べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「(矢田)六所神社」(名古屋市東区)〜高速初詣その1〜

1/2。
ラストは東区の六所神社です。

 

こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

↑東区の史跡散策路のHP。

ナゴヤドームのごく近くですので、なかなか見つからないかも(ご参拝のあと、イオンナゴヤドーム前に行き、何か買ったような気がします)。

 

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社殿。

現代的ですね。

すっかり日も暮れかけて、という風情。

 

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うーむ、コインパーキングに駐めてきたのに、あったよ駐車場……。

 

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境内社「龍神大明神社」を後ろから。

 

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前から。

 

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「御安産水」……私にはもっとも縁遠いご利益ですね……。

 

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いろいろ龍神と、「六所子守神社」の社標。

龍神だらけですが、何かあったのか……。

龍神講?

 

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祠にも。

 

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狛犬さんたら

 

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狛犬さん。

 

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怪しげな池を発見したら、それは「弁天」様だと思いましょう。

 

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境内社「六所稲荷大明神」。

 

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お狐様たら

 

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お狐様。
ちょっと怖い。

 

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まだお狐様たら

 

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お狐様。
こちらはちょっと丸い。

 

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さらにお狐様たら

 

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お狐様。
凛々しい。

 

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遠景。
囲まれている感じが何かいい。

 

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参道。

 

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鳥居。
南向き。

 

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こちら東向き。

 

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境内西側から。

 

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南西側から。

 

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御朱印……というかスタンプに近いです……矢田というのはナゴヤドーム付近の地名です。

 

さて……あ、引用するものが見つかりませんで……。

東区の区誌があれば何かわかるのかもしれないのですが、あいにくデジタルコレクションでは見つからず……図書館か……。

あ、一つ、神社でいただいた御朱印を抑える紙の記述を転載。

 

「安産厄除守護 六所神社
御祭神 伊弉諾尊伊奘冉尊

カッチン玉祭 二月二十六日
安産・生育・厄除けを祈るお祭りが行われる。この日にしか買えない「カッチン玉」は、竹の先に白・赤・青・黄の飴を丸く練り固めたもので、境内の内と外に立ち並ぶ百数十件の露店の中でこの飴が売られる。「カッチン玉」が売られるようになったのは明治の初め頃で、その昔六所神社の森は鬱蒼とした木が繁り昼なお暗く、蛇や蝮、藪蚊が出たので人の出入りするも恐れをなしたと云い、村人達は用心のため、竹の棒の先に松明や藁束を燃やして森に入った。この松明を形どったものが「カッチン玉」と云われている。又一説に、同社の森の中で旅の婦人が立派な赤子を出産し水に浸かったと云い伝え、へその緒を形どったものを「カッチン玉」とも云っている。」

 

えらく御陽気な名前だなと思いましたけれども、案外新しいようで。

「カッチン」は、火打ち石の擬音でしょうか……それにしては飴が色とりどりですが(五行に一つ足りないですけれど、関係あるのかないのか)。

 

 

 

何となく、尻切れとんぼな具合になってしまいましたが、ともあれ高速初詣その1は終了。

この日だけで、一年分の御朱印をいただいた感じです……。

 

「松山神社」(名古屋市東区)〜高速初詣その1〜

1/2。
「泥江縣神社」を早々に駆け抜けて、何とか東区に移動、「松山神社」へ。

 

こちら===>>>

名古屋市:寺町めぐりコース(東区)

 

↑東区史跡散策路のHPです。

まるっきり存在を知らず、名前から「新しい神社なのかな」と思ってしまっていました(いえ、松下幸之助翁を祀った神社がありますから、そういった類なのかと)。

付近のコインパーキングに車を突っ込んで、スマホの地図頼りに歩いてみると、住宅密集地に忽然と出現。

 

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境内の西側から入ります。

↑の史跡散策路のHPでも紹介されていますが、

 

「天照皇大神等を祀ります。松山天道宮と呼ばれ崇拝されました。西方に向かう珍しい拝殿を持つ神社です。」

 

なのです。
確かに、ちょっと珍しい。

 

