べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「築地神社」(再)(名古屋市港区)

1/28。

熱田神宮」周辺をちょっとぐるぐるしたあとに、「築地神社」へ。

 

◯こちら===>>>

「築地神社」(名古屋市港区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

ざっと写真を。

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いや、いい天気だった……。
神職さんがいらっしゃったので、御朱印をいただきました。

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やっと、1月の記事が終わりました……今年中に、今年の記事を全部書くのは無理ですね……はい。

 

あ、そういえば、「熱田神宮」で御朱印帳をいただいたとき、あわせて袋をいただいておりました。

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途端に、自分の御朱印帳が有難いものに感じられて……丁寧に扱わないといけませんな。

 

 

不定期「熱田」考(7)

さて、ぼちぼち終わりにしとかないとですね。

 

 

史跡あつた (1962年)

史跡あつた (1962年)

 

 

『史跡あつた』という素敵な本がありまして。

そのp30より、

 

「別宮 八剣宮
正面参道を入って一の鳥居をくぐるとすぐ左側に南面して鎮座。祭神は本宮と御同前で、鎮座は、元明天皇和銅元年と伝える
。古来別宮、外宮、下ノ宮などの称があった。八剣とは八口の剣の意味ではなく八は弥々と読み、「ながし」「ひさし」の意味で、永遠に剣の宮という意であるという。」

 

……「八」というのは古い日本語では、「大きい」とか「多い」という意味で使われることが多い、とされています。

そこから、こういった説が出てくるのはわからないでもないです。

以前の記事で引用したように、和銅元年に新しく宝剣が作られ、奉納されたのでこちらに祀られている、ということなのですが、そのときに八振りの宝剣を収めたとは考えづらいですし……それに、何といいますか、三種の神器ですが、何か「草薙剣」だけちょっと違いますよね。

八咫鏡」「八尺瓊勾玉」ときて、「八劔」的な名前だったらいいのにな……と誰か思ったりしたのかもしれません(だったら多分、「八拳劔」でよかったんでしょうけれども……外せなかったんですかね「草薙剣」は)。

 

p36には、

 

「摂社 松姤社
熱田区市場町に鎮座。祭神は宮簀媛命であるが、俗に「つんぼの神」と云われ、お詣りすると耳が聞えるという伝えがある。」
末社 鈴之御前社
熱田区伝馬町に鎮座。祭神は天鈿女命である。古老の伝によると、東より宮の宿、即ち現今の熱田に入るものは必ずこの社で”鈴の祓い”を受けたものであるといい、例年七月三十一日には”茅の輪くぐり”の神事があってにぎわう。」

 

御祭神なんかは、明治以後に整理されたものを掲載しているようですので、こんな感じにになっています。

あと、前回の「鈴御前社」は「浮島神社」ではないか、に対して、

 

末社 浮島社
熱田区伝馬町に鎮座。祭神は天穂日命である。」

 

という記述もありまして、あれどこにあったんだろう……探してみないといけませんね。

 

p50から、

 

「精進川
その源を千種の今池に発し、御器所、高田、大喜、などの東方丘陵地帯(現在の昭和区瑞穂区)と、いわゆる熱田半島を形成している西方の台地との間の低地帯の田畑からにじみ出る溝川を集め、七本松(鶴舞公園西南)附近では大池のあふれ水までまじえて南へと流れ、熱田の東で大きく廻って、東海道筋である伝馬町を横ぎって羽城地内に入てから海にそそいでいた。古書に僧都川と記されたものもある。
江戸方面からの宮の宿への入口である伝馬町、また築出の町が(五丁目、六丁目)できていなかったころ、永禄年間前までは精進川は宿境であった。即ち境川であったという。その古い時代に熱田の宿駅に入る者は、この川でミソギをしたという。そのミソギの場所が『鈴の宮』『スズのミヤ』『レイのミヤ』祓所(ススギどころ)であったといわれて、これは熱田に大社が鎮座せられるところから伝えられたことのようだ。」

 

なるほど、かなり古い時代のお話のようで。

宿に入るときに、いちいち禊をしたものなのか……という検証ができませんので、なんともですが。

書かれているように、「熱田神宮」の勢力というか大きさを物語っているのかもしれないです。

 

姥堂
東海道の伝馬町筋にまだ橋が架けられてなかったころ、人々は川を渉って通行していたが、出水の時など溺死者もあった。永禄の頃(一五五八)、この川の出水のはげしいおりからを、幸順という沙門が渡渉しようとして急流のため溺死をしてしまった。と、このあたりに住む非常に貪欲な老婆が、その衣を剥ぎとってしまった。この老婆は、今までに溺死した多くの人々の衣装を剥ぎ、持ち物等を奪ったりしていたが幸順沙門の衣を剥ぎ取ってから急に大熱が出て狂い廻り、遂に死んでしまったが、それ以来毎夜のように精進川のほとりを魂がさまよい飛ぶを土地の人々が老婆の霊魂として哀れみ、罪障消滅のため姥堂を建立し、三途の川の奪衣婆のすがたを安置した。姥の座像は、たけ八尺一寸で、作は安阿弥と伝えられていた。(以下略)」

 

羅生門』の世界のようですが、江戸時代の話です(庶民の暮らしはそれほど違わなかった、ということなのでしょうか)。

 

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名古屋市:堀尾金助と裁断橋(熱田区)

 

熱田区の史跡散策路のHPより。

 

「大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。

1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。

1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました。

なお、愛知県大口町に堀尾一族の屋敷があったことから、同町の五条川にも裁断橋と擬宝珠が復元され堀尾跡公園となっています。」

 

精進川を三途の川に見立てて「奪衣婆」を祀る、とはいえ江戸時代のことです。

姥堂」の伝説の原型は、やっぱり「宇治の橋姫」系のもので、そもそもは橋の守り神として祀られていた女神が零落した、と考えても面白いのかもしれないです。

 

p58より、

 

「松姤社(おつんぼかみ)
日本武尊が東征の命をうけて、伊勢より尾張国に入り、氷上の里(現在の大高町)に、尾張国乎止与命を訪う道すがら、たまたま、布曝女(当時は無名の地)を通った時、清流で布を晒していた美しき乙女に氷上への道を問うたが、乙女はつんぼをよそおうてこたえなかったという。この乙女こそは、氷上の乎止与命の娘、後に日本武尊の后となった宮簀媛であったと伝えられており、尊の死後、社地を布曝女(そぶくめ)と呼ばれ、その場所に小社を祀り、『おつんぼ神』を人々は、耳の神としてあがめたと伝えられていた。
林家居宅図を見れば摂社松姤社十握社が東北角へ入込んで居る。
摂社 松姤社—祭神は宮簀媛命であり居宅の跡即乎止与命の下館跡である。
同 十握社—同所にあり草薙の劔を奉持した場所として伝える。」

 

似たようなお話が「神武天皇」でもありましたね。

英雄流離譚的な神話では典型ということでしょうか。

というか、侵略者ですから、そりゃ警戒するでしょうね、という雅やかの欠片もないことなのかもしれないです。

 

