べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「松姤社」「鈴之御前社」「姥堂」「裁断橋」(名古屋市熱田区)

1/28。
熱田神宮」を出て、周辺をぐるぐる歩いてみよう、ということで、参道正面の道を南へ。

 

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こちら、「蔵福寺の銅鐘」の案内板ですが、高くて読めない……。

ちなみに、「ひつまぶし」などのうなぎ料理で有名な、あそこの向かいあたりに立っています。

 

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大きな通りに出たところで、東に折れてしばらく行きますと、見逃しそうなポイントに「松姤社」があります。

社標にはしっかり「熱田神宮摂社」とあります。

 

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鳥居を潜って、行き止まりを左に向くと、社があります。

 

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ちょっと高いところにあります。

 

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その左手付近にあった祠。

案内板も何もないなぁ……。

 

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「松姤社」の鳥居まで戻り、そのまま大通りを東南方面へ進んでいくと、住宅街の中に「鈴之御前社」があります。

 

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こちら拝殿……というのか。

 

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本殿。

 

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うーんと……御神木かな……。

 

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お猫様に遭遇。

こちらも、案内板などはありませんでした。

 

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そこから遠くないところにあるのが、姥堂「裁断橋跡」です。

えらく近代化されているのでちょっと驚きました。

 

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「裁断橋跡
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。」

 

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橋址の標。

断が旧字体

 

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こちらは「都々逸発祥之地」の標。

その案内はないのか……。

 

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おっと、「姥堂」の解説がありました。

 

「延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに消失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。」

 

「裁断橋」のもありますね。

 

「文献では永正六年(一五〇九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚だしくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」

 

……その肝心の銘文というのは、ひょっとして「裁断橋」を渡った先の扉の中でしょうか?

「圓福寺」というのは、「熱田神宮」近くにある寺院ですね……。

 

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姥堂」に上がってみました。

普段は、寺院の中を撮影するのは遠慮するのですが、ここまで透けていればよかろうと思いまして。

とはいえ、ご本尊(?)の姿はよく見えませんが。

 

 

 

うむ、なんとなく中途半端な感じですが……本日はここまでで。

近況〜今月の「三輪神社」(名古屋市中区)

11/3。

文化の日

まだ1月の記事を書いておりますね……多分、次の初詣の記事が再来年になると思います……いえ、今年ほど頑張って巡るつもりはないのですけれど。

とりあえず、江南市に出かけてみたのですが、コインパーキングが少なすぎて、神社仏閣を巡りづらい。

こりゃ電車で移動するか、いよいよ折り畳み自転車を購入して車に積みますか……。

そちらはそちらとして、月参りのように、大須「三輪神社」に出かけています。

限定の御朱印がいただけるもので……(費用は、社殿修繕に使っていただけるそうです)。

 

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七五三の祈祷を受けておられるご家族がいらっしゃいました。

ほんのり紅葉が始まって……そうか、超いい天気だったからもっと遠出をすればよかったのか……。

 

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本日のおウサギさん。

 

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11月は限定御朱印がたくさん。

文化の日限定の御朱印もありました。

11月の通常御朱印をいただいていないので、また行かねば(御朱印帖も購入しないと……)。

 

というわけで、地道にネタはたまっているのですが、時間が……あと体調が……あとギターの練習が……。

言い訳してみました。

久々「熱田神宮」(名古屋市熱田区)

1/29。

忘れていたわけじゃないのです。

というわけで、熱田神宮へご参拝。

 

◯こちら===>>>

「熱田神宮」「別宮八剣宮」「上知我麻神社」 - べにーのGinger Booker Club

不定期「熱田考」(1) - べにーのGinger Booker Club

不定期「熱田考」(2) - べにーのGinger Booker Club

ふらっと「熱田」詣+「金刀比羅社」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑熱田絡みの過去記事です。

 

 

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よく晴れた日でした。

まだ一月だからか、参拝客はもりだくさん。

 

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鳥居。

 

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本殿……の写真は、あちこちで確認していただいて、境内摂社を巡ってみました(地元なので、ついうっちゃっておいたのですよね……)。

参道右手側に並ぶ摂社。

 

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「楠御前社」

 

「祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
安産や縁結び並びに病気平癒の神様として、俗に「子安神」「お楠さま」と称されている。江戸時代中期の熱田社問答雑録に「社の神也、古楠樹を主とす」とあり、社殿がなく瑞垣の内に楠の神木が祀られている。」

 

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参道から外れて、向かって右手の方へ行きますと、人があまりいないゾーンに。

「南新宮社」です。

 

「祭神 素戔嗚命
社殿は当神宮唯一の朱塗りである。当社の例祭は古来大山祭・天王祭・祇園祭等と称していた。その起源は平安時代中期に疫病が流行して、近隣の人々が旗鉾を捧げて当社に疫神を祀ったのを始めとする。その後、この旗鉾を活用して大山や車楽の運行を始めたが、明治に入り電線が架けられるようになり廃止された。」

 

電線……。

 

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そばの社……人が多かったらしく、近くで写真を撮ってないなぁ……社の名前が見えません(いかんいかん)。

 

 

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こちら、「清雪門」です。

 

「本宮の北門と伝えられ俗に「不開門(あかずのもん)といって堅く閉ざされている。天智天皇七年(六六八)故あって皇居に留まられた神剣が朱鳥元年(六八六)再び当神宮に納められた折 二度と御動座なきよう門を閉ざしたという故事による。」

 

もともと「熱田神宮」は、「草薙剣」を御神体としていたのかどうかはよくわかりませんが、『古事記』『日本書紀』が成立した頃には、「草薙剣」が「熱田神宮」にあることは知られていました。

日本武尊」の佩剣が、一度は天皇の元に届けられて、宮中に止まっていたのですが、天皇に祟ったのですね。

で、「熱田神宮」に戻ってきた、と。

祟りが強いのは神威が強い証拠でもあります。

一方で、それでもなお天皇家は絶えていない、ということは、神器(の背後にある勢力)と天皇家は、緊張関係にありながらも天皇家の方が優勢だったのでしょう。
じゃなきゃ、どっちか失われています。