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「松山神社略記
(略)此れ地往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり、因って松山神社といい、近世天道宮、天道社又は松山天道とも呼べり、創立年代不詳、大永年中羽前羽黒山の修験隆海之を再興し守護すること三十余年二代鑁海の後社殿大に荒廃す、元和年中美濃久々利の修験秀恵重興し且つ寿命院を建立別当となる。以来藩主の命に依り祈願所となり、崇敬篤く元文三年五月、御紋附の挑燈を寄附せらる。
明治の初年村社に列し、別当を廃して祠掌を置く、祭神中央は天照皇大神、右は品陀別命、左は市杵島姫命なり、社殿は神殿、拝殿、神饌所、神楽殿、社務所あり境内に加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社がある、
(略)」

 

大永という年号は1520年頃で、その頃にはすでに荒廃していたのですから、創立はそれ以前。

室町、鎌倉辺り、下手をすると平安時代……ううむ、十分な古社で、今まで知らなくてすみません(社伝を信じるなら、ですが……それでも、1500年代からであれば十分な歴史の重みです)。

しかし、「」、これで「ばん」と読むそうですが、こんな字の存在を初めて知りました(ちゃんとPCで出るのも驚き……OS違ったら出てないかもしれないですすみません……)。

 

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こちら、南側の参道。

奥に社殿が見えます。

で、急いでいたからなのか、境内の写真があまりありません。

住宅地ですので、それほど広々とした境内ではないですが、何で写真が少ないのか……多分、地域の方がお参りに見えていて、撮影しづらかったのだと思います(なにせ半年前、記憶が)。

 

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拝殿を横から。

 

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「長寿の大銀杏」なのだそうです。

昭和初期まで、名前も知られない古木があったそうです……残念、現代まで残っていれば……。

写真としては、一番上の小さく写っている瓦が見所です。

あ、小さな祠は、

 

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「福守稲荷社」のものです。

 

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拝殿左手奥に、境内末社がずらりと。

提灯のおかげでわかりやすい。

 

 

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神楽殿は、西側の鳥居をくぐりすぐ右手の手水場の東側、だったと思います。

日が暮れかけているのがお分かりかと。

 

 

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御朱印
五七桐に御朱印を重ねる……この技、新しい気がしますが、ちょっと素敵ですね。

さて。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

ひさびさに『尾張名所図会』から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

134コマです。

 

「松山天道宮寿命院 九十軒町の北なる東側にあり。当山派の修験清寿院同行なり。大永年中出羽国羽黒山の山伏隆海の建立なりしが、累年衰廃に及びしを、元和年中に、寿命院美濃の久々利より来りて再興す。本社天道宮、左右は八幡と弁財天なり。その外境内に末社多し。」

 

うん……神社の略記のほうが詳しかった……あ、でも、次のコマに図絵がありますので、それをご参考に〜……超端っこですけども。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』の「名古屋」編より、17コマです。

 

「天道社
飯田町にありて松山天道といふ此地むかし松樹繁茂したる山なりし故かくいひならへりとそ勧請の年月知かたし大永年中出羽国羽黒山の修験隆海はしめて此地に来り当社を再興し三十余年仕職して後本国に帰りぬ二世鑁海(ばんかい)も又羽黒より来り同本国へ帰ける後元和年中美濃国久々利より修験秀惠入院して寿命院と称し仕職しけり今も其末絶を奉仕す今飯田町九十軒町作子町萱屋町なとの本居神なり
摂社 八幡社 弁才天社 例祭(正五九月皆十四日に試楽十五日にかぐらゆだてを執行す)」

 

……うん、神社の略記(以下略)。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』の「社寺編」より、146コマです。

 