◯こちら===>>>

「氷上姉子神社」 - べにーのGinger Booker Club

「内々神社」+「妙見寺」 - べにーのGinger Booker Club

「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club

「猿投神社」(妄)その2 - べにーのGinger Booker Club

『景行天皇社』(再) - べにーのGinger Booker Club

「伊奈波神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club


↑私の妄想では、

 

「東征を行なった「日本武尊」は、「大碓命」だった」

「双子の入れ替わりトリックで、「大碓命」は「小碓命」に殺されている」

建稲種命も、「小碓命」に謀殺されている」

「なので、「宮簀媛」は「小碓命」を殺したのではないか」

 

ということになっています(?)。

で、熱田周辺は、当時の尾張氏の勢力下だったとして、「日本武尊」との間に子供のない「宮簀媛」が、「日本武尊」の子孫たちを祀る理由はないわけで。

となると、尾張の力が減退し、中央で記紀神話が整っていった時期に、表向き恭順するために(あるいは、東国が壬申の乱で「天武天皇」に味方していることから、何らかの取引があったのかもしれないですが)、「日本武尊」の王子たちが「熱田神宮」の摂社末社に加えられていったのかもしれません。

 

 

 

消化不良の妄想でした……。

不定期「熱田」考(6)

さて、どうしましょうか……一応見てみますか、『名古屋市史』。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

もう、こっちも熱田関係の記事が膨大で……それぞれでご確認ください(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

気になるところとして、184ページ。

 

「楠木御前 俗ニ子安ノ宮ト云。
祭神伊弉諾尊伊弉冉尊也、是諸神之太祖神也、二尊ハ天神七代ノ終リ、陰陽ノ正徳也、神代図説ニクハシク記セリ、周易曰、大哉乾元、萬物資始ムハ父ノ道ナリ、至哉坤元、萬物資生ズハ母ノ道也、諾並ノ両神ハ蓋シ国ノ父母也、此社三輪造ニシテ本社ナシ、大ナル楠ノ古樹アリ、回ニ神籬ヲ構ヘテ以テ神トス、然シテ二神ヲ以テ子安ノ神トスルコト故アリ、神紀ニ二神ハ日神、月神、日兒、進雄及ビ五行ノ神ヲ生ジ、百穀蠶桑ヲナシ、国洲ヲ生ジ玉フコト有、気化ノ神生々ノ始メナレバ、産育ヲ祈ルコト尤モ理ニ叶ヘルカ、此社及ビ下知我麻ノ神社、元禄五年壬申冬御修理、即遷宮、 [熱田尊命記集説]」

 

「三輪造」とあるのは、本殿がなく、御神体(山、木)を拝む形式、ということかと思います。

なるほど、国産みの両神ですから、子安の神となっても不思議ではありませんが……むしろ、子どもに恵まれなかった神のほうが適切ですが……あ、ある意味恵まれてませんね(「素盞嗚尊」とか)。

 

「(精進河上)
鈴御前 天鈿目命(アツタ記) 御曾支神云云、一書ニ御祓(みそぎ)ニ作ル
問フ祭神何ノ神ゾヤ、答フ不知、蓋シ按ルニ、祓戸ノ八百万神歟、即此ノ所当社ノ祓所也、一説ニ住吉也ト云、住吉ハ禊事ノ神ナレバ、據ナキニ非ズ、後賢是ヲ補ヘ [同書]」

 

どうも「鈴御前社」の神は「禊」の神かもね、ということらしいです。

そうすると、「天鈿女命」でなくてもいいんですけれどね……。

 

「鈴御前社 並 牟山戸
此社ノ神ハ巫部ノ祖神ノ天穂日命縣御子ノ祖神天鈿女命也、此鈴宮ハ本ト浮島神社トテ、往古海中ニ在シガ、度々洪水アリ、其時今ノ處ヘ漂着シ、故ニ自然ト易地成也、故ニ其跡を牟山戸ト云、鈴ノ宮ト同神也、故ニ古代ハ縣村ニモ(村椙記)謂縣神社、此神ニヤ、尤巫覡ノ祖神タルニヤ、縣ノ社ハ惣ノ斎女ノ預リニテ、神楽座一老代リテ祭ルトキ、小◼︎餅ヲ供セシコト昔ハ有シトゾ、其小◼︎ヲ用ルハ、年々小◼︎ヲ神税ニ収メシ故、一老ガ其小◼︎ヲ箕ニ盛テ態備ヘシガ、後ハ餅ニノモ備ヘシ◼︎モ有シヨシ、今堀ノ内ヲ縣ト云モ、惣ノ斎女ノ領ニテ、縣御子ノ居地ナリシ故トゾ、何レニ浮島社、今ノ鈴ノ宮ハ二神ヲ祭リ、巫覡ノ祖神ナル故ニ、神楽ノトキノ採物ヲ以テ社号トス也ト、又浮島カラ流レ来タル故、今世モ東脇ノ氏神ニテ、是浮島ヨリ移ル氏子ナリト、故真英ノ説ナリ、又、此處ヲ祓戸トスル事、古代ノ記ニ、精進河ノ神社、祭神底筒男、中筒男、表筒男ノ神、云云、此三神ハ諾尊不意凶目杵ノ處ニ至リ、還後橘小戸ノ波間ニ祓ナリテ、底ノ底カラ男の心ニ成給フ徳名ニテ、即チ祓神也、今世ハ此社ナシト雖、其神アルニ因テ河アリ、河アレバ其神霊アルコト疑ナキ、故、茲ヲ祓所トスルコト宜ナリ、但鈴宮ハ祓神ニアラズト知ベシ、東西南北ノ祓戸ノ辨ノコト有ベシ [熱田社伝]」

 

こちらはもう少し面白い感じ。

「縣御子」は、「かかりみこ」で、神がかりする巫女のことでしょう、であれば「天鈿女命」はぴったりな感じです。

それから、神社が浮島だった、というのも面白いですね。

普段はお参りせず、必要な時だけはお参りする、ということは普段からいていただくには畏れ多い、「祟り神」なのでしょう。

何に祟っているのかはよくわかりませんけれども。

「禊」の神、「祓戸」の神は、基本的に水辺にあることが条件(絶対ではないですが)なので、海中にある浮島の神社、というのもありかな、と……ううむ、妄想が浮かんできませんが、例えば何らかの聖別された空間で、斎宮のような巫女がそこで身を清めるための離れ小島、という感じだとするとどうでしょうか。

 

「牟山堂 ◼︎出或無山戸、今社亡
祭神 不詳
厚見草曰、牟山戸ト云ハ、方十四間計ニシテ、芝生深ク、四方ヲ堤ノ如ク築キ、中央ニ老タル松五六株モヤ有シ、翠ノ色青ヤカ也、昔ハ巫女ノ◼︎カナデケルト、今ハ其事モ無シ、如何ナル所ニヤ、或ハ古ヘ墓所ニテ有シトモ云フ、又秘所トモ云、此松古ヘヨリ倒ルル事ナク、高潮上リテ人家ヲ流レ、大木ヲ倒シケル事有テモ、此所ニ浮上リテ水難ナシ、風モアタラヌト語リヌト也 [熱田宮略記]」