この辺り、何かあるのか、ないのか……いやあったんでしょうが、推測と妄想しか存在しない時代の話になってしまうので……(そんなことしか書いてませんが)。

 

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猫、逃げる。

 

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熱田神宮」正面の駐車場の東側にひっそり、「孫若御子(ひこわかみこ)神社」が佇んでいます。

 

「祭神 天火明命
祭神の天火明命尾張氏の始祖であり、天照国照火明命、天照玉命とも称される。
明治初年に海蔵門内の西側に鎮座していたのをこの地に遷座した。ほあかりとは、ほが赤くなるという意味で稲穂への尊称といわれている。」

 

熱田神宮」を最初に祀ったのは、伝説では「宮簀媛」で、彼女は尾張氏の長・「建稲種命」の妹姫でした。

祖先を祀るのは当然なのですが、その祖先がずっと「天火明命」だったかどうかはよくわかりません。

氏族の伝承が整理され、『古事記』『日本書紀』にまとめられるような時代になると、そういった伝承になっていったのでしょう。

ちょっと端っこに寄せられすぎ、な感じがしますけれども……ここに明治政府の陰謀を感じ取ることができたなら、あなたも立派な妄想家。

 

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さらに端っこの「日割御子神社」。

 

「日割御子神
祭神 天忍穂耳命
この地は、太古水際に張り出た洲崎の名残で干崎(ひさき)といわれていた 記録によれば 古くは日破明神と称され 江戸時代初期の慶長年間には堀尾吉晴松江城初代城主)が当社の造営を行っている。」

 

熱田神宮」周辺が、ある時期までは水辺だったり、海が近かったり、ということはよく知られています。

江戸時代、東海道の宮宿と桑名宿には渡し船がありました。

ということは、縄文海進の頃にはもっと内陸部まで海だった可能性があり、このような地名が残っていたというのもうなずけます。

にしても当て字が……この当て字で、御祭神が「天忍穂耳命」(「天照大神」の御子神)ですからね……ここに何らかの陰謀を見出すことができたら、ぜひ私にも教えてください。

 

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本殿はとってこなかったのに、別宮「八劍社」の写真はある、と。

 

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そして、なぜか「上知我麻神社」は案内板のみ、という……。

 

◯こちら===>>>

「星宮社」(名古屋市南区) - べにーのGinger Booker Club

「星宮社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「上知我麻神社」に関してはこんな過去記事も〜。

 

 

御朱印

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「別宮八剣宮」「上知我麻神社」は見開きでいただきました。

 

では、しばらく熱田周辺をぐるぐるした記事が続きます〜。

「那古野神社」(再)(名古屋市中区)

1/22。

「名古屋東照宮」まできたのに、「那古野神社」にお参りしないわけにはまいりますまいて。

 

◯こちら===>>>

「那古野神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。
むっきむき。

 

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摂社「福寿稲荷社」。

 

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拝殿。

 

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手水鉢。

 

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摂社「金山神社」の狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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参道から拝殿正面。

 

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参道鳥居近くの狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

御朱印は、御神職不在ということでいただいておりませんです(以前は、豪快なのをいただきました)。


さて。

今回も少々引用をしてみましょうか。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』の「社寺編」からいってみましょう。

31ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「一 那古野神社
那古野神社は西区上長者町一丁目の西側に在り、西部において東照宮と境を接す、(略)、旧天王社(又は亀尾天王社)と称し、城内三之丸(今の第三師団司令部の東部)に在り、尾張志、名所図会等に当社縁起を引きて、延喜十一年三月十六日、勅によりて此地に鎮座せし由を記す、天文元年三月十一日、那古野合戦(織田信秀那古野城今川氏豊との戦争)の兵火に焼失し、同八年再営す、慶長十五年築城の時、当社廊内となれるを以て、之を外に移さんとす、家康往昔の恵報を思ひ、神鬮によりて神慮を定めしむ、即ち神鬮を取る両三度、遂に遷移のの鬮無し、家康愈、敬粛し、神祠を旧地に安んじて奉斎せしむ、義直(敬公)また恭順最も渥く、寛永六年、社僧堯養に命じて重修せしむ、明暦二年、光義(二世光友)修営を加へ、太刀、馬を献す、(略)、明治維新の際、須佐之男社と改め、同五年郷社に列す、同九年十月五日今の地(もとの明倫堂の地)に遷座あり、十一月七日懸社に昇格す、三十二年七月八日、那古野神社と改号し、三十五年より神輿渡御を始む、(略)
祭神、中扉は素戔嗚尊奇稲田姫命、左扉は兵主神、右扉は八柱神(もと八王子と云ふ)なりもとは三神殿に別々に在せしを、(略)、明治五年に一社に集めたり、本国帳の愛知郡従一位素戔嗚名神は此神にして、熱田の末社なる素戔嗚社は、当社の遥拝所なるべしとの説あり(略)、天野信景は集説に義直(敬公)が寛永六年に、当社の梁牌を画せし時、素戔烏神社としたるは故ある可しと述べたり。
神殿は神明造にして、南面す、明治九年の再建なり、拝殿は三之丸鎮座の建物を徒す、瑞籬、中門、御供所、宝殿、神楽所、社務所等あり、境内神社七所存す、(略)古へ六月十五日の夜試楽あり、十六日また車楽、朝祭を行ふ、現今は七月十六日午前に神事ありて、午後神輿二基、若宮八幡社へ幸す、此事明治三十五年七月より始まる(略)
別当を安養寺と云ふ、俗に天王坊と稱す、塔頭は常林坊、南坊、西坊の三坊ありしが、神仏分離の際に廃寺となる(略)
史料
天王社廓内神社(南向)拝殿 鳥居 門(南向)
八王子(西) 兵主社(東)
末社彌五郎殿社 白山社 日宮 月宮
本地堂(西向) 安薬師
(略)
寛永六己巳年、前大納言義直卿、命法印堯養天王坊十二世修造本殿及八王子社、新建兵主明神祠於本殿東、十一月十六日、本殿遷宮、津島祠神主紀長俊奉命行之、六月十六日祭礼、車楽二輌称祇園会、今日府南若宮神輿一基臨幸于当社、神主供奉(略)
源敬公再建梁牌書素戔烏尊神社、此神詞名古屋市氏神也和俗其土地所有之神社、是称氏神、是土人始祖神之義乎
(東)兵主太神宮 兵頭神、祭神不詳、俗称弓矢神、(略)
(西)八王子 素戔烏尊之子、五男三女神祭之(以下略)」

