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神社仏閣ラブ(弛め)

「湊川神社」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第6編摂津名所図会

 

↑『摂津名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

323ページです。


「楠正成墓 湊川二町計北、坂本村田圃の中にあり。初めは一堆の冢のみにして、冢上に松・梅の二木の印あり。元禄四年水戸黄門光圀卿、石碑を建てさせ給ふ。従士佐々木助三郎奉行す。村老云ふ、此時不意に多くの武士来たりて碑をここに運送し、一夜の中に建てられけるとなり。領主荘官などもしらずして、何事にやと不審しけるなり。漸蹤にて此事しれけるとかや。黄門卿の深き思慮ありける事にやと、其頃評しけるとなり。碑石の外に、瓦葺方三間の雨露覆あり。其頃の領主青山播磨候の造立なり。又街道の傍に標石あり。楠公墓と鐫す。
楠公石碑之図
碑石竪三尺九寸、横一尺六寸、厚一尺、青石也。中壇竪二尺五寸、横五尺、下壇竪五尺、横一丈。共白石也。亀趺前向。
碑面嗚呼忠臣楠子之墓(略)水戸黄門光圀卿親筆八分字也。
碑陰明遺臣朱舜水撰碑文。
塔中石棺圓鏡一面蔵。文曰、
楠正成霊、
源光圀造立。
碑文に曰く、
忠孝著于天下。日月麗乎天。天地無日月。則晦蒙否塞。人心廃忠孝。則乱賊相尋乾坤反覆。余聞楠公諱正成者。忠勇節烈。国士無双。蒐其行事。不可概見。大抵公之用兵。審強弱之勢於幾先。決成敗之機於呼吸。知人善任。體士推誠。是以謀無不中。而戦無不克。誓心天地。金石不渝。不爲利回。不爲害状。故能興復王室。還於舊都。諺曰、前門拒狼後門進虎。廟謨不戕。元兇接踵。構殺国儲。傾移鍾◼︎。功垂成而震主。策雖善而弗庸。自古未有元帥妬前。庸臣専断。而大将能立功於外者。率之以身。許国之死靡侘。観其臨終訓子。従要就義。託孤寄命。言不及私。自非精忠貫日。能如是整而暇乎。父子兄弟世篤忠貞。節孝萃於一門。盛矣哉。至今王公大人。以及里巷之士。交口而誦説之不衰。其必有大過人者。惜哉載筆者。無所考信。不能発揚其盛美大徳耳。
右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛。明之徴士舜水朱之瑜字魯嶼之所撰。勒代碑文以垂不朽。(略)」

 

出ましたね、「徳川光圀」と「佐々木助三郎」。

「安積格之進」(表記は諸説あり)とともに、『水戸黄門』の登場人物は実在していたのでした。

……まあ、常識ですが……というか、今やドラマ『水戸黄門』を知らない人も多いでしょうからな……ああ東野英治郎(なぜ初代)……。

朱舜水」という人は、

 

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kotobank.jp

 

コトバンクの「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、

 

朱舜水 しゅ-しゅんすい

1600-1682 明(みん)(中国)の儒者
万暦28年10月12日生まれ。明の再興運動に失敗し,万治(まんじ)2年(1659)長崎に亡命。筑後(ちくご)(福岡県)柳河(やながわ)藩の儒者安東省庵(せいあん)のもとに身をよせる。のち水戸藩徳川光圀(みつくに)にまねかれ,水戸学に影響をあたえた。門下に安積澹泊(あさか-たんぱく),木下順庵ら。天和(てんな)2年4月17日死去。83歳。浙江(せっこう)省出身。名は之瑜(しゆ)。字(あざな)は魯璵(ろよ)。」

 

↑ということです。

日本では、教養という部分で儒学が重んじられた時代が長く、大陸や半島からやってくる儒学者は尊重されることが多かった、と聞きます(よく知らない)。

ただ、実際のところ日本は、「菅原道真」の時代に大陸とは決別していますし、半島に関してはそれよりもっと前にお断りしています。

それにしては、日本が大陸や半島を尊重していたのではないか、と思われがちですが、外来のものをありがたがったり、取り込んだりする、ということに昔から寛容だっただけだと思います。