「五 松山神社
松山神社は東区飯田町三丁目の東側 往古は吾湯市郡山口と称す、本社の鎮座ありし以来、俗に天道町といへりと に在り、(略)、往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり、もとは松山神社といひ、近世天道宮、天道社又は松山天道と呼べり、勧請の年時詳ならず、一に大永年中の勧請となす、大永年中、羽前羽黒山の修験隆海之を再興し、守護すること凡そ三十余年、二代鑁海の後、社宇大に荒廃す、元和年中、美濃久々利の修験秀惠之を重興し、且つ寿命院を建てて別当となす、 寿命院は寺院の部に詳なり 、以来藩主の命に依りて祈願せしこと有り、松姫 光現院と號す、藩主綱誠の女なり 御祈祷の札を江戸へ献じ、其後下屋舗より屢、祈祷せしめ、神楽、神湯を行はる、宣揚院 藩主綱誠の侍妾なり も亦本社に参詣し、元文三年五月、御紋附の挑燈を寄附せらる、 以来天保頃まで祭時には神前に之を点せり 明治初年村社に列し、別当を廃して、祠掌を置く、祭神中央は天照皇大神、左は市杵島姫命、右は品陀別命なり、 明治初年までは天照皇大神本地仏大日如来の木造を安置せしが、神仏分離の際之を取出し、今は岡町禅隆寺の観音堂に安置す、尾張名陽図会には祭神は国常立神にして、本地大日如来なりとあり 殿宇には神殿、拝殿、神饌所、献燈所、社務所、門等あり、境内神社は徳川時代には八幡社 往古は徳川時代の作子町、鳥屋町、坂井氏の屋舗の地にありしが、慶長遷府の際、本社境内に遷せり  弁才天社 往古は今の鍋屋町教頓寺の邊にあり、慶長遷府の際、本社境内に遷せり の二所なりしが、今は天神社 祭神は菅原道真 、稲荷社(略)、賀茂社(略)、猿田彦社(略)秋葉社(略)津島社(略)の六所あり、例祭は十月十四、十五日 徳川時代は正五九月の十四日に試楽、十五日に神楽、湯立あり、特に清洲越の俗家、本社の氏子として祭事を行ひ、且つ小原氏、土佐女といふ神巫ありて、神楽、湯立等を行へり にして、十四日に市より供進使の参向あり、飯田町三丁目より黒船の山車一台を出す 但し出否は毎年一定せずと (以下略)」

 

……うん、ほぼ神社の略記通り……そりゃそうだろう。

 

「土佐女といふ神巫ありて」

 

↑この辺りがちょっと気になりますね……「吉備津神社」「吉備津彦神社」の伝承では、「阿曾女」という巫女が登場しますが、何かそれに習ったものがあったのか、四国、土佐といえばいざなぎ流、そちらからやってきた巫女だったのか……とちょっとだけ妄想が膨らみました。

やってることは神楽に湯立ですから、真っ当な神事ですけども。


せっかくなので、「寿命院」というお寺の記事もこちらから。
カテゴリーとしては「廃寺」のところですけれど。
548コマです。

 

「寿命院は飯田町に在りて、清寿院の下に属し、松山神社の別当たりき、初め大永年中、出羽国羽黒山の修験龍海此地に来り、天道社を勧請して奉仕すること凡三十年、帰国の後二世鑁海、亦羽黒より来りて其職を継ぐこと数年、鑁海帰国の後、久しく其跡を絶ちしが、元和中、美濃久々利(今可児郡久々利村大字)より修験秀惠(寛文元年卒す)来りて再興し、寿命院と號す、以来相続して絶えざりしが、明治維新の際廃絶す、本地堂の本尊大日如来木立像は、今同町禅隆寺の観音堂内に在り、此外同堂に薬師如来像(俗に夢薬師と称す)、秋葉宮を安ぜり、(以下略)」

 

……うん、特に新しい情報はない……。

 

「天道」の宮、社、という言い方は日本古来のものではなく、どちらかといえば六道思想から引っ張ってきているのかな、と考えられているようです。

「天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄」の六道ですね。

この神社のように、神仏混淆が早々に進んだであろう修験道系の僧侶の創立だからそういう名前になったのか。

その辺りの解説はありませんので、「天道社」「天道宮」についての本とか、探してみないことにはよくわからないのかもしれないです。

一方で、「お天道様」といった太陽のことですから、そこから「天照大神」をさすのだ、というのもわからないではないです。

ただ、どっちが先なんでしょうね。

太陽を「お天道様」と呼んだから「天道宮」に「天照大神」を祀っているのか。

天照大神」=「天道」、「天照大神」=「太陽」、だから「お天道様」=「天道」になったのか。

さてはて……比較的新しい言葉だと思うので、調べれば出てくるかな……やってみ……たいですね時間があれば。

 

ふむ……ともかく、街中に溶け込んだ、なかなか味わいのある神社でしたので、いずれまたゆっくり訪れようかと思っています。

そろそろ、高速初詣その1も終了です〜(まだ行きます)。

 