 

境内社が、以前も今回もちゃんと撮影できておらず……これはいけない、また行ってこなければ。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』の「名古屋」編も見てみましょう。

2ページからです。

前半は、いくつかの文献の引用が細かくされており、くじを引いて神意を問い、それによって「牛頭天王」は遷らずに名古屋城の守護神となったこと、『旧話略』という文献には、「徳川家康」が幼い頃にこの辺りで遊覧したとなっているけれども、他の文献から織田の人質になって「天王坊」に押し込められたらしいこと、「牛頭天王」を遷さなかったのはそのためではないか、といったことが書かれています。

 

「本社
(略)祭神素戔烏尊也寛永六年十一月源敬公御造建の棟札に素戔烏尊神社とかかせ給へりしは本国神名帳の愛智郡のうちに従一位素戔烏尊名神とあるを此社の事也とおぼしめして◼︎か遊ばされけむさるゆゑは天野信景か本国帳集説のこの牛頭天王の條に我敬公再建梁牌書素戔烏尊神社(略)とかきしも此天王の社は本国帳の素戔烏名神なるへしと敬公思召◼︎ゑありてかくかかせ給ひしにやと信景か◼︎し◼︎かりし也 さてその熱田所摂六社中とあるは元禄宝永の頃撰る熱田尊命記集説熱田社問答雑録なといへる書に海蔵門外の東西六社のうちに従一位素戔烏神社と記し又延宝六年に書る厚見草に海蔵門の外云々南の方に六坐の神を祭奉る姉子今彦氷向素戔烏日長青衾也みな西向にたつ北を上とす是を東の六社と云 何れも社はなく石を■るしとすと見え 木下寶聞◼︎が厚見草付録に是等の神社元禄六年造替也と書しを見ればもと荒廃して社はなく◼︎るしの石ばかりありしを元禄六年造建ありしほとの微々たる小社なり 扠熱田鎮坐記といふものに内之遥拝所七社外之遥拝所五社といふ事見えたり 熱田の部にくはしくいふへし是則今の東西六社にてもと遥拝所なるべけれは 本社とおもへるは誤なるべし されは本国帳の名神大社を引当て是也といはんはいかかあり すべて神名式本国帳に載せし神社のとくうせて在處定かならぬを今案をもてそれ彼なと引当定めん事はおほろけならぬかたきわさなれはいはてやむへき 本意なれとかく微々たるを熱田六社の中なるをそれと定めんよりは源敬公のおほしめ◼︎に随ひ奉り信景が意によりこの三の丸天王社を素戔烏名神社とあがめ奉らまほしき事なりけり (略) 摂社 八王子社(略) 兵主社(本社東の方 以上二社は源敬公御建立にて寛永六年己巳十一月十六日あらたに祠を建つ) 稲荷社(略) 日神社 月神社(略) 弥五郎社 白山社(略) 銀杏樹(拝殿の西の方にありてたぐひ少き大樹なり嫉妬の女此社にまうでて此樹に釘を打人を呪詛せし事ありし故瑞龍院君の御はからひにて樹のめぐりに垣■ひまはして今◼︎木のもとへ人のよるとなし) (略)宮寺 亀尾山安養寺俗に天王坊と稱す真言宗にて仁和寺明王院を兼帯す開山は恵日国師伊勢国多藝郡長松山安養寺と同法◼︎也其始祖恵日国師の法嗣大恵禅師みづから平等と号し諡を仏通といふ兼学密の法◼︎今に相承せり(略)」

 

半分くらいは「熱田神宮」の記事になっていますが、「熱田神宮」にある小さな社は、元々は遥拝所なのだから、延喜式神名帳名神大社とされている「素戔烏名神」が「熱田神宮」の東六社なはずがなかろう、といった内容です。

 

「寛永六己巳年、前大納言義直卿、命法印堯養天王坊十二世修造本殿及八王子社、新建兵主明神祠於本殿東、十一月十六日、本殿遷宮、津島祠神主紀長俊奉命行之、六月十六日祭礼、車楽二輌称祇園会、今日府南若宮神輿一基臨幸于当社、神主供奉」

「摂社 八王子社(略) 兵主社(本社東の方 以上二社は源敬公御建立にて寛永六年己巳十一月十六日あらたに祠を建つ)」

 

それにしても、「徳川義直」は何を持って「兵主社」を造営したのでしょうね……「津島神社」にならって「八王子社」「弥五郎殿社」というのはわからないでもないですが……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑順番がなんかいつもと逆ですが、『尾張名所図会』から。

28ページです、

 

「亀尾天王社
御宮の東隣に鎮座。醍醐天皇の延喜十一年三月十六日、勅によりて此地に鎮座ありし由、当社縁起に見えたり。天文元年三月十一日、那古野合戦の兵火に焼亡せしかば、同八年再び造立す。慶長十五年御城御営築の時、御郭内になりし故、他に遷されむとの議定ありしかど、神慮はかりがたかりければ、神君の思召にて、神前にて御鬮をとりしに、他に遷り給はじとの御鬮再三下りし上、往昔、神君御若年の時、此天王坊に三年ばかりが程おはしませし其御したしみにより、終に外へは遷地なくしてやみぬ。かくて御城擁護の鎮守、府下の氏神といはひ祭れり。(略)
本社 南向。祭神素戔烏尊。
拝殿 (略)
中門
瑞籬
御供所
宝蔵
御井
鳥居
摂社 八王子社は本社の右、兵主社は本社の左にあり。寛永六年己巳十一月十六日、源敬公新に御造営なり。瑞籬の外の末社は稲荷社・日神社・月神社・弥五郎社・白山社等、皆本社の右にあり。
神木公孫樹 拝殿の西にあり。昔嫉妬の婦人咒詛せし爲、屡この樹に釘を打ちし事の有りし事の有りしかば、国君の御計ひにて、寛文十二年樹の巡に柵ゆひまはせしより後、木の本へ人の寄ること能はず。(以下略)」