来訪者は「マレビト」としてありがたがりました(ありがくない場合は、殺したりしますけど)。

新奇なものを生み出す、ということがあまり得意でないのかもしれないですが、その代わり、いろいろなことを自家薬籠中の物としてしまうことには秀でていると思います(結果、ガラパゴス化するのは昔からあんまり変わっていないのですよね……で、そのガラパゴスっぷりが日本的な部分でもあるので、恐れる必要はないと思うのです)。

歴史の三分の一くらいが異民族支配だった大陸とか(そもそも異民族ってなんだろう、ってことではありますが……中華思想的な書き方から逃れられないのは、大陸の影響が強い証拠ですね)、地政学的にも大陸の属国でなければならなかった半島とは、あり様が異なります(当然)。

それぞれが、それぞれの方法で生き残りをかけていた、というだけの話です。

 

墓の図絵も掲載されていますが、結構なポツーン感……明治に入って神社を、と言い出したのはさもありなん、でしょうか。

以下は続きですが、『太平記』からの引用なので、孫引きになってしまいます。

 

「[太平記]に曰く、
楠判官正成舎弟帯刀正季(略)に向つて申しけるは、敵前後を遮つて、御方は陣を隔てたり。今は遁れぬ處と覚ゆるぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲つて、後口なる敵に戦はんと申しければ、正季可然覚候と同じで、七百餘騎を前後に立てて大勢の中へ懸け入りける。左馬頭直義の兵共、菊水の旗を見て、よき敵なりと思ひければ、取り籠めて是を討たんとしけれども、正成正季東より西へ破つて通り、北より南へ追ひ靡け、よき敵と見るwば馳せ雙べて、組んで落ちては首を取り、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打ちて懸けちらす。正成と正季と七度合うて七度分る。其心偏に左馬頭に近附き、組んで討たんと思ふにあり。遂に左馬頭の五十萬騎、楠が七百餘騎に懸け靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引き返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に踏み立て、右の足を引きける間、楠が勢に追ひ攻められて、已に討たれ給ひぬと見えける處に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合うて、馬より飛んで下り、二尺五寸の小長刀の石づきを取延いて懸る。敵の馬の平頸、胸がひの引廻、切つては刎倒々々、七八騎が程切つて落しける。其閑に直義は馬を乗替へて、遥々落延び給ひけり。左馬頭楠に追ひ立てられて引き退くを、将軍尊氏見給うて、悪手を入れ替へて直義討すなと下知せられければ、吉良・石堂・高・上杉の人々、六千餘騎にて湊川の東へ懸け出て、跡を切らんとぞ取り巻きける。正成正季又取つて返して此勢にかかり、懸けては打違へて殺し、駆け入つては組んで落ち、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第次第に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成りにける。此勢にても打破ぶつて落ちば落つべかりけるを、楠京を出でしより、世中の事今は是迄と思ふ所存有りければ、一足も引かず戦うて、機已に疲れければ湊河の北に当つて、在家の一村有りける中へ走り入つて、腹を切らん爲に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負うたりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所三箇所の疵を被らぬ者は無かりけり。楠が一族十三人、手の者六十餘人、六間の客殿に二行に雙び居て、念仏十返計同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。中略。抑元弘より已来、忝くも此君に憑まれ奉つて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然れ共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮に遇ひ、智なき者は時の変を弁せずして、道に違ふ事のみありしに、智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成ほどの者は未無かりつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失うて、逆臣横に威を振ふべき其前表のしるしなれ云々。
(以下略)」

 

湊川の戦い、の場面ですね。

左馬頭は、「足利直義」で、「足利尊氏」の弟のようです。

楠木正成」「楠木正季」の兄弟との対比、が描かれていると考えた方がいいのか……別に「足利直義」が愚将というわけでもないと思いますが。

うーん、『太平記』も読んでみないといかんですかね……。

さて、「楠木正成」といえば、

 

軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)

軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)

 

 

高田崇史先生の『軍神の血脈」という本で仕入れた知識しか私にはないのですが。

文庫版の帯には、

 

南朝に殉じ、命を落とした勇将・楠木正成

太平洋戦争末期、彼はその生き様から軍神として崇められた。

しかし、その最期は、今も深い謎に包まれているーー。

一つ。軍事の天才と謳われた楠木正成が、なぜ、最後の”湊川の戦い”では、明らかに稚拙で直情的な戦法を執ったのか?