「泥江縣神社」(再)(名古屋市中区)〜高速初詣その1

1/2。

上飯田六所宮」の参拝を終え、あ、そういえば、と思い出して、「泥江縣神社」へ。

 

こちら===>>>

「泥江縣神社」(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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……今回は、写真はこれだけ、でした……日が傾いてきて、結構急いでいたりしたもので。

 

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御朱印

鳩が向かい合う形の「八」は、「八幡宮」の定型ですね。

 

 

以上です。

 

 

いえ、手抜きとかではなくてですね、本当に……。

 

まだ続くのです〜。

「六所宮(上飯田)」(名古屋市北区)〜高速初詣その1

1/2。
まだまだ続きますが、「別小江神社」の参拝を終え、次はと「六所宮(上飯田六所宮)」へ。
近くのコインパーキングが空いておらず、ちょっと歩きました。

 

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天満宮」もあるようです。

 

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日も傾いてきたのがお分かりかと思います。
蕃塀があります。

 

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拝殿……だったと思います。
えらくシンプルな感じになっています。
この色合いは、何か流行でもあったのか……。

 

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境内社こちら。
左から「弁財天」「天神社・神明社・八竜社」「出雲社」「天満宮」。
案内の向こう側にうっすら社殿が見えますか〜?

 

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こちら「天満宮」。

 

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わかりづらいですが、手前に撫で牛がいらっしゃいます。

 

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別アングルでの「天満宮」とご神木。

 

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こちら、東側の鳥居です。
「六所社」なのか「六所宮」なのか……。

 

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敷地の外から、境内社

 

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同じ方向からの「天満宮」と拝殿。

 

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拝殿……あれ、これは単なる屋根なのか……。

 

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「六所宮由緒
一、御祭神
伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照皇大神 月読尊 素盞男尊 蛭児尊
昭和五十六年 御社殿造営を完了し九等級に昇格 六所宮に名称変更した
(略)」

 

……何もわからないに等しいですね……。

 

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正面を別角度から。

 

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社標。

 

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正面から。

 

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通りを渡っての遠景。

 

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御朱印

 

何度か目の前を車で通ったことがあるのですが、ようやくご参拝できました。

さて。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 西春日井郡誌

 

↑最近お世話になりっぱなしの『西春日井郡誌』から引用してみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
205コマです。

 

「六所社、山田村大字比良字宮裏二千六百七十六番地にあり。祭神伊弉諾尊伊弉冊尊、大日孁尊、素盞嗚尊、月読尊、蛭子尊を祀れる村社なり。創始年月詳ならず、大正八年四月十日境内に在りし津島社、同字飛多野に鎮座の非多神社、同安野市場鎮座の山神社、師勝村久地野に鎮座の無格社を合祀す、境内二百十三坪老樹多く社殿と拝殿とあり、現今境内神社には、非多神社(祭神天御中主命、大八崎命、天香山命菅原道真、当社は明治十六年五月四日元天神社といひしを改称す)山神社(祭神大山祇命、武雷命、伊弉諾命)大江社(祭神木花咲哉姫)あり、例祭は十月一日とす。」

 

御祭神を見る限り、今の「六所宮」のことだと思われます。
近くにあった神社をいくつか合祀しているようですが、その中に式内社「非多神社」があることにちょっと驚き。
ちょっと、そっちを攻めてみましょう。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑『尾張志』「春日郡」より、51コマです。

 

「非多神社
延喜神名式に春日部郡非多神社と記し本国帳に従三位非多天神と見え其一本に卑田天神又樋田天神等書り尾張風土記に卑田宮とあるも是歟本国帳集説に卑田は林村の内の地名にある由いへり」

 

わかったようなわからないような……『尾張名所図会』『神社覈録』も似たような記述でした。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』より、164コマです。

 

「非多神社
今按本社所在里人の申伝に林村字平野と云所に天神社ありしが今廃して三明神相殿にまして其趾に山神の小祠ありと云れど今村中に非多と称する地名もなくたしかなる證もあらねば猶考へて決むべし。」

 