 

おや、「牟山堂」とか「牟山戸」とかって、

 

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「鹽竈神社」(中川区)※2016/10/06追記 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「鹽竈神社」(中川区)の記事に出てくる「無三殿」と何か関係あるんでしょうか……なんでもかんでも結びつけてはいけませんが、ありそうな〜なさそうな〜。

 

さて、「円通寺」についてもみておきましょう。

寺院の記事が並んでいる部分、678ページです。

 

「七七 円通寺
円通寺は補陀山(一に羽休山と曰ふ)と號す、南区熱田新宮坂町に在り、境内は千七百十九坪六合一勺あり、常恒会地特級にして、静岡県浜名郡富塚村普済寺の末寺なり、此地往古より秋葉三尺坊の霊地として一小宇ありしを、弘仁中、空海此堂に自刻の観音像を安んじ、一寺を創建して、補陀山円通寺と號すといふ、又此堂老松の下に在りしに因り、世に松下の観音と呼べり、北朝明徳二年、田島尾張守仲宗の開基なり、(熱田之記に云、田島丹波が菩提所云々」とあり、田島丹波とは田島丹後守仲定(寛文七年卒)を指すなり、又同記に「寺僧の云、寛徳年中………尾張守仲安の父(田島丹波先祖)帰依して、今の円通寺を建立し」と見ゆ、仲安は仲定の父にして、其父は尾張守仲和なり、今寺伝には単に田島家と称するのみ、今姑くは田島氏系譜に依る)、誓海義本(普済寺第二世、勅諡大明禅師、文明二年八月八日寂、墓あり)を以て開山とす、此時の山号を松露山といひしが、後今の山号に改むといふ(厚見草附録、金鱗九十九之塵所引寺伝)、宝暦七年十二月、十六世龍重旭泉の住するに及び、悉く旧債を償ひ、諸堂の傾頽を修補し、影室、鐘楼、応事、禅堂、庫裏、秋葉堂、陽谷軒、衆寮等を一新す、明治二十四年の震災に、本堂、秋葉堂(即ち神殿)等倒壊し、四十年六月より、今の本堂を再建す、本尊は釈迦牟尼仏(作者は詳ならず)なり、(此説古雅書に依る、張州志略には「安十一面観音(弘法所造)」とあり、蓋し此像はもとは観音堂安置の像なりしか、本堂の本尊となし、後脇立となししが如し)、現今の堂宇は、本堂、庫裏、玄関、禅堂、鐘楼(略)、総門、神殿(鎮守秋葉三尺坊堂なり、又羽休堂の称あり、明治二十七年に再建す)、奥の院等あり、塔頭には瑞用(用一作陽)軒、宝暦八年疊寺となり、天明六年、知多郡大野村宝蔵寺へ譲與し、その跡畑となりて、当寺の控となれり)、陽谷軒(明和四年、疊寺となり、七年再建す)の二所ありしが、今廃す、末寺は熱田之記に「熱田ノ内ニ有之円通寺末山ハ悉ク天台宗ナリシガ、文明年中、当宗ニ改ム」と見え、又同記に「厚覧草云々、此末寺五十餘寺有ト云々」と見え(略)」

 

うむ……という感じです。

あんまり、「秋葉大権現」については触れられていないので、妄想がはかどりませんね。

体系的には何も考えていないもので……。

不定期「熱田」考(5)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 3 熱田

 

今回は『尾張志』を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

なんと、「熱田」で1分冊されているという……どんだけの情報量なのか。

9ページです。

 

「楠木御前社
左王御前社の西の方にあり 祭神詳には辨へしかたしされを延久記には楠御前は上野国中梁田明神とあり 今の社説に伊邪那岐伊邪那美二神を祭るといへるもいと近世よりの事にもあらじか 神名帳頭注にいはゆる西伊弉並尊と云るは全く此神をさせるやうにも聞◼︎ 扨此神は社はなくていと旧たる楠一本を神霊として廻りに瑞垣結り熱田社四至九町の中央なりと伝へ云て俗人は子安神といひ安産の祈祷するならはしあり 永徳の比は林重弘といふか開◼︎職を兼て此社の禰宜職になれりき 下楠木御前禰宜職事開◼︎重弘右於禰宜職者去任観応三年六月十五日御書下之旨如元所被宛下也至于御神事以下者守先例可致其沙汰仍執達如件永徳三年八月十五日と大宮司蔵書補任の文書に見えたり」

 

「楠御前社」については、「伊弉諾尊」「伊弉冊尊」を御祭神というのは、どうも近世のことではないか、と江戸時代からいわれていると。

そうすると、「楠」と「子安」とがどこで結びついたのか……何か忘れられた説話があるのか、あるいは「いや、パワースポットなんでっせ」と言い出した人がいたとか(今も昔も、人間なんてそう変わらないですから)。

 

10ページより、

 

「孫若御子神
乙子神社の西の方に坐す 延喜神名式に愛智郡孫若御子神社(名神大)本国帳に同郡従三位孫若御子大名神とある是也 はやく神名帳頭注に尾張国年魚市郡孫若御子日本武第七男稚武彦王也といひ社説には瓊々杵尊応神天皇稚武彦王三坐を祭とも又吾勝尊をあはせ祭りて四坐也ともいふはみな中世以後のさだなり(略)さて稚武彦王と称るはもと書紀に據れる御名にて孝霊天皇の御子稚武彦命にまがひつるなり こは古事記に若建王とあるぞ正しき 古事記に此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毘売命生御子帯中津日子命(略)又娶其入海弟橘比賣命生御子若建王(略)とあるを申せる也 さるを書紀には初日本武尊娶両道入姫皇女為妃生稲依別王次足仲彦天皇次布忍入姫命次稚武王とあるは異なる伝へ也上にいへる 稚武彦王は正しき御名は若建王にて倭建命の御子神なるをかの神名式に孫若御子とのせらるへきよしなきやうにおぼゆ 故いかにとなれは孫といふ語は子の子を呼号にて真子(まなこ)を然いふへくもあらす 和名抄の孫を挙たる條に爾雅云子之子爲孫(略)一云々比古といふ例聞およはす されは上に挙たる社説の三座の中坐に載奉れる応神天皇日本武尊の御孫にましませは是そよく此孫若御子といふ社号にあたれる祭神なるへき さてこの社は中世己後此本處のすたれて後この處本所のごとくなり給へるなれと旧は遥拝所か又は移し祀奉れる御社にて本處は当郡の中別所に坐るものなるへしその精しき考記は別録したれはここには畧きつ

 

今の御祭神は「天火明命」ですが、どうやら「日本武尊」の王子である「稚武彦王」だと考えられていた、と。

それがまたどうして「天火明命」まで遡っちゃったんでしょうね……。

 

「さてこの社は中世己後此本處のすたれて後この處本所のごとくなり給へるなれと旧は遥拝所か又は移し祀奉れる御社にて本處は当郡の中別所に坐るものなるへしその精しき考記は別録したれはここには畧きつ」

 

ええ……そうなの?