二つ。正成の首を取った大森彦七は、どうして正成に執拗に祟られたのか?

三つ。それらの話が記載されている『太平記』は、一体何のために書かれたのか?」

 

とあります。

なるほどそうなのか……と、久々に本を引っ張り出してきて思い出しました、そういえばそういう話だったな、と。

興味のある方は読んでいただけるとよろしいかと。

個人的には、古代への興味が強いもので……でも、やっぱり中世も勉強しないとね、とは思い始めています(遅い)。

さて、「徳川光圀」は水戸藩の人間なわけですが、水戸学(後期)といえば尊皇思想に結びついたものとして知られています。

徳川光圀」が「楠木正成」を持ち上げた理由、というのはその赤心故、と考えられています。

儒学朱子学)傾倒の水戸学にとっては、非常にわかりやすく仁義忠孝を体現した人物が「楠木正成」だった、のかもしれません。

その系譜から、後期水戸学→尊王攘夷明治維新とつながる中で、「後醍醐天皇」に忠義を尽くした「楠木正成」はやっぱり持ち上げられる、と。

となると、「楠木正成」の業績が多くとられている『太平記』もまた、その方向性で書かれていたのではないか。

実際はどうだったのかわかりませんが、武家政権が続いても天皇が廃されなかったのは、地下水脈のように「尊皇」を保ってきた勢力、あるいは利用してきた勢力がいたからこそ。

今の日本の姿というのが、かなり古くから作られてきていたのではないか。

そんなことを思いながら、ああ井沢元彦さんの『逆説の日本史』くらいちゃんと読んでおこうかな……と思った次第です。

兵庫県の神社、もうちょっと回りたかったな……車で行かないとなかなか回りづらいのですが、さすがに車だと遠いもので……。

 

あ、そういえば「楠木正成」の幼名は「多聞丸」でしたね(「毘沙門天」つながり……信貴山も関係しているんでしたっけ)。

 

それにしても、『摂津名所図会』で、「七生報国」の場面が省略されているのに、何かしらの意図を感じるのは私だけでしょうか……いえ、<名所図会>シリーズって、時代背景もあってか、国学、尊皇っぽい印象なんですよね……『東海道名所図会』は、なぜか「草薙御剣」から記事が始まるんです……。

 

 

 

※東京の神社で起こった痛ましい事件について、何と申し上げればいいのかわかりませんが……怨霊にはふさわしくない、ととっさに思いました。もちろん深い事情はわかりませんが、怨霊は、周囲にそう認識されなければならないのです。でなければ、祟り続けられませんし、祀られることもない。あれはただの殺人事件、としか思われない……。しかし、宗教も信仰も、現実とは切り離せないものなのだ、ということを思い知らされます……。※ 

「湊川神社」(兵庫県神戸市)

2/4。

所用を済ませて、

 

◯こちら===>>>

湊川神社(楠公さん)-楠木正成公を祀る神戸の名社

 

湊川神社へ。

いえ、神社の比較的近くで用件がありましたもので。

時間的に、参拝時間終了が迫っていたので、取り急ぎ参拝。

 

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狛犬さんたら、

 

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拝殿、

 

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狛犬さん。

ブロンズでしょうか、それっぽい石でしょうか、立派な体躯と勇ましさ。

 

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拝殿遠景。

もうすぐ陽が暮れますね……。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

こちらは焼き物でしょうか、それっぽくしてあるのでしょうか。

表情のおかしみ。

 

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さらに遠景。

いつでも暮れてやる、という空です。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

社紋が珍しいですね。

 

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参道。

 