 

「銀杏樹(拝殿の西の方にありてたぐひ少き大樹なり嫉妬の女此社にまうでて此樹に釘を打人を呪詛せし事ありし故瑞龍院君の御はからひにて樹のめぐりに垣■ひまはして今◼︎木のもとへ人のよるとなし)」

「神木公孫樹 拝殿の西にあり。昔嫉妬の婦人咒詛せし爲、屡この樹に釘を打ちし事の有りし事の有りしかば、国君の御計ひにて、寛文十二年樹の巡に柵ゆひまはせしより後、木の本へ人の寄ること能はず。」

 

尾張志』、『尾張名所図会』ともに、「丑の刻参り」の標的(?)となったイチョウのことが書かれていますが、もう今はないのかな……そうか、遷座したときに一緒に移さなかったのかもしれないですね……確認してこなければ。

宿題が増えた1月も終盤の神社巡りでした〜(尾張徳川家の勉強とか、しないとですね……最近ようやく、附家老というのがあったらしい、ということを覚えました)。

「名古屋東照宮」(再)(名古屋市中区)

1/22。

大須を後にして、最近お参りしていなかった「名古屋東照宮へ。

 

◯こちら===>>>

「名古屋東照宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

以前の記事です。

 

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拝殿。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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「福神社」。

 

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御朱印は、「名古屋東照宮」と「福神社」、見開きで押していただけます。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑前回の記事ではまだ引用などはしていなかったので、『尾張名所図会』から参りましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

20ページです。

 

東照宮御宮
御郭内の三の丸に御鎮座。国祖源敬公、大僧正天海(号南光坊)を請待し給ひ、元和五年己未九月十七日、此御宮を創建し給ひて、中央に贈太政大臣正一位朝臣家康公の御神像を安置し奉り、左に山王権現、右に日光権現を配享し給へり。

御本社(南向)・祭文殿・渡殿・中門・瑞垣・御供所・鐘楼・神輿殿・御宝蔵・御井・鳥居・楼門、何れも善美を盡し、或は朱粉丹青を施し、又は金銀銅鉄を鏤め、荘厳の美麗いふばかりなし。
御本地堂 薬師及び脇士・三菩薩・十二神将・四天王の像を安置す。
護摩堂 不動及び四天の木像・十二天の画像を安置す。
御神宝 御太刀三口、国行・正恒・宗近。又歌仙の色紙三十六枚は、青蓮院法親王の御筆なり。又牛玉一顆あり。其外数多あれども枚挙に遑あらねばここに略す。(略)」

 

遷宮前、三の丸にあった頃の記事ですので、今の様子とはまったく異なっています。

「牛玉一顆」が何かよくわからず、「牛王宝印」のことかとも思いましたが、「顆」って首飾りなんかを数えるときの単位ですよね……何かしら、勾玉的なものなのか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見ておきましょうか。

2巻の「名古屋」編です。

 