どこだろう……ああ、探すのが大変だから私も略します(をい)。

このあと、11ページからも摂社について掲載されているのですが、「籠守社」「角宮社」「油部屋社」などの面白そうな神社について、御祭神はやっぱりわからず、だそうです(江戸時代でもすでに……)。

13ページより、

 

「八劔神社
大宮の南に南面に坐す 延喜神名式に愛智郡八劔神社本国帳貞治元亀二本ともに正一位八劔名神とあるこれ也 元明天皇の観よ和銅元年九月九日勅命によりあらたに宝剣を斎蔵奉りて多治比真人池守安部朝臣宿奈麻呂等勅使として参向てことさらにかく八劔神とたたへて祭り給へりといへり こは既◼︎の草薙の神劔の御事ありしによりて深くおもほしめす大御意ありし也と伝へいへり また慶長四年八月五日拝殿及廻廊築地まて家康公御修造したまへるとき神殿は浅野長政朝臣の造進なりと尊命記にいへり(略)
摂社(略)徹御前社 八子社の南に東面にあり建御名方神を祭るといへり此神は大国主神の御子にて延喜神名式に信濃国水内郡建御名方富命彦神別神社(名神大)とある同神なり(略)されは延久記には信濃国水内明神とかけり尊命記に日吉八王子宮も此神也といへり」

 

うーん、やっぱり新しく宝剣を作って収めた、というのは広く知られていたようですが……例えば「伊勢神宮」のように遷宮をするとか、「諏訪大社」のように季節によって動座するとか、そういったことのために別宮があるのはわかるのですが、その場合でもご神体は変わらないです。

変わったら、ありがたみがないわけで。

となると、なんなんでしょう……これはひょっとすると、かつての摂社「徹御前社」の御祭神「建御名方神」あたりから探っていくと何かわかるのかも……といっても、水内郡の「建御名方富命彦神別神社」には、「建御名方神」だけでなく、その御子神である「彦神別命」も祀られているのですよね……これに「日吉八王子社」も同じ、ということは「三十番神」における「八王子=建御名方神」説をとっているということになりまして……そういえば「日吉大社」の「早尾社」は熱田の「源太夫社」(「上知我麻神社」)と同体、なんて説もありましてねぇ……もうわけわかりませんが、掘れば何か出てくるのか……。

 

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善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(考)〜その1 - べにーのGinger Booker Club


お次は15ページより、

 

「日割御子神
熱田本宮の南の方八劔神社の東の方に坐す 日割は比左畿と訓へし 此處の地名也 さるを中世より巳来比和利と非訓して日破とかかるは古伝を訛れり されとこはいと近世の事にもあらす 延久記にも今のことく日破と書り 比左畿はもと干崎の意なるへし 此地形を見るに今の曾夫久免町といふあたりより東南は凡て入江の水際ありなむ事すりして土地一際卑しこの社地はその水際へさし対て張出たるいにしへの洲崎のなごりいまも存りてまことに干崎といひつへき地形也 火高氷上日長日崎なといふはみな此年魚市海より知多浦へ続ける浜辺にありて熱田神に由縁ある社地なり永久三年十二月二十日左衛門府生内蔵経則か考へたる着駄勘文の中に日前金里年十九尾張国人云々といふ事朝野群載に見ゆ この金里か姓の日前も即比左畿と訓てこの地名を負るにて此郷人にもやあらむ されと日前は比の久末とも訓て大和紀伊にある地名なるに姓氏録左京神別に檜前舎人連といふ姓もあれは日前も其同氏にて比乃久末ならむも知へからねどさる地名も当国に昔も聞えす今もある事なしかかれはこの地に據れる姓にて比左畿ならむか さて当社は倭建命御子建貝兒王命を祭れる也 建貝兒王は古事記倭建命の皇子等をしるせる條に又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王(略)又建貝兒王者讃岐綾君伊豫之別君(略)登袁之別(略)麻佐首宮道之別(略)等之祖と見え書紀には又妃吉備武彦之女吉備穴戸武媛生武穀王(略)與十城別王其兄武卵王是讃岐綾君之始祖也弟十城別王是伊豫別君之始祖也とあり旧事紀も此におなし されと旧事紀に武卵王と(略)武養蠶命と別に挙て別腹の皇子ととしたるは御名の字の異より混れつるにて別人にはあらす 当社を此命なりといふははやく神名帳頭註に尾張国年魚市郡日割御子日本武五男武鼓王也(略)とあるに據り(略)しかるをかの熱田鎮座記に日割御子宮四座日前饒穂命手栗彦命已上御霊形御筥而座一云燧而座秋津島宮御宇祭之(四坐とあるに二神挙たるも意得かたく日前饒穂命と云もいかなる神にかものに見えす)といひ延久記に日破宮の下には伊勢大神宮より熱田大神宮へ賜へる火打有之云々又熱田の社記に日破宮火徳神と挙て日本武尊東夷征伐時倭姫命授劔嚢其一斎火徹燧号日破宮といへる類は並古伝をうしなへる後のさた也 又本国帳集説に稲依別王と充たるは何によれるにかものに見えたる明証なけれは猶強言とやいふへからむ尊命記集説には祭神軻遇突智命云々猶神跡に深秘あることなりといへるを府志にも是によりて同しく軻遇突智神として謹按続日本後紀当社日本武尊御子今失其神名徒以火霊名耳と書るは続後紀に承和二年十二月辛未朔壬午尾張国日割御子神孫若御子神高座結御子神惣三前奉預名神熱田大神御兒神也とあるを按るにまことにいはれたり されともまた社伝云日本武尊東征之日倭姫命所授之燧也号天火徹燧即蔵以爲当祠之爾私云天火徹燧者当社和魂之表歟云々私曰倭姫命所授神劔既蔵本宮又以同時所授燧蔵当祠社伝固有燧據矣哉とかけるは延久記已後の新説のゆゑありけなるにひかれて神名式及続後紀なる御子神といふ神名を忘れたるもの也 神名式に日割とかけるは借字なるをもおもはす比和利と非訓し遂に日破とも作ならひ又日と火の義として火之迦具土神あるひは天火徹燧ぞなといふはみな後の強言也と知へし此神は世にいはゆる熱田の七社といふうちの其一社也(略)」

 

もう長い……ですが、とりあえずよくわかりません。

考え方として、「日本武尊」の王子とか、東征関係者が祀られている、というのは納得がしやすいのですが、以前にも書きましたが、文献上は「宮簀媛」との間に子供がいらっしゃいませんでした

それなのに、お祀りするかなぁ……まあ伝説ですし、自分の子供のように可愛がる的なこともあったかもしれません(でも、「日本武尊」の王子のうち、少なくとも一人は天皇になっておいでなのですよね……うーむ)。

「倭姫」から授けられた火打ち石が祀られている〜、というのは、「圓通寺」の「秋葉権現」に通じる話のような気がします。

まだまだ、18ページには、

 

「南新宮社
劔神社の東の方に西面にあり須佐之男命をまつる俗に天王といふ毎年六月五日の祭式は此社のなるよし府志にいへることし この社号は永享三年六月うける守部宿禰宗政か譲状にも見えたり(略)」