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神門向かって右手には、「楠木正成」公の墓所があります……が、今回は時間が足りないため、泣く泣くスルー。

 

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神門。

質実剛健

 

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湊川神社
所在地(略)
御祭神 (主神)楠木正成公(大楠公
(配祀)楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 甘南備神社(御祭神、大楠公夫人)
境内神社 楠木稲荷神社(御祭神、倉稲魂命猿田彦命、大宮女命)
菊水天満神社(御祭神 菅原道真公)

由緒

楠公は、元弘元年(一三三一年)九月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公は、ここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(一三三六年)五月二十五日、弟正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後御墓所は、豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸利公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。
そうした幕末から維新にかけて、尊崇して已まない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(一八六八年)四月、明治天皇は、神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治五年(一八七二年)五月二十四日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌二十五日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。

御盛徳
楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。
楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はない、と言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。
(以下略)」

 

……鎌倉以後、戦国以前、屈指の人気を誇る武士といったら「楠木正成」公でしょうか。

新田義貞」もそうなのかもしれないですが、つきまとう悲劇性が一層後世に色濃く伝えられるのでしょうね……。

まあ、私はよく知らないんですけれども……日本史、細かいところまで覚えていられないですから……。

 

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御朱印

四つ、いただけます。

「神戸七福神」の「毘沙門天」なんですね……「毘沙門天」ったら「上杉謙信」のイメージしかありませんでしたが……何かあるのかな……。

近況〜広島参拝記(その3)

12/3。

宮島を堪能中。

夜の拝観……というか入場のときには行けなかった、「大願寺」へ。

 

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ほぼ狛犬のみ、という……。

 

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前回はいただくのを忘れていた御朱印

島だけに「弁財天」なのですね(というか、「厳島神社」自体、「弁財天」と集合していますからね)。

ここから、「千畳閣」を目指してぶらぶら。

東北かららしき修学旅行生が船に急いでおりました。

 

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おっとこちらは、「厳島神社」のほぼ裏手。

 

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えらいパースの五重塔

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構造好きとしては、寝転がっていたいところですが、禁止なもので……。

 

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御朱印、いただきました。

 

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遠景いろいろ。

 

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本当は弥山にも登りたかったのですが、他の予定がありましたもので……ちょっと洗礼が……。

 

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いや、いい天気です。

 

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帰りは横川駅で降りまして、辺りの神社を巡りながらぶらぶらと広島グリーンアリーナ方面へ。

 

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また役所付近で鮮やかな紅葉を発見。

 

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<洗礼の儀>終了後。

スーパームーンだったようで。

 

年末になりましたが、年越しの準備は全くできておらず、記事も2月でストップ状態……多少スピードアップしたいな……。

来年の初詣はあまり無理をせず、そうだなぁ、名古屋七福神巡りはしたいかもです。

 

近況〜広島参拝記(その2)

12/3。

さて、昨日の参拝は大変結構なものだったのですが、何しろ三女神の一柱が大変、ということで、宮島に祈願に向かうことに。

 

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「厳島神社」 - べにーのGinger Booker Club

「宮島」 - べにーのGinger Booker Club

「近況」 - べにーのGinger Booker Club

近況 - べにーのGinger Booker Club

 

↑過去の記事はこんな感じ。

 

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本日も結構な晴天でございます。

 

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年に2回もこの鳥居を拝見することになるとは……(財布が……)

 

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わりと朝早めではあったのですが、すでに同好の士であるとか、修学旅行生であるとか、たくさんいらっしゃいました。

 

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日差しが若いですね……。

 

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ここのところ、夜の「厳島神社」しか参拝していなかったので、午前中にうかがえたことだけで満足(しかも晴天)。

 

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御朱印

近況〜広島参拝記(その1)

12/2。

さて。

三女神の洗礼の儀参拝のため、有給をもぎとって、今年二度目の広島へ。

とはいえ、まだ今年最初の広島の記事(六月)は書けていないのですが……。

今回は写真メインです。

なにはともあれ、広島駅からもほど近い、「廣島東照宮」へ。

 

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「廣島東照宮」 - べにーのGinger Booker Club