東照宮
太政大臣正一位源家康公の霊を御曲輪のうち三の丸に御鎮座なし奉れる御社なり 元和五年己未九月十七日義直卿大僧正天海を(号南光坊)請してともに議し給ひ日光山御鎮座の儀式に準じ此御社を創建し中央に東照宮の神像を安置し奉り左に日吉大神(山王権現と申す)右に日光権現を配せ享り給へり (別当神宮寺記に東照三所大権現同殿三坐中東照宮山王権現摩多羅神也云々元和三年丁巳二月廿一日詔賜東照大権現神号同年三月九日贈正一位四月十七日遷尊骸於日光山新殿大僧正天海以山王一実神道両部習合規則神霊鎮坐此時勧請山王権現摩多羅神同殿鎮坐号東照三所権現云々と記してかく東照三所大権現なと連称して此三座をすべて東照宮と申奉るよしに書しはひが事也 御当家御草創の御事蹟を書るふみともにみな元和三年二月廿一日家康公尊霊に東照大権現の神号を勅賜し給ひ正保二年十一月三日宮号を贈り給ひしよし記して日吉摩多羅神等に東照の号を勅許したまひし事さらにある事なし 天海僧正両部習合を主とし日吉社神道秘密記等のこころにより両神を同殿に合せ祭れるのみなれは御合殿の神と稱すべくかく東照三所権現なとは連称しかたし まして正保に宮号勅許のうへは権現と称すべき儀はあるへからす 此神宮寺記は元和御鎮坐の年より百年はかりの後 元禄十二年十二月書るものなる故かく伝へあやまりしなるへし 又同記に云或説に山王権現右日吉権現云々謹按此説敢而難信用凡東照宮鎮坐以日光爲根本然日光山御宮嘗慈眼大師奉大樹鈞命以山王権現摩多羅神鎮坐于東照宮左右云々武州紅葉山東叡山駿州久能山参州瀧山寺鳳来寺山門坂本金地院等皆御神体同日光山御宮而所以日光権現無安于右と見えて日光山を◼︎しめ諸国の御宮御合殿の右の方はみな摩多羅神なるよしに■るせり さて摩多羅神の事は神社考詳節に伝教大師以天竺金毘羅神(一名摩多羅神)爲素盞嗚尊号曰山王以爲日吉神体と■るして金毘羅摩多羅同神なるよしに見え日吉社神道秘密記に山王者三国名山之守護故号山王天竺霊鷲山之鎮守山王権現云々鷲峯守護神金毘羅神(三輪明神此也)云々と見えて山王権現金毘羅神摩多羅神皆混一して同神なるよしに記せり しかれは御合殿には只日吉の一神を■けて左右に安置せしものか もしさあらはもとより一神ならむには山王摩多羅と二名を表し御祭礼の神輿も二基出し奉るへきよしは有へからす 天海僧正山王と摩多羅神とは別神の意にて左右に安置せしなるへし もしくは前にsるしし日吉社神道秘密記に山王者三国名山之守護云々鷲峯守護神金毘羅神云々とあるによりてすべて金毘羅神摩多羅神は名山の守護神なれは 此日光山の地主満願権現もやはり摩多羅神なりと天海僧正おもひ定めて右の御合殿とせしものなるへし 其證元寛日記の元和三年丁巳四月十七日日光御祭礼の次第に神輿(略)次に山王権現御輿(略)摩多羅神御輿云々と見えてまさしく摩多羅神御輿としるし扶桑拾葉集にのせし慶安元年日光山法華八講記には十七日は大権現の祭礼とて各皆多くいきののしる云々神輿三社前は大権現中は日光権現あとなるは山王権現とかや云々と見えてかのまだら神の事をここには日光権現と記せり ここをもて天海僧正摩多羅神と表せしも日光権現の事也と思ひ悟るへし まして此名古屋の御宮は義直卿思召所ありて 日光権現と表し給ひしなり 其故は延喜神名式に下野国河内郡二荒山神社と見え文徳実録三代実録ともに下野国荒神と記し性霊集沙門勝道◼︎山水◼︎玄球碑に有沙門勝道者下野芳賀人也云々有同州補陀落山云々建伽藍名曰神宮寺云々とも見え続古事談にも下野国二荒山のいたたきに湖水あり広さ千町はかり清くすめる事類なし又宇都宮は権現の別当なりなと記してかく往古よりふだらの神とて日光山にまします地主神なれは 此御宮の御合殿になし給はでは有ましき御神なれば右の方に安置し給ひしなり 此故に名古屋御宮にては一向摩多羅神の沙汰はなく御祭礼の節も東照宮山王の次に日光の神輿を行幸し奉り あるひは神劔三振のうち宗近は日光権現の太刀なるよしにてさらに摩多羅神と称する事なし)寛永四年天海僧正神宮寺と名つけ権僧正珍祐をもて別当とし山門の日増院また春日井郡野田村密蔵院と兼帯し上乗院僧正と名のれり其後世々僧正に任し尊寿院と通称とす将軍家御代々の御霊屋その西に並ひて此神宮寺別当掌れり神宮寺記に東照宮御在世の御伝系を記せりといへとも御年譜等の諸書にしるしてよく人の知れる事なれは爰に記しもらせり
本社(拝殿 中門 瑞籬 御供所 御井 鐘楼 神輿殿 御宝殿等あり) 本地堂(薬師脇侍二菩薩十二神将四天王像を安置す) 護摩堂(不動四天の木像十二天の画像を安置す)(以下略)」

 

なんか、途中から「摩多羅神」が出てきておろおろしましたが(何で?)、

 

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「日吉東照宮」(滋賀県大津市)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「日吉大社」近くにある「日吉東照宮」の祭神が、「徳川家康」「日吉権現」「摩多羅神」なんですよね……この辺りは「日吉大社」側(つまり天台宗)がそういうことにしておきたかったのか、それが名古屋に「東照宮」を創建する際にも導入されたのか、「南光坊天海」に何らかの意図があったのか……「東照大権現」「日吉権現」「日光権現」であれば太陽つながりでめでたい感じもするんですよね……うーむ、日光をまた調べないといけないのか……。

摩多羅神」については、

 

闇の摩多羅神

闇の摩多羅神

 

 

↑なんかがわりと詳しく書かれていますので、ご参考に〜(ちょっとすぐに取り出せない場所にあるもので……)。

あれ……「牛玉」って、ひょっとして「摩多羅神」=「牛頭天王」つながりなのか……いやいや徳川時代から、お隣には「天王社」があったので、わざわざ神宝にする必要もないかな……ううむ……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』の「社寺編」にも、史料豊富に記事がありますのでご参考に。

227ページです。

 

「二 東照宮
東照宮は西区長島町一丁目の東側に在あり、那古野神社の西に接す、(略)元和五年、徳川義直、城内三之丸天王社の西地を下し、社殿を造営し(略)、九月十七日家康の神像を奉安し、成瀬正成、竹越正信を奉行として、神衣、甲冑、弓箭、太刀(宗近、正恒、国行)を納め、南光坊天海を導師、日増院権僧正珍祐を別当となす(略)
元禄元年、藩主光友(瑞龍院)重修して、三月正遷宮を行ふ、爾後屡々修営の事あり(略)明治八年十月二十日に至りて、もとの明倫堂跡即ち今の地に仮遷座す、九年十月五日正遷宮を行ふ、社格は明治五年五月、村社たりしが、八年八月県社に昇格す(略)
祭神は創建当時は中央徳川家康、左日吉の大神、右日光権現なり、明治八年義直の霊を合祀し、三十一年また慶勝の霊をも合祀す、(略)
張州府志には客神として摩多羅神を挙げたり、蓬州旧勝録に日光権現の事を「摩多羅神」となせるより考ふれば、客神とは誤ならん、摩多羅神は金毘羅神と同体にして、密部の経典に出て、唐の青龍寺の土地の神なる故、我国天台宗殊に是を崇め、三輪の神(略)又は日光権現にも配す、日光権現は二荒の神、即ち建御名方神と其父大己貴命との二柱神を指すこと、神祇宝典に見えたり、次に日吉大神は山王権現の事にして、唐の天台山の地主神なれば、台家は之を崇めて、大山咋神に配す、摩多羅神は俗に源頼朝と云ふ、又日光、日吉の両神を信長、秀吉なりと云ふものあれど、皆據證なければ論ずるに足らず、社伝によれば、此二神体は明治維新に除去したりと云へど、未だ明證を得ず(略)
大祭は毎年四月十六日、十七日に行はれ、(略)神輿三基、若宮八幡社に幸す(徳川時代には御旅所に幸す)、古より名古屋祭と称して、有名なる祭礼なり、十五日に祭文殿に神輿を徒し、翌日早朝に舞楽あり、其夜神前に論議を行ひ、十七日暁に供御を調進し、罪人の赦を行ふの儀あり、(以下略)」