 

さらっと。

次いで、20ページに、

 

「松姤社
そぶくめ町にあり祭神詳ならす府志に祀宮簀姫命一説建稲種命云々伝云日本武尊東征之間宮簀姫命居于此地云々といひ又熱田のある書に倭建命東征し給へるほど美夜受比賣命のたく門戸を閉て諸人の出入をとどめ親しき御属縁人の聲たに聞給はすふ◼︎く天神地祇を祈りてひたすらに尊の御帰陣を待戀給ひき今俗人釘及底ぬけたる柄杓を献して此社の拝殿と敲き耳の聲えぬ病といのれはすみやかに感応ありこは門戸をとぢて人聲を聞給はざりし遺風也この故に俗に聾神也といふはいみじき誤也といへり◼︎◼︎る説あるはいかなるよしにか心得かたし又尊命記に旧説に十握劔を祭るといふ俗に御塚宮といふをもて考ふれは是蓋建稲種命の御塚にして後に社を建たるかといへるもおほつかなき説なり此地さるへき古墳のさまにあらす按に熱田を松子島といふ称あるは此社号より出たるなるへし(略)」

 

あら、「建稲種命」の陵墓説はばっさり、でしたか。

でも「十握剣」というのもよくわからんし……「松子島」と呼ばれたのが先か、「松姤社」と呼ばれたのが先か……「待つ子」だったら面白いんですが、それじゃ「宮簀媛」が待っているわけではなくなっちゃいますしね……ああ、「建稲種命」の母である「真敷刀俾」が待っていることにすればいいのか……。

続いて、

 

「鈴御前社
精進川の辺にあり俗に此處を鈴の宮といふ祭神詳ならず府志に天鈿女命を祭といへるも一伝説なから猶決めかたし此社もとは東脇村にありしをいつはかりにかありけむここにうつし祭れる也とそ徇行記に富江町の内伊助といふもののうらに往古よりささの宮といへる小祠あり是は鈴の宮の旧址のよし申伝たり此地はむかし東脇村の内なるゆゑ東脇浦にて頭立たる家筋師人と唱るともがら例年正月十九日鈴宮の神事武射を勤む其次第は祭日早朝に祠官磯部孫太夫鈴の宮の神前へ供御調進せし上にて大さ六尺の的桑の木の弓紙の羽の矢一筋師人当番の者の方へ持ゆき饗応すみてささの宮の南にあたりて例の場所に的を立孫太夫禮射をつとむ是古より断絶なく古式を勤むる事也とあり年ことに郷補頭人此河水を汲て身そき潔斎し六月晦日社家一統ここに集ひてみなづきはらひを行ふ也(略)」

 

こちらも「天鈿女命」祭神説については「伝説だしなぁ」という感じ。

今度は51コマですが、

 

姥堂
伝馬町の東裁断橋のこなたにあり当所圓福寺に属す長八尺余の奪衣婆の像を安置す永禄年中紹巴が富士見道記には丈六乃姥の像を安置すと云り古雅にして其面相おそろしき事限なし仏工運慶の作ともいひあるひは安阿弥の作ともいふいづれをよしとも定めがたし俗に三途川のおうばといふ永禄の頃幸順僧都といふ法師この川にて溺死せしを此辺の欲心ふかき老婆かの衣をはぎとりし故川を僧都川と名つけ姥の霊魂を橋詰にまつりしよし熱田旧記といふものにいへるは尤附会の説とるにたらす」

 

相変わらず「奪衣婆」説には首肯し難いという感じですね。

「橋の神」から「宇治の橋姫」が連想されますし、そこから「恐女」が連想される、ということであれば、こうした伝説もわからないではないです……それよりは、何故に「橋の神」が「女神」なのか、というほうが面白いんですけれども(こっちも掘ったら掘ったで際限なさそうで……)。

ラストに49コマより、

 

「圓通寺
田島小路にあり補陀山といひて遠江国浜松普済寺の末寺也明徳二年権宮司田島家建立して普済寺の誓海和尚(府志には普済寺二祖大明禅師とす)を開山とす世に曹洞の法王派と称す禅堂の本尊薬師の像は霊仏也塔頭二員ありて陽谷軒瑞用軒といひしが今廃す鎮守弁才天秋葉社あり秋葉は殊に大社にて羽休の秋葉と称し世人尊崇す例祭十一月十六日十七日也籠堂もありて十六日の夜諸人籠て通夜す参詣尤多し又当社にて鉄火打を請れは火災の恐れなしとて人競て乞求む其火うちに羽休の文字を記せり」

 

やっぱり、火打の伝説は、「倭姫」から引っ張ってきたんじゃないかな、と思います。

 

 

 

まあ、とにかく情報が多いですわ……。

次は、どうしましょうか……。

不定期「熱田」考(4)

さて。

あ、テキストばかりですので苦手な方は回避してください。

 

◯こちら===>>>

久々「熱田神宮」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

「松姤社」「鈴之御前社」「姥堂」「裁断橋」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

「秋葉山円通寺」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りについて文献をあさってみます。

なにしろ「熱田神宮」なので、資料は膨大ですが。

まずは、いつも通り『尾張名所図会』からいってみようかと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑302ページより、今回は摂社に関して。

 