「廣島東照宮」〜「金光稲荷神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

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紅葉も終わりがけ……ちょっと遅かった。

 

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「金光稲荷神社」も、変わらず素敵ポイント。

ああ、時間があれば(たっぷりありましたが……)登ってきたんですけどね……いえ、体力残しとかないといけないイベントが控えていたもので、控えめに。

 

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二葉山の紅葉なぞを眺めながら、

 

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「鶴羽根神社」へ。

 

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御朱印です。

「鶴羽根神社」も、六月に参拝しているのですが、記事が書けておりません……。

 

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そこからさらに移動して、「饒津神社」へ。

こちらも六月に参拝(以下同文)。

 

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役所方面に移動していると、見事な紅葉を発見。

晴天に恵まれ、本当にいい旅でした……。

 

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近くの広島グリーンアリーナに用事があったのですが、その前に「広島城跡」、「広島護国神社」へ。

 

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結婚式、七五三、初宮参りなどの参拝者で賑わっておりました。

 

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御朱印

 

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あとは、お堀に映し出される景色をぱちぱちと。

堪能堪能。

「生田神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第6編摂津名所図会

 

↑『摂津名所図会』もあるのですよね(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

163コマです。

 

「生田神社
生田宮村にあり。[延喜式]に曰く、名神大、月次、相嘗、新嘗。近隣二十四箇村の生土神とす。例祭七月三十日、又八月二十日。古は生田川の水上砂山にありて、地名を生田長狭国と称す。武庫郡の広田国の類なるべし。例祭にむかしは神輿を兵庫の津・和田の御崎まで神幸あり。其時砂山瀧之寺并に村甲海上氏供奉す。中頃此事絶えたり。今も遺風ありて、海上氏烏帽子装束にて、八月二十日の祭には神輿の神役を勤む。農家に海上氏大切なるによつて、享保年中白川家より村田氏を賜るなり。
祭神 稚日女尊 俗に天照大神の御妹とす。なほ神秘あり。
摂社 神殿東より第一住吉、第二八幡、同西より第一諏訪、第二日吉。
裔神八前 咸域外にあり。一ノ宮北野村、二ノ宮生田村、三ノ宮神戸村、四ノ宮花熊村、五ノ宮平野村、七ノ宮兵庫北浜町、六ノ宮・八ノ宮は倶に坂本村にあり。
日本紀]に曰く、稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也。素盞嗚尊見之。則逆剥斑駒投入殿之内。稚日女尊乃驚而堕機。以所持梭傷體而神退矣。[同巻]に云く、稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長狭国。因以海上五十狭茅令祭之云々。
[三代実録]に曰く、貞観元年正月奉授従四位下。同十年二月生田神加従三位云々。
天照大神 本社の東南向にあり。
稲荷祠 本社の東西向にあり。
和歌宮 稲荷の南に隣る。
雷大臣祠 和歌宮の南に隣る。
神楽殿 中門の外、東の方。
蛭子祠 中門の外、東向にあり。
弁財天祠 中門の外、東向にあり。
絵馬殿 西の方にあり。
梶原井 中門の外、東の方にあり。
箙梅 中門の外、西の方にあり。
神功皇后釣竿竹 絵馬殿の南にあり。
敦盛萩 中門の外、西の方にあり。
生田池 社頭にあり。
(略)
それ社頭は、前は海、後は山にして、生田浦・生田海・生田川・生田杜・生田里等の古詠多し。海浜の神燈は、夜走船の極と成り、磯辺の鳥居より本社まで、馬場八町、梅・桜左右に列り、其中を海道貫きて、行人絶間あらず。梅匂ふ春のあしたより、鶯の初音神籬にのどけく、特に箙の梅はくれなゐの色こく、むかしにかはらず。桜花の盛は、遠近人ここに円居して、酒のみ物喰ひ、詩作りて幽艶を賞し、さながら雲と見れば雪と散り、磯うつ浪に誘ひつれて、浦漕ぐ船に香を送る。抑桜の名所といふは咸山にして、吉野・嵐山などなり。ここは海浜にして汐風にもまれ、枝々風流にたわめるよそほひ又奇なり。原此地は寿永・元暦の戦場にして、一ノ谷の城郭、生田の森は大手の軍門、源氏の五万騎ここに押しよせ、梶原が二度懸、あるは源太が花箙は、[源平盛衰記]に賞し、延元には尊氏と新田と、生田森を後にあてて闘はれたる事、[太平記]に見えたり。今は旧跡のみにして、神徳はますますかがやき、四の海おだやかに、春秋の風色いとみやびやかに、摂津一州の勝地とぞ知られける。」