 

また「摩多羅神」を挙げてますね……廃仏毀釈では、日本中で大流行りだった「牛頭天王」は結構な感じで槍玉に挙げられていましたので、関係のあると思われる「摩多羅神」(まあ、「比叡山常行三昧堂の守護神でもあるので、がっつり仏教の神が神社にあるのは何事かってな話でしょうけれども)の存在もいろいろと物議を醸したのかもですね。

ところで、「摩多羅神」=「日光権現」=「二荒神」=「建御名方神大己貴命」ということが書かれていますが、「名古屋東照宮」の「福神社」の御祭神は「大国主命」「事代主命」なんですよね……何かありそうですか?

 

 

 

 

ま、まだまだ疑問は疑問のままで……。

「日出神社」(名古屋市中区)

1/22。

大須まできたので、ちょっとぶらついてみましょうか、ということで、発見した「日出神社」にご参拝。

 

 

 

……HPとかありませんでしたが、検索してみるとどうやら古墳の上に立っているようです。

 

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社標。

北側の参道入り口です。

 

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正面。

向かって右に「神明社」、左に「愛宕神社」の社標が。

 

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盛り上がり。

なるほど、古墳の上、というのもうなずけます。

大須界隈は、わりと平たい地形なのですが、ここはいきなり盛り上がっているので違和感あります。

 

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正面遠景。

 

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由緒……読めませんな……もうちょっとなんとかならんもんかな、と。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

おめめくりくり、相当に戯画的です。

 

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東側の参道入り口。

 

御朱印は、多分ないと思います。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』「社寺編」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
156コマです。

 

「一九 日出神社
日出神社は中区日出町上ノ切の南側(旧称は南寺町)に在り、(略)、もと愛宕社の在りし地なり、愛宕社は初め春日井郡清須朝日村(今は西春日井郡清洲町大字朝日)に在り、愛宕大権現(又愛太子社とも書せり)と號す、勧請年時詳ならず、(略)、慶長十六年、(一説に慶長十五年)、此の地に遷座す、明治初年村社に列し、四十二年七月修造遷宮と共に、同町の神明社を合祀し、同年九月今の名に改む、祭神は軻遇突知命(元愛宕社の祭神なり、熱田尊命記集説、張州府志、海邦名勝志には地蔵菩薩にして、之を将軍地蔵又は勝軍地蔵と稱すとせり)、天照大御神、月夜見命、(元神明社祭神)、宗像三前大神、猿田彦大神稚日霊命(もと愛宕社境内神社、宗像社、白髭社、香良洲社合殿の祭神)なり、境内神社は、元、弁天社、太郎坊社(此社は愛宕社の奥院なりきといへり)の二所ありしが、今廃す、現今は吉備神社(祭神吉備真備命、もと神明社境内神社なり、明治四十二年七月此に移す)、五柱神社(祭神須佐男命、応仁天皇、宗像坐三前大神、下上賀茂三柱大神、迦具土大神、もと神明社境内神社なり、当時は津島社、八幡社合殿、宗像社、賀茂社合殿、及び秋葉社の三所なりしが、明治四十二年七月此に移し、合祀して今の名に改む)の二所あり、例祭は九月十四日、十五日、(略)

神明社は同町(本社の西北)に在り、(略)、初め天道宮と號し、又朝日天道と稱す、もと清須朝日村(略)に在あり、勧請の年月詳ならず、(略)慶長遷府の際、名古屋松原町(今の日出町なり、以来俗に南天道町と呼べり)に遷す、(略)明治初年村社に列す、境内神社は徳川時代には春日社、八幡社、権現社、稲荷社、弁才天社、吉備公社、瑜伽大権現等あり、(略)」

 

前段が「愛宕神社」、後段が「神明社」の内容。

 

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「太郎坊阿賀神社」(考) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「愛宕」といえば「太郎坊」、天狗ですね。

瑜伽大権現」というのは聞き慣れないですが、

 

◯こちら===>>>

「瑜伽神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

奈良には「瑜伽神社」があります。

それと関係あるかはともかく、「瑜伽大権現」で検索していただくと、どうやら備前国修験道関係のお山、のようですので……天狗ですね。

猿田彦大神」も天狗。

吉備真備」を祀る神社って珍しいと思うのですが、

 

◯こちら===>>>

www.city.kurashiki.okayama.jp

 

岡山には天狗山古墳というのがあるらしく……いえそれと関係があるかどうかはともかく、「吉備真備」には、大陸から『六韜三略』を持ち帰り、それが鞍馬に伝わって最終的に「虎の巻」が「源義経」に渡るという伝説が……ということで、「吉備真備」も天狗認定(陰陽師、って話もあります)。

 

天狗だらけ?

 

さてはて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』に記事があったかなぁ……と思ったらありました。

189ページです(コマ数ではないです)。

 

愛宕山大乗院 徳林寺の向にあり。当山派の修験紀伊国の根来同行にて、今は高野山の預なり。慶長五年、三位中将忠吉君の御建立にて、清須の朝日村に在りし大円坊を、同十六年ここにうつして、今の号に改む。凡名古屋にて相撲を勧進する時、多くは此境内にて興行する事は、江戸両国の回向院にて興行する例に同じ。
愛太子社 飯綱権現を合せ祭る。また弁財天社、太郎坊社あり。

天道社 松原町にあり。今は此社あるにより天道町と呼べり。もと清須の野田町にありて、朝日天道といひしを、慶長御遷府の時ここにうつせるなり。
本社 天照大神月読命の二座なり。
末社 八幡社・天王社・稲荷社・弁財天社等の小社多し。(以下略)」

 

紀伊の根来ったら「根来寺」、別名「忍法寺」(風太郎先生〜)と称されたところで、わざわざ修験と書いてあるのを見ると、やっぱり天狗か……。

地元のみなさんは、天狗ネタで盛り上げる、というのはいかがでしょうか?