「摂社
一御前社 御本社の北にあり。祭神大伴武日命は、日本武尊東征の御供せし副将。[日本書紀]の景行紀に見えたり。
龍神祠 御本社の北にあり。祭神吉備武彦命にして、大伴武日命と同じき副将なり。
左王祠 御本社の東にあり。東国三十三箇国の諸神を祭り、左神祇社とも稱す。
右王祠 御本社の西にあり。西国三十三箇国の諸神を祭り、右神祇社とも稱す。
御田祠 鎮皇門の内にあり。祭神保食神。[延喜式]に御田神社、[本国帳]に従三位御田天神とある是なり。今宝田社とも稱す。
楠御前祠 右王祠の西にあり。祭神 伊弉諾伊弉冊尊。[神名帳]頭注に西伊弉諾尊とあるは、此神をいへるなるべし。今も神社なく古楠一株あるゆゑに號す。[大和本紀]に『熱田神劔入楠宮奉納』とありて、楠は当社に由緒ある樹木なり。俗に子安神と稱して、婦女の参詣殊に多し。
清水祠 龍神祠のうしろにあり。祭神罔象女神。傍に清泉湧出づる故社号とす。俗に御手洗と称し、又弘法の清水ともいふ。
内天神祠 海蔵門のうちにあり。祭神少彦名命にして、京都五條天神に同じ。孫
孫若御子祠 御田祠の西にあり。祭神は[続日本後紀]に「孫若御子熱田大神御兒神也』とありて、日本武尊の第七の皇子稚武彦王なり。瓊瓊杵尊応神天皇をも合せ祭れり。[延喜式]に孫若御子社(名神大)[本国帳]に従三位孫若御子天神と録せり。
乙子祠 御田祠の西にあり。祭神弟彦連は天火明命十四世の孫。[本国帳]に正二位乙子天神とある社なり。
今宮 孫若御子祠の西にあり。祭神藤原季範朝臣は、右大将頼朝公の外祖父にして、藤原公定が[十四巻系図]に、『藤原季兼康和三年十月七日。尾張国目代間卒。年五十八。其子季範熱田大宮司従四位下。依霊夢之告。外祖父閤一流子孫譲奥社官。久寿二年十二月二日卒。年六十六。』と記せる是なり。[大宮司系図]及び[玉葉集]にのする所も大むねこれに同じ。
土神祠 一御前祠の東にあり。[伊勢大神宮儀式帳]に度会郡山田の土宮祭神大年神・土御祖神・宇賀御魂神とあるに據るべきを、ここのは埴山媛命を祭る。
愛宕祠 右王祠の北にあり。
王若宮 神庫の北にあり。祭神 仁徳天皇
浅間祠 王若宮の北にあり。
山祇祠 土御祠の東にあり。
宇賀祠 浅間祠の北にあり。
金神祠 龍神社の西にあり。山田郡金神社を勧請せし社なるべし。今金山彦命を祭るといふ。
立田祠 御本社の東にあり。
二若宮宮 立田祠の南にあり。
賀茂祠 立田祠の北にあり。安居院の[神道集]の熱田大明神の條に大宮御宝殿の傍に、賀茂大明神の社ありて、或女無実の難にあひて、身の徒に成るべき事を歎き、其社に祈念しければ、夢幻ともなく賀茂の御神『我頼む人いたづらになしはてば又雲わけてのぼるばかりぞ』と御示現ありしが、其後事ゆゑなく、終に大宮司の妻となりて栄えるより記せり。此歌は[新古今]及び[袋草子]等其外の歌書どもに、只かもの御歌とのみ記したれば、山城の賀茂の御歌を皆人思へど、此[神道集]に確に其女が大宮司の妻になりなる由までを誌したれば、当社の摂社なる賀茂の御示現なりしこと疑ふべからず。
月宮 金神祠の西にあり。
赭祠 王若宮の北にあり。
稲荷祠 宝蔵の北にあり。
三輪祠・籠守祠・風祠・国霊祠・八王子祠・須原祠・雨祠・角宮・神明祠・油部屋祠・兒祠 以上十一社今廃す。其餘の二十四社を合せて三十五社は、総て御門内の摂社にして、是より末は皆御門外の末社なり。
外天神祠 鎮皇門の外にあり。祭神内天神に同じ。
姉子祠 海蔵門の外東西に二祠あり。祭神宮簀媛命貞治三年及び元亀二年の[本国帳]に従三位氷上姉子名神とあるは此社にて、彼大高村火上姉子神社と混すべからず。
今彦祠 同所東西に二祠あり。建稲種命を祭る。[本国帳]に正三位今孫名神とある是なり。
水向祠 同所東西に二祠あり。日本武尊の妾、穂積忍山宿禰の女、弟橘媛命を祭る。[本国帳]に正三位水向名神とある是なり。
日長神祠 同所東西に二祠あり。天照大神御魂神を祭る。天照御魂は、度会延佳が説によれば、則天火明命にして、尾張氏の祖神なり。
素盞烏祠 同所東西に二祠あり。[本国帳]に従一位素烏名神とある是なり。
青衾祠 同所東西に二祠あり。西を白衾とかけり。[本国帳]に正一位青衾名神としるせり。姉子祠以下を海蔵門外東西十二社と稱す。白衾社は田中町にあり。
山王祠 海蔵門外神厩の南にあり。」

 

ふう……

江戸時代末、境内外の摂社がこれだけあったということです。

図絵もありますので、ご確認のほどを。

廃絶したものも含めると、いろいろ謎の摂社が並んでいるのですが、元々の信仰に「牛頭天王」信仰が混ざってきているように思います(「八王子」や「籠守」(=「居森」)なんか)。

 

お次は、364ページから。

 

「補陀山圓通寺 田島小路の南の端にあり。曹洞宗遠江の普済寺末。明徳二年権宮司家建立して、浜松普済寺の誓海義本和尚を以て開山とす。
禅堂 本尊薬師仏なり。
鎮守辨財天社。
秋葉社 尤も大社にして、羽休秋葉と稱す。例祭十一月十六日十七日、参詣人群をなし、こもり堂もありて、十六日夜籠なすものも甚多し。又当社にて鉄火打を請けてこれを用ふれば、火災の恐なしとぞ。羽休の文字を其火うちにしるせり。」

 

やはり、元々の山号は「補陀山」だったようでs。

それで本尊が「薬師如来」なんですね……確か「薬師如来」って西方浄土で、補陀落浄土「観音菩薩」じゃなかったでしたっけ。

その意味で、現在、「十一面観音」を本尊としている(らしい)ほうが合っている、と思います。

ただ、「羽休秋葉」というのも結構な大社だったようで、図絵もあるのですが、そこを見ると本堂と「羽休秋葉」の大きさがさほど変わりません。

 

続いて、365ページ。

 

「南新宮天王社 御所の前町、清雪門のむかへにあり。天照大神素盞烏尊を祭る。毎年六月五日の大山車は、此社の神祭なり。末社居守社・八王子社、境内にあり。
御蘆御池はやしろの裏にあり。新宮坂は南の道筋にあり。みな此社によりたる名なり。
例祭 山鉾祭禮、熱田の内八箇所より、山一輌・車二輌を年番にて出す。大瀬子山出づる年に宿・今道・中瀬より車楽を出し、田中山出づる年には、市場・神戸より車楽を出す。大山休の年は、東脇・須賀より車楽のみ出すなり。寛弘年中男女悉く疫癘を悩む。所の者旗鉾を以て、天王の社にて疫神を祭りしが、其後文明年中、佐橋兵部といふ者祭式を定むといへり。大宮司家より太刀を贈り、又市馬町の橋下氏よりも太刀を贈るの故実あり。市馬車楽の伎童、葵御紋の衣裳を着す。東照神君より賜ふ所なり。又東脇車楽の幕は、慶長九年四月、台徳院殿の御台所崇源院君の御寄附、須賀車楽の幕は、東照神君の御伯母ど常滑君のご寄付なり。
大福田社 南新宮の南に隣れり。もと神宮寺の境内にありしを、元禄十六年ここにうつせり。熱田摂社七所の其一社にして、[本国帳]に大福田大菩薩とあるこれなり。朱雀院の御宇、相馬将門叛逆せしかば、追討使を下され、勅して熱田社に御祈願あり。神輿を星崎にふり出し奉りて祈祭す。故なくして忽神輿血に染みしが、将門其時刻に秀郷・貞盛が為に誅せらる。是大神の示し給へる先兆なり。然るに其輿地に汚れて、本宮に還座なしがたく、新に一祠を建てて是を収め、大福田社と號す。祭神は正哉吾勝命なり。
日割御子神社 大福田社の南隣にあり。熱田摂社七社の其一社なり。[延喜式]に愛智郡日割御子神社、[本国帳]に正二位日割御子天神と称し、[続日本後紀]に『承和二年十二月壬午尾張国日割御子神。孫若御子神。高座結御子神。惣三前奉預名神。並熱田大神御兒神也』と見え、[神名帳]頭注に『尾張国年魚市郡日割御子日本武五男武鼓王也』としるせり。
境内南の方に氷上神社遥拝所の鳥居あり。本社は知多郡大高村にあり。」