『特選神名牒』が書かれたころには、「ヒタ」という地名はなくなっていたのか、といたことが書かれています。
さて、実際はどうなのか。

尾張国神社考』(原題「尾張神名帳集説訂考」、津田正生著、発行:ブックショップ「マイタウン」)によりますと、

 

従三位非多神社天神
[正生考]平田村前並天神是歟。非多はかな書也。往昔は卑田と呼しを、今は平田と呼歟。凡らりるれろの五は、省もし添もして呼こと常なれば也、[里老曰]前並は、もとは舟着と呼し所也。此宮清慶山浄蓮寺(浄土宗)の扣なりしを、近年小出氏これを求て社司に成といふ。浄蓮寺は爰より三四町北にあり[正生考]猶よく訂為べし。集説に味岡荘林村に卑田と呼地あり」といへるは取がたし已にいふごとく林村は、旧は丹羽郡なれば然あるへき理りなし。」(p77)

 

基本的に『尾張神名帳集説』(というタイトルのはず)に訂正を加えるための本誌ですので、天野大先輩のことを真っ向から両断するのが津田スタイル。
とはいえ、この神社に関しては情報が少なすぎるので何とも。
「山神社」というワードが出てきますが、この名前の神社は村中いたるところにあったでしょうし、「三所明神」や「六所明神」、「十所明神」という名前は、そこらの独立した社〜祠にお祭りされていたものを「集めましょう」ということだったでっしょうから、本来の歴史はよくわからなくなっています。
現在の名古屋市北区周辺でも、「六所」とつく神社が、上飯田含めて3つほどすぐに思い浮かびます。

例えば、

 

こちら===>>>

「六所社」(名古屋市北区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑とか……あれ、今、自分の過去記事を確認して、「ひょっとしてこっちの「六所社」のことが『西春日井郡誌』に載ってるんじゃないの?」って思っちゃった……んですけど……さて、歴史はいかに……といったところでお開きにしたいと思います。

 

高速初詣その1は、まだ続きますけれども〜。

「別小江神社」(名古屋市北区)〜高速初詣その1〜

1/2。
味鋺神社」の参拝を終えて、初参拝、「別小江(わけおえ)神社」へ行って見ました。

 

こちら===>>>

別小江神社 Webサイト

 

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式内社、ということのようです。

ううむ、知らなんだ……。

 

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「略記
(略)
一、祭神 いざなぎのみこと
いざなみのみこと
あまてらすおおみかみ
つきよみのみこと
すさのおのみこと
えびすのかみ
おおわけのむらじ
(略)
一、特記 延喜式(九〇一〜九二二)社にして古く名古屋市史蹟名勝として指定されている。」

 

なるほど……略記すぎ

 

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ううむ、結構遠い。

 

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正月なので、おめでたい感じ。
実際、とても賑わっておりました。

 

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「別小江神社
当社は「延喜式神名帳」に山田郡別小江神社、「尾張国神名帳」に従三位別小江天神とある式内社で、往古は六所明神と称したという。
祭神は、伊弉諾尊をはじめ六神。
以前は、ここより約三百m東北の千本杉にあったが、天正十二年(一五八四)織田信雄の命でここに遷座したという。昭和二十年の空襲で焼失したが、四十一年に再興。
大祭は、毎年十月十日から三日間。神輿も出て賑わう。
境内末社の一つ、延喜八幡社(祭神は神功皇后応神天皇)は昔から安産・小児の守護神として住民の崇敬が厚い。」

 

こちら===>>>

kotobank.jp

 

戦国時代に疎いので、「織田信雄」が誰なのかわからず、コトバンクさん頼り。

 