 

図絵もありますので、ご参考に。

古代の姿はもちろん、源平の頃の様子もあまりわかりませんが……「梶原景季」が超有名人のようだ、ということは何となくわかりました。

平家物語』も『源平盛衰記』も当たってませんけども……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

延喜式』の式内社なので、こちらもみておきましょう。

300コマです。

 

「生田神社(略)
生田は以久多と訓べし、(略)◯祭神稚日女命◯福原荘生田宮村に在す(略)
日本紀、神代上、一書曰、稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也、云々、又一書曰、日神とあれは、天照大神の別名ともいはんか、されど大神は広田社に鎮座せるは同神には非るか、旧事紀には、稚日姫尊者天照大御神御妹也、と云ひ、古事記には、若晝女神と書て、布忍富鳥鳴海神の娶若晝女神と云ふ、姓氏録、摂津国神別 生田首、天児屋命十一世孫雷大臣命之後也(以下略)」

 

「中臣烏賊津使臣」については、

 

◯こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑「コトバンク」を見てみると、

 

「「日本書紀」にみえる豪族。
仲哀天皇,神功(じんぐう)皇后につかえ,皇后が新羅(しらぎ)(朝鮮)出兵で神意をたずねた際,神託の判定者である審神者(さにわ)をつとめた。2世紀余もあととされる允恭(いんぎょう)天皇の舎人(とねり)にもこの名がある。「続日本紀」によれば,中臣氏の祖先とされる。名は烏賊津連,伊賀都(津)臣とも。」

 

となっていました。

審神者を務めた(とされる)くらいですから、「神功皇后」の信頼が厚かったのか、信頼が厚いから審神者を務めたのか、何とも言い難いですが、この辺りの神話は、中央の勢力に豪族の先祖がどれほど関わっていたのか(何代にも渡って天皇に仕えた「武内宿禰」とか)を書いておくことで、その正当性を歴史の中に位置付ける意味合いがあるものと思われます。

中臣家は、「中臣鎌足」か「藤原不比等」のおかげ(Iなのか)で、結構記紀神話には登場しますから、文量配分も考えられて、のことなのかもしれないです。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑まあお約束で。

112コマです。

 

「生田神社(略)
祭神稚日女尊
今按神代巻一書に稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也云々旧事紀には日姫尊者天照大御神御妹也とみえ神功巻 新羅を伐玉ひし明年の條 に稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長狭国。因以海上五十狭茅令祭とある時より此地に祭られ玉へるなりさて征韓の時に神威を顕はし玉へる神なるを以て延喜玄蕃式に凡新羅客人朝者給神酒其醸酒料稲云々摂津国生田社云々五十束云々送生田社云々醸生田社酒者於敏賣崎給之とあるにて其は外蕃人に神威を仰がしむる大御慮ましての御わざなるべし
神位 清和天皇貞観元年正月二十七日甲申奉授摂津国正五位上勲八等生田神従三位九月庚申摂津国生田神遣使奉幣爲風雨祈焉(略)」

 

摂津国生田神遣使奉幣爲風雨祈焉」……となると、御祭神の「稚日女尊」は太陽神ではなくて風神、という扱いになるのか……あるいは、とにかく大社に祈願したというだけなのか……太陽神の神威を弱めることで風雨につながる、という考え方もありますから、なんとも言えませんが……まあ、「神功皇后」の三韓征伐にご加護のあったかたなので、風雨の神でもおかしくないかなと(船の運行に風雨は欠かせませんもので)。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 生田神社誌要