 

「南新宮社」の記事は、

 

◯こちら===>>>

「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「津島神社」の祭礼「御蘆流し」に関係していそうな話ですし、まあ距離的に近いので、「津島神社」系「牛頭天王」なのでしょう。

「大福田社」は……今回参拝したのかな……。

「日割御子神社」は、現在地なのかどうなのか……。

うむ、わからんことだらけ。

 

まだ続いて、371ページから、

 

正一位劔神社 本社の南三丁にありて、日割御子社の西に当れり。即下の宮と称し、熱田摂社七所の一社なり。[延喜式]に八劔神社と見え、[本国帳]に正一位八劔大名神としるせり。和銅元年(略)九月九日(略)の御鎮座にして、多治見真人池守・安倍朝臣(略)を勅使とし、新造の宝劔を納め給ひて八劔宮と称し奉り、別宮として年中の祭祀本社のごとしと、[熱田正縁起]に見えたり。
本社 祭神十座。神秘にして其何れの神たる事をしらず、故に謹んで私意を加へず。細川玄旨の[東国陣道記]に熱田に居陣、社務惣検校の家にとまりけるに、あるじ又社僧法蔵坊出でられて雑談の次、当社の八劔宮は、日本武尊たるよし物語ありて(略)
末社八子社 本社の西にあり。八子・八口同調にて、[延喜式]に、出雲国大原郡八口(やこ)神社と同例の神なるべし。其国の杵築社記に、大原郡斐伊郷中簸川辺に杉八本ありて蛇頭(をろちのかしら)を祭り、仁田郡尾原村に蛇尾(をろちのを)を祭りて、石壺大明神と號するよりいへり。其八口神社は此蛇頭なるべし。[日本紀]に『有大蛇頭尾各有八岐云々。斬其蛇云々。覗之中有一剣。此所謂草薙剣也』とある合せ考ふれば、八口といへるは頭に八岐あるの義、八剣とは、尾に八岐あるを表せしなるべければ、ここに八子の社を建てしも故ある事なり。
徹社(とほすのやしろ) 八子社の南にあり。建御名方命を祭れり。[延久元年記]に水内明神とある是なり。其外住吉社・春日社・霧社・八幡社等東西にあり。」

 

そういえば、別宮「八剣社」について、過去の文章をきちんと読んだのは始めてだな……今では境内にあるのは、「えびすだいこく」で、他の摂社は廃絶したのか……あいや「えびすだいこく」は「上知我麻神社」の摂社か……。

こちらも図絵ありますので確認を。

 

380ページに、

 

「松姤神社 同町にあり。建稲種命を祭る。もと命の陵墓なりしを、のち神社とすといへり。」

 

 

……なるほど、何か盛り上がっていると思ったら、どうも古墳だったらしいと……でもいつまでそうだったかはわかりませんし、しかも「建稲種命」の陵墓だったかどうかは怪しい……「建稲種命」といえば、記紀神話にも登場するような古代尾張の大物ですから、陵墓ももっと大きかったんじゃないかと思うのです。

うーむ、謎。

 

まだまだ387ページ、

 

「鈴御前社 正覚寺の東にあり。祭神天鈿女命。六月晦日の夏越の祓は大宮の祭なるが、此社の川岸にて修する故、人々当社の祭事の如くおもへり。則熱田社人一統爰に出て茅の輪を餝り、五串に五色の幣をさし、各汀の蘆の葉に白木綿つけて解除す。奇観にして、見物するもの羣をなせり。又此夜伝馬町宿・今道等の家々には、数多の作物をなして大なる賑合なり。」

 

なるほど、「鈴之御前社」は、「天鈿女命」を御祭神にしていましたか……。

 

続いて、

 

「裁断橋 伝馬町の東、精進川に渡せる橋なり。今さんだが橋ともよべり。むかし此所に裁断所ありて、政務を行ひし故名づくとも、或はさうづが橋の転じてさんだとなりたるかともいひ、精進川は彼夏越の祓するより起れる名なりといへるはさもあるべし。又[日本霊異記]及び旧本の[今昔物語]にのせたる尾張宿禰久玖利、聖武天皇の御宇、中島郡の太領にて、其妻は愛智群片◼︎里の出生、道場法師の孫なるが、夫に従ひ従順にして、又女工に精しく、よき絹を織り夫にきせける。時の国司若桜部某、其絹の美しきを見て太領に所望し、乞取りて返さず、其妻夫に向ひ、其絹を惜しとおもひ給ふやと問ふに、久玖利甚をししと答へければ、さあらば我取りかへさんといひつつ、国司が館に行きて、強く衣を返されよとこふ。国司怒りて、下人に命じ追出さんとすれども女動かず。はてには国司が居れる床を両手にもち、さし上げて国司をのせながら、門外へ持出で乞ひければ、国司おぢ恐れて衣をかへしつ。扨太領が父母、国司の怒り怨む事を恐れて、其妻を離別させければ、女舊里に帰りけり。或時女草津川にて衣を洗ひけるに、商人ども大船に物つみて漕行くとて、此女を見て嘲哢するを、女黙してありけるが、餘り煩はしければ、我を犯さんとせばしや面打たんといふ。商人怒りて女をうたんとす。女船にとりつき、水より上へ半町ばかり引き揚げぬ。船主せんかたなく、あたりの人を雇ひ、荷物をおろし船を水に浮べ、荷をのせ去らんとす。其時女、禮なきが故にかくしつるを、何故に雇はれ助くるぞといひさま、今度は其船を陸地へ一町許引きあげて置きければ、船中の人々こぞりて嘆嗟し、恐れわびけるにぞ、女心やはらぎ、宥して船を押戻し、水に浮かべてけり。其女が力を試んとて、此船を五百人押さしめけるに、終にうごかざりしよし見えたり。さて草津川とあれば、僧都川・三途川などの音訓草津川に通へば、其◼︎をここに挙げて童稚の一奇観に備ふるのみ。又欄干の擬宝珠に、漢文と仮名文字の銘彫付けたり。其銘に曰く、

熱田宮裁断橋。右檀那意趣者。堀尾金助公、去天正十八年六月十八日。於相州小田原陣中逝去。其の法名號逸岩世俊禅定門也。慈母哀憐餘。修造此橋。以充三十三年忌普同供養之儀矣。

と。此名に依りて見れば、裁断橋と書きしにや。又

てんしやう十八ねん二月十八日におだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじゃうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人念佛申したまへや、三十三年のくやうなり。