 

ところで、「日出神社」からそう遠くないところには、

 

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名古屋のメタルキッズの聖地「ディスクヘヴン」があります。

私が10代の頃は、御器所にあったと思うのですが、移転していました……中を覗くと、以前と変わらぬ混沌っぷり。

メタルの魂に火がついている私、久々に訪れて胸を熱くした次第です。

「若宮八幡社」(再)(名古屋市中区)

1/22。

まだ1月ですが……今年はあまり遠出はせずに、近くをうろうろし直そう、ということで中区は若宮八幡社へ。

 

◯こちら===>>>

「若宮八幡社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です(狐の話が結構面白いと思います)。

 

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ちょっと、狛犬を写真にとるのに目覚めたもので、狛犬さんが基本です。

 

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拝殿。

まだまだ新しいですね。

 

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「連理稲荷」のおキツネ様

 

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社殿のおキツネ様

 

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奥の院のおキツネ様

 

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住吉神社」の狛犬さん。

 

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「神御衣神社」。

 

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「熊野社」「日吉社」「香良洲社」「天神社」「秋葉社」の合祀社。

 

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恵美須神社」。

 

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正面鳥居の狛犬さん。

 

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駐車場入り口の狛犬さん。

 

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御朱印

 

さて、前回の記事ではまだ引用をあまりやっていなかったので。


◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より、77ページ(コマではないです)から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

若宮八幡宮 末広町の東側にあり。もと三の丸天王の社の南にありしを、慶長十五年御城築の時、東照神君御鬮をとらせられ、神慮に任せ此所に遷座なさりめ給ひて、御城下の鎮守と定め給へり。抑当社の祭神は、八幡宮応神天皇)の若宮大鷦鷯尊(仁徳天皇)にましまして、八幡宮も相殿にましますとぞ。天武天皇の御宇に始て御鎮座にて、延喜年中再営を加へ給ひ、その後安養寺といふ宮寺をたて、僧坊十二宇をおかれたり。天王坊もその内の一宇なるよし。しかるに天文元年の兵火にかかりて、神宮・僧坊もみな焼亡しけるを、同八年再営ありしよし、社記に見えたり。又[延喜神名式]に、愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるは、此御社の事ならんかといへるは、若宮といふよしありげに聞こえ、又牛頭天王の若宮ならんといふ説もあれど、共にたしかなる據もなく、且若宮八幡宮の称年久しくして、遍く人のしる所なれば、社伝に随つて強ひて私意を贅せず。
本社 仁徳天皇
相殿 左応神天皇 右武内宿禰
拝殿
神輿殿
末社 熊野社・稲荷社・山王社・天満宮社・連理稲荷社。
(略)
芝居小家 境内にあり。
(以下略)」

 

図絵もありますのでご参考に。
社殿の配置はいろいろと変わっておりますが、「連理稲荷」の場所は今と変わりませんね。

「芝居小家」が境内にある、とまで書いてあるのに、それに関するエピソード(※前回記事参照)はない、と……もったいない。

「孫若御子神社」が、元々の姿ではないか、という説が以下にも出てきます。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』の「2 名古屋」の6ページから。

 

