代には八月十九日神楽、同十九日湯立、又正月元日、三月三日、五月五日、八月朔日、九月九日に各々神饌を供したりき) 
(略)
牧氏再興の時、本社の西に大池を穿ち、奈良の猿澤の池に象りしが、その池いつしか廃し、其跡は池の内の字として残るといふ(略)
往古藤原氏が下総の香取神宮(略)を奈良春日神社に勧請せしとき、此地に休憩ありきといひ、其の由緒に因り、明治三十八年春日の神鹿雌雄二匹を請ひ受け、現今境内に之を飼育す(以下略)」

 

◯こちら===>>>

「大直彌子神社」「石神社・八幡社」(名古屋市中区)〜高速初詣その4 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「大直彌子神社」の記事は、こちらに書きました。

 

◯こちら===>>>

「春日大社」(1)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

「春日大社」(2)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

「春日大社」(3)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

「春日大社」(4)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

「春日大社」(5)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

「春日大社」(6)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club


↑本家「春日大社」の記事です(最近は、修繕も終わってまた賑わっているのか……あれ、修繕が始まったんでしたっけ……)。

さて、「香取神宮」からのんびり白鹿に乗ってやってきた「春日大明神」がこの辺りに立ち寄ったかどうかはともかく、大須周辺には「三輪神社」と「春日神社」という大和を思わせる神社があり、「本社の西に大池を穿ち、奈良の猿澤の池に象りし」なんてこともしていますので、やっぱり牧氏が奈良大好きだった……というか、「大和を大須清洲越以前はなんて呼ばれていたのだっけな……)に再現してやるぜ!」みたいなノリだったのでしょうか……ううむ、そろそろ牧氏について調べたくなってきたぞ……。

 

短めですが、こんなところで〜。