と斯くかなにて彫付けしは、不学の人にたよりする老母の心中、見るにつけてもいと哀なり。

姥堂 裁断橋の西詰南側にあり。時宗、亀井山圓福寺の末派なり。堂中安阿弥作の奪衣婆の坐像を安置す。いはゆる三途川の姨子是なり。又[熱田旧記]に、永禄の比、幸順僧都といへる沙門、此川を歩行渡せしに、折ふし水高ければ、過つて溺死せり。故に僧都川と呼初めしよし。其比此辺に貪欲の老婆ありて、彼僧の衣類をも剥取りしに、老婆程なく命終せしが、慾心深き老婆なれば、霊魂よなよな此あたりをさまよひけるに、其縁類是を憐み、罪障消滅の為、三途川の姥の像を安置すともいへり。」

 

「裁断橋」と「姥堂」について。

日本霊異記』『今昔物語』ともにお話なのですが、何かに取材した結果生まれたお話、の可能性があるわけで。

「奪衣婆」の属性と、「尾張宿禰久玖利の女」の属性が、ともに「衣をとる」だというのがちょっと面白いですよね……もともと「姥堂」の姥像が、「尾張宿禰久玖利の女」だったのが、いつのまにか「奪衣婆」になっちゃった……てなことは多分ないと思います、はい。

にしても、「奪衣婆」だけを祀る、というのも聞いたことないですよね……普通、「十王堂」の中に、「懸衣翁」と一緒にいる、くらいだと思います。

次回は別の文献を〜。

 

「秋葉山円通寺」(名古屋市熱田区)

1/28。

姥堂」から「熱田神宮」方面へ戻りつつ、そういえば気になっていた寺院があったのを思い出しました。

「補陀山円通寺です。

 

◯こちら===>>>
http://www.akibasan.or.jp

 

……と思ったら、公式HPでは秋葉山になっていました。

 

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一応、境内の案内板には「補陀山」とあるんですよね……ああ、御本尊によって山号が異なるのでしょうか(?)。

 

「補陀山圓通寺
十一面観世音菩薩
創立 弘法大師空海 弘仁年間(西暦八一〇年頃)
開山 勅特賜大明◼︎◼︎誓海義本 明徳二年(西暦一三九一年頃)
開基 尾張氏 現在田島氏」

 

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こちら本堂……というか、観音堂でしょうか。

 

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屋外に「毘沙門天」像と、香炉を支えるのは邪鬼か夜叉か。

 

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自然石の風合いを活かした(んだと思う)石灯籠。

 

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「子持石」だそうです。

 

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こちらが、「秋葉三尺坊大権現」のお堂。

 

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「秋葉さん」なので、もちろん羽団扇。

 

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おっと、扁額も「秋葉山」でした……。

途切れなく参拝のかたがいらっしゃる感じ、さすがまだ1月といったところでしょうか。

 

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「日本最古の秋葉大権現出現の霊地
秋葉大権現(火の神様) 今より千八百年程前日本武尊を火難よりお救いになった秋葉大権現は「火防守護 諸難消滅 心願成就」の大誓願をもって日本で始めてこの地に「秋葉神社」として尾張氏により祀られる(後の圓通寺)
弘法大師弘仁二年約千二百年前)熱田神宮参籠の折秋葉出現の霊◼︎に自刻の十一面観音を奉納
穣災道場(災を除く) 六百年程前(永享年間)時の朝廷より大明禅師号と穣災道場の勅旨を授けられた誓海義本大和尚(現圓通寺開山)の徳風を慕って群集せる修業僧の中に秋葉三尺坊(秋葉大権現の化身)が弟子入りし十有余年ついに旧暦十一月十六日夜半大明禅師より佛法の奥義を授けられる、この時始めて狗賓の正身(天狗僧形の本体)を現され感謝の余り「鎮防火燭」の秘呪と護符(お札)を奉って永劫に守護する誓いを立てられた
七十五神 秋葉大権現の分身として活躍される七十五神大眷属が祀られている
「秋葉出現道場」の大額は小松宮より明治三十一年七月賜る(以下略)」

 

うーむ……この書き方ですと、「日本武尊」の火難がこの辺りでもあって、それを取り除いたのはどうやら草薙の剣ではないらしく、後世の秋葉大権現(天狗)で、わざわざ修行して仏法を修めた、と。

「天狗」という言葉自体は大陸からの由来で、ほら、あれ、「二郎神君」が連れているという犬のことだったり、日本では「アマツキツネ」と読んで、どうやら彗星(尾が狐のしっぽに似ていたんでしょうか)のことのようで。

掘ればいろいろ出てくるのですが、ひとまずは……あ、でも「七十五神」って気になりますよね……「八百八狸」には負けてますけど……ってこのフレーズどこかでも書いたような気がするな……。

 

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屋根の上には、烏天狗っぽいお方が。

 

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本堂向かって右手にあるのは、大黒堂です。
天水桶にも羽団扇と輪宝。
なんか、久々のお寺だな……。

 

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寺標。

 

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こちら、外塀の上には狛犬さんが。
もちろん、いたるところに羽団扇。

 

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二つのお堂の遠景です。

 

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こちら入り口……あれ禅宗なんですね……。

 

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御朱印〜。

1月は、書かれたものを頒布されているそうです。

 

 

さて、熱田については、また次回、何かしら書こうかと思います〜。

「松姤社」「鈴之御前社」「姥堂」「裁断橋」(名古屋市熱田区)

1/28。
熱田神宮」を出て、周辺をぐるぐる歩いてみよう、ということで、参道正面の道を南へ。

 

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こちら、「蔵福寺の銅鐘」の案内板ですが、高くて読めない……。

ちなみに、「ひつまぶし」などのうなぎ料理で有名な、あそこの向かいあたりに立っています。

 

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大きな通りに出たところで、東に折れてしばらく行きますと、見逃しそうなポイントに「松姤社」があります。

社標にはしっかり「熱田神宮摂社」とあります。

 

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鳥居を潜って、行き止まりを左に向くと、社があります。

 

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ちょっと高いところにあります。

 

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その左手付近にあった祠。

案内板も何もないなぁ……。

 

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「松姤社」の鳥居まで戻り、そのまま大通りを東南方面へ進んでいくと、住宅街の中に「鈴之御前社」があります。

 

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こちら拝殿……というのか。

 

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本殿。

 

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うーんと……御神木かな……。

 

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お猫様に遭遇。

こちらも、案内板などはありませんでした。

 

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そこから遠くないところにあるのが、姥堂「裁断橋跡」です。

えらく近代化されているのでちょっと驚きました。

 

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「裁断橋跡
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。」

 

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橋址の標。

断が旧字体

 

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こちらは「都々逸発祥之地」の標。

その案内はないのか……。

 

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おっと、「姥堂」の解説がありました。

 

「延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに消失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。」

 

「裁断橋」のもありますね。

 

「文献では永正六年(一五〇九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚だしくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」

 

……その肝心の銘文というのは、ひょっとして「裁断橋」を渡った先の扉の中でしょうか?

「圓福寺」というのは、「熱田神宮」近くにある寺院ですね……。

 

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姥堂」に上がってみました。

普段は、寺院の中を撮影するのは遠慮するのですが、ここまで透けていればよかろうと思いまして。

とはいえ、ご本尊(?)の姿はよく見えませんが。

 

 

 

うむ、なんとなく中途半端な感じですが……本日はここまでで。