 

「生田神社」が発行した↑のようなものもありますので、ご参考に。

名所の部分だけちらっと引用してみます。

 

「境内名所
生田ノ池
古来騒人墨客の間に喧伝せられし名勝池にして拾遺集を始め順徳院百首夫木集等に其の風詠を載せたり
生田ノ杜
寿永の昔平氏は其の城廓一ノ谷の東門となし源氏の大軍を阻みて輸◼︎を決せしより降て延元元年の古戦場として其名噴々たり
(略)
箙の梅
源平の戦に梶原源太景季此の梅の一枝を手折り箙に挿して蒐けしにより此の名あり
敦盛ノ萩
口牌によれば寿永の遺無官太夫敦盛深く此の萩を愛し国風をも作られしが其の死後遺子某加茂の明神に祈誓して神告を得遥々当地に尋ね来り長途の疲憊を醫せんとたまたま此の小蔭に憩ひ睡眠して夢に亡父に見えし遺跡なりと云ふ
梶原ノ井
一に鏡の井と云ふ梶原源太景季武運を神前に祈らむとて此の井泉を掬ひける時箙の梅花井水に映せしにより此の名ありと云ふ当時景季一首の和歌を詠みて神前に捧けり
けふもまた生田の神の恵かやふたたび匂う森の梅か香
神功皇后釣竿の竹
其の山来素より徴すべきものなし按ずるに昔神功皇后肥前国末羅縣の玉島の里なる小河にて誓ひ釣し給ひしこと史乗に見ゆれば此等に基きてかくは稱ふるならむ
(略)」

 

さてさて、御祭神の「稚日女尊」については、

 

◯こちら===>>>

「丹生都比売神社」 - べにーのGinger Booker Club

「丹生都比売神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

「丹生都比売神社」(補々) - べにーのGinger Booker Club


↑同体とされる「丹生都比売」のところで適当なことを書いておりますので、ご参考に。

 

 

 

……特に考察や妄想はしていませんが、まあこのあたりで。

「生田神社」(兵庫県神戸市)

2/4。

やってきました神戸!

というわけで、それが目的ではなかったのですが、立ち寄らずにはいられない「生田神社」へ。

 

◯こちら===>>>

ikutajinja.or.jp

 

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ぬるぬるっとナビが案内した神社の駐車場に車を入れ、まずは楼門へ。

 

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社標……あれ、下が切れてる。

 

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一気に拝殿です。
すごいタイミングで鳩もフレームイン。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。
むっきむき、青銅製……じゃないですね、彫刻かな。

 

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拝殿を右手に回っていくと、摂社があります。

 

「塞神社 
御祭神 八衢比古命 八衢比売命と申し衢々に起きる災いを防ぎ給う神なり(防夭・食中毒防止の神)
雷大臣神社
御祭神 元当神社社家後神氏先祖神中臣烏賊津連を祀る神社なり(食文化発展 料理上達の神)
人丸神社
御祭神 柿本人丸公を祀る社で、昔より和歌の神として朝野の尊崇が篤い(学問の神・防火の神)」

 

……御祭神の御神徳がちょいちょい気になります……。

 

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生田森へと通じる道です。

 

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途中に庖丁塚がありました。
デザイン性高し。

 

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楠の御神木、です。

その奥が東側の門。

 

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「稲荷神社
御祭神を倉稲魂命という。保食神、御饌津神とも申し伊勢の外宮神と御同躰であられ、古来衣食の神として尊崇篤く、三月の午の日の祭は餅撒き神事で賑わう。」

 

というわけで「稲荷神社」です。

 

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お狐様なんかも新しいですね。

建て替えが行われる、というのは神社が賑わっている証拠でもありますので、それはそれでありがたいことです。

朽ちかけているのも風情はありますが……。

 

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新しいので、蟇股なんかもデザイン性が高し。
いいのかどうかはよくわかりません。

 

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これなんだっけな……あ、本殿の裏側だったかな(さすがに10ヶ月近く前のこととなるともう……)。

狛犬さんが睨みを効かせています。

 