『朝日日本歴史人物事典』より、

「没年:寛永7.4.30(1630.6.10)
生年:永禄1(1558)
安土桃山時代の武将。織田信長次男。母は生駒氏。尾張国清洲城に生まれる。幼名は茶筅,通称三介。名ははじめ具豊,のち信雄と改めた。「のぶお」とよむ場合もある。永禄12(1569)年,信長が伊勢国司家である北畠具教・具房父子を大河内城に攻めたとき,信雄を具房の猶子にする約束で講和が結ばれ,北畠氏を称した。以後,越前一向一揆討伐,紀伊雑賀攻め,石山本願寺との戦など,信長の主な戦いに参陣している。天正9(1581)年伊賀平定の功により伊賀3郡を与えられ,翌10年の本能寺の変のときは伊勢にいたが,近江土山まで出て光秀敗死の報を聞き,兵をもどしてしまった。そのころ北畠から織田に復姓している。同年6月27日の清洲会議の結果,織田家の家督は信雄でも,3男信孝でもなく,長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり,信雄はその後見役として清洲城尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後,豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り,その後切腹に追いこんだが,やがて秀吉と対立,天正12年には,徳川家康と結び,小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。しかしこのときは単独で秀吉と講和を結び,以後秀吉の越中攻め,小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めののち,家康旧領への転封を拒んで,秀吉の怒りを買い,下野烏山に配流され,出家して常真と号した。のちに家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが,一貫して家康サイドで動き,大坂夏の陣後,家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられている。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び,茶人としても知られる。」

 

……まあ、ざっと読んでもわかりませんが、「織田信長」の次男ということで、いろいろ鬱屈したものもあったのだろうなぁと思います。

 

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いきなり拝殿。

 

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「蛭子社」「金刀比羅社」。
「恵比寿」様と「大黒」様、ですね。
後ろには、御嶽講のものと思われる碑や小さい祠が。
何か、小さい像が隠れておりますが……見えないかな。

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社殿を向かって右方向より。

 

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「清正の石」、だそうです。
「清正橋」の一部……あれ、どこかにありましたね……どこだったかな。

 

こちら===>>>

「味鋺神社(北区)」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑ああ、「味鋺神社」でした。
同じ北区にありますので、取り合ったんでしょうか……。

 

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拝殿……ん、幣殿か……。

 

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ご神木……だったと思います。

 

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提灯。

 

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本殿左手。
手前の石鳥居は、手水場の前にありました。
お正月ですので、このテントのあたりで御朱印を描いていただきました。

 

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石標。
やっぱり「別小江神社」と「八幡神社」が並んで書かれているので、どちらも大切にされてきたのでしょう……か。

 

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めでたい感じ。

 

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御朱印
お正月だからでしょうか、勘亭流のようにダイナミックな文字に墨と金泥で絵が……いや金泥かどうかは知りません……あ、そうだ、いただいたこれ、松の葉なのですが、まだ家の高いところに飾ってあります。
神社でいただいたおたよりによれば、

 

「三葉の松
別小江神社には、全国でも珍しいと言われる三葉の松があります。常緑樹である松でありながら黄金色になり落葉することから「金運」を得られると言われます。(以下略)」

 

だそうです。
さきほどのご神木が、その松のようです。
このおたより、安倍昭恵総理大臣夫人が参拝されたという記事もありまして……何といいますか、ナイスタイミングといいますか、本当にこの人はいい人で、あちこちに出かけているのだなぁと……ご本人はクリスチャンでしたっけ?

 

さて。

尾張名所図会』を探して見たんですが、どうもなさそうなので、

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑『尾張志』の「春日郡」より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
56コマです。

 

「別小江神社
延喜神名式に見えて今在所詳ならず」

 

……あれ。
ううむ……。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』を見てみます。
404コマです。

 

「別小江神社

別は和気と訓べし、小江は仮字也、○祭神在所等詳ならず
連胤 按るに、春日郡乎江神社の別宮なるべし、されど今共に在所だにしれずなりしには、いかにともはかりがたし、集説に、物部印葉連之弟大別連歟と云るは例の推量りなるべし、(略)」

 

を……あれ、結局よくわからない。
「物部大別連公」は、『先代旧事本紀』で触れられており、

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

「この連公は難波高津の宮で天下をお治めになられた天皇(仁徳)の時代に侍臣を承り神宮を謹んでお祭りした。軽嶋の豊明宮で天下をお治めになられた天皇(応神)の皇太子である菟道稚郎子と同腹の妹、矢田皇女は難波高津の宮で天下をお治めになられた天皇(仁徳)の皇后となられたが御子をお授かりにならなかった。それで侍臣の大別の連公に命じて皇子代(諸国の国造の民の一部を割いて皇族名をつけその租税を皇室関係の経費としたもの)を定められた。皇后の名を氏とし、氏造とし改めて矢田部の連公の姓を授かった。」(p262)

 

とあります。
日本書紀』には登