若宮八幡社
末広町の東側にあり 此社もとは那古野庄今市場(今三の丸天王社の南)といふ地に有しを慶長十五年御遷府の時此処に遷座し奉れり 祭神は三座にて中坐仁徳天皇と本主とし左は応神天皇右は武内宿禰也と社説にいへり又文武天皇の御代に鎮座ありて後延喜年中に再興し給ひ供僧坊宇すへて十二宇を建添させ給へり 那古野庄内の鎮守の社にて此宮寺を安養寺と呼り 大永年中今川左馬介氏豊那古野の城を築て柳の丸と号け住ひ給たりしを海東郡(社説に中島郡とかけるはあやまり也)勝幡城主織田弾正忠信秀不意に此城をおそひとらるるとき今市場を放火したり◼︎◼︎は神社僧坊悉焼亡◼︎◼︎るを天文八年再興有ける 後に太閤秀吉公より社領二百石を寄附し給へるよしなとも社記にいへり さて此社を今は若宮八幡と称すれと往古はただ若宮とのみ呼来れりとそ 天野信景が本国神名帳集説に若宮社延喜十一年三月勅建(此処にかくいへるは供僧十二院の事にて神社鎮座の事にはあらし此下の文に盖往古鎮座而延喜帝加再復者乎といひ社説にも文武天皇の御代の鎮座也をいへれはなり)当時有供僧十二院旧無八幡号といへるは其本據さだかならねとも其頃まては慥に若宮との◼︎称し來りて八幡といふ称は其近き年頃(宝永四年以前)よりいひそめつといふことの著明伝はれりしなるへし 又同署に引用したる亀尾山再興記の文に蓬莱興之地威神垂鎮座金亀闃然愛霊尾亀尾山号由此(按熱田神宮寺号亀頭山亀尾対此之称云々)また曰安養寺(若宮宮寺)本尊熱田八劔御作即座下敷霊劔云々按此等之説則当社熱田所摂祠歟旧書以当社序天王祠上盖往古鎮座而延喜帝加再復者歟其若宮号近孫若御子(熱田孫若御子名神俗称彦若宮式内神社也)といへり さてこの孫若御子神社と申は今熱田大宮鎮皇門内南面に三社ならひ居給ふ中の一社にて社号も上古のままに伝はりて正しき其神◼︎はましませとももしくは此若宮社其本処にもやあらむとおほしきよしを附録してしはらく後の識者の考へをまつ事左のごとし そもそも延喜式神名帳に愛智郡孫若御子神社(名神大)と見え尾張国神名帳に愛智郡従三位上孫若御子天神(こは貞治本に據り神位は文治二年三月の宣命に加階増進せられたるにて今に至れる也明応本是に同し元亀本に正四位下とあるは古代のままなる写本に◼︎りて◼︎けるなるべしされは総て貞治本なるよりは諸社悉神位卑し皆准へて知へし又一位二位なとに上の字を添えたるは書写の者のみだり◼︎ざなるへし)とある 則此神◼︎て孫若御子といふ社号は熱田大神日本武尊)の御孫歟もしくは曽孫ならむも知へからす 既に神祇宝典に誉田天皇の御霊也此天皇日本武尊の孫也故号而曰孫若御子神也とかかせ給へるは古意にかなへる御説をこそおほゆれ 神名帳頭註に尾張国年魚稚武彦王三座を祭るとも吾勝尊を配享して四座なりともいふは皆中世巳後のさたなるべし(延喜式に一座とあれはなり) さて此頭注及熱田社説に稚武彦王といへる御名は孝霊天皇の御子なる稚武彦命と申に混したる名なり是は古事記に若建王とあるぞ正しき其文にいはく此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毘賣命生御子帯中津日子命(一柱)又娶其入海弟橘比賣命。生御子若建王(一柱)とあるともて知へし 書紀には初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃生稲依別王次。足仲彦天皇次。布忍入姫命次稚武王とあるにてしるへし 此若建王は書紀によれは御母は両道入姫皇女にて仲哀天皇の御弟にましまし古事記によれは御母は弟橘姫命にましまして御腹いつれも尊く坐す皇后たちのうませ給へる御子にしませば熱田大神御子神の列に殊にいはひ奉るはさるへきゆゑある事なるへし 孫若と◼︎も称奉れるは彼宝典にかかせ給へることと聞ゆる也 さて今の熱田なる孫若御子社といふはもとは遥拝所なりしが遂に本處と成たまへるか又うつして祭奉れる御社にもやあらむさ云ゆゑは先上古は大中小社と三等の差別及境域四至町数の格式なともいと厳重なりしおもふ■は宝亀二年二月十三日の太政官符に大社四至限九町といひ三間檜皮葺正殿一宇(高一丈二尺有板敷戸一本)堅魚木八丸(長五尺径九寸)千木四支(長一丈三尺)と記し瑞垣珠垣内外鳥居幣殿拝殿舞殿直会殿板倉盛屋左右廊馬屋等まて載て各間数寸尺とさへ記せること甚詳なり◼︎はかり厳重なる名神大社の(名神大社とはかの延喜神名式に名神大と記しこの太政官符に大社云々とあるをいふ) 熱田本宮の境内に今の如き小社にましますへくもおお■すしかれとも此若宮社は既に延喜の頃より宮寺僧坊あまた置れ仏家の掌れる御社となれるによりていつしか古社号を失ひはてて若宮とのみ申て遂に孫若御子といふ名の残らぬをさすかに熱田は大社にて元来かの社に属たる摂社にますが故に移して祭れる社なからも正しく旧社号の伝はれるにもやあらんあなかしこ (以下略)」

 

◼︎は、だいたいが変体仮名です(すみません、なかなか覚えきれませんで……)。

ざっと読んでいただいて、結局のところ「孫若御子神社」なのかどうかはよくわからないのですが、現在の「熱田神宮」にある「孫若御子神社」は確かに大社というには……という規模ですので、「熱田神宮」にあるのは遥拝所、という説はなかなか面白いように思います(「諏訪大社」を思い起こしますね)。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』「社寺編」の238ページから「若宮八幡社」の記事があります。

 

「三 若宮八幡社
(略)
境内摂社は、熊野神社(中央伊弉冉尊、左速玉男神、右事解男神を祀る、此赦もと城内に鎮座ありしが、寛文四年光友ここに徒す)、稲荷神社(倉稲魂命を祀る、元禄五年藩主綱誠の創建)、日吉神社大山咋命を祀る、元禄五年綱誠の創建)、天神社(菅公を祀る、寛永八年藩主綱誠の妾梅昌院創立)の四所にして、境内末社は、連理稲荷神社(宇賀之魂命を祀る、天保四年創立)、香良洲神社(末に詳説す)、神御衣神社(もと御衣社と称し、裁縫師が私に祀りしものなり、祭神不詳、明治三十六年海西郡立田村に鎮座の多度社(祭神不詳)と、津島社とを合せて、此社に遷す、是より始めて末社の列に入り、祭神を素盞嗚尊とす)、祖霊社(創立年次不詳、旧祠官の霊を祀る)の四所、もと境外の末社にして今離末せるものは西春日井郡清水町の八王子社、同杉村字西杉の春日神社、愛知郡中村大字則武字大秋の八幡社、同字中島の八幡社、同村字中野高畑の八幡社、水神社、同大字栄の八幡社、天地神社なり
(略)
香良洲神社はもと葉栗郡木曽川中小島と云ふ鹽濱に鎮座あり、式内の川島神社と称し、社地九町三段歩有り、天文の兵乱に廃頽せしを、一宮の社人大市へ遷す、寛延四年、若宮裏矢場町(今二之切西側)若宮の地域内に遷座あり、明治(十二年の届に既に末社たり)に至り、若宮境内末社となる、寛政十年、文化二年に社殿を修造す、祭神は天照大神少彦名命(略)」

 

↑主に摂社末社を中心に引用してみました(『名古屋市史』は大正年間の発行ですので、今とあまり変わりがありません)。

名古屋市史』に資料として、『尾張志』の全文が引用されていました(変体仮名はかなり直してある)……失敗失敗。

ともかく、徳川の時代には「若宮八幡社」、名古屋でもかなり大きな神社でしたので、記事もあちこちにたっぷりあります。

気になる方は、各自検索のほどを〜。

さて、ブラブラしようっと。