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蛭子神社
御祭神 蛭子尊
日本の国をお生みになった伊邪那岐伊邪那美神御子神で一般には「えべっさん」の名で親しまれ、商売繁盛の神である。
例祭日 一月十日」

 

というわけで「蛭子神社」。

 

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狛犬さんがまた独特です。

 

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生田森の標と、「戸隠神社」。

蛭子神社」の左手にあります。

さらに左手、生田池には、

 

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「生田弁財天 市杵島神社」が。

隠れちゃってますけどね、立て札。

 

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境内図。

 

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「御由緒
当社は稚く瑞々しい日の女神「稚日女尊」をお祀り申し上げげ古く神功皇后三韓より御帰還の砌、御神誨によって「活田長狭国」即ち現今の処に御鎮斎になった由緒高い大社で、神戸の地名は当社の「神戸」から起こったものであります。
古来より朝野の尊崇極めて篤く、生業守護・健康長寿の守護として名高く家運隆昌・円満和楽の御神徳を仰ぎ奉らむと年々歳々多くの神前結婚式をかぞえ、「縁結びの神」として有名であります。
又、平安の昔、文人墨客が名勝「生田の森」を訪れ、その後源平合戦の古戦場となり、近くは昭和二十年六月五日大東亜戦争の戦災により悉く焦土と化し、昭和三十四年四月氏子崇敬者の奉賛により、戦災の復興を成し遂げ、更に昭和五十九年式年造替の制を定め、輪奐の美いよいよ整いましたが、平成七年一月十七日未明阪神淡路を襲った大震災によって御本殿を始め諸建物、境内各所に甚大な被害を受けました。然しながら関係者の不断の努力により、平成八年六月震災前にも増して立派に修復がなったのであります。更に平成二十一年九月第三回式年造替により、すべての修復復興が完了いたしました。
尚、境内には「生田の森」「生田の池」「箙(えびら)の梅」「敦盛の萩」等幾多の史跡を有し、古くより今日に至る有名な処であります。」

 

なるほど、そうでした、「稚日女尊」ですね……それにしても、当神社の「神戸」から神戸という地名ができたとは知りませんでした。

地元のことだってろくに知りませんからね……。

 

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源平合戦の古戦場
史跡 生田の森
世に有名な『源平合戦』の折、西は須磨の一ノ谷から、東はこの生田の森にかけての一帯が戦場となりました。
平家はこの生田の森を大手の木戸口とし、知盛大将軍・重衡副将軍が陣取り防備を固めていましたところ、ここへ源範頼の軍勢が攻め入りました。
この時の若武者・梶原源太景季が境内に咲き誇った梅の一枝を箙(えびら)に挿して戦った事は武士の風流として語り継がれ、現在も「箙の梅」として老梅が境内に植わっています。
この他にも生田神社の境内には、源平の合戦に因んだ史蹟が多数残されています。
古くより文人墨客に愛され多くの歌に詠まれてきたこの森も、現在では都会の真中のオアシスとして、また、パワースポット・ヒーリングスポットとして親しまれています。
また、春にこの『生田の森』にて開催される『曲水の宴』は平安の歌遊びを再現した雅な行事としてお楽しみ頂いております。」

 

確かに、街のど真ん中にありますよね……ちょっと歩けば三宮駅

神戸に来たのが何しろ初めて……だったかな……なもので、ちょっと驚きました。

それにしても、平安後期から鎌倉か……ほぼ知らないことだらけで恥ずかしい限りです。

「箙」というのは、矢を入れておく入れ物のことのようです(それも知らない)。

伊達男というか気障というか、そういう人はどの時代にもいるもののようですね。

さてと、ということは、『平家物語』か『源平盛衰記』か……『平家物語』は全巻揃ってないし、『源平盛衰記』もないな……どうしようか……。

 

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鳥居と社標、そして狛犬さん。

 

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駐車場から、これは「大海神社」でしょうか。

申し訳ない……先を急ぐ旅でもあったので、こんな中途半端な感じです……いつかまた。

 

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御朱印

文献などは次回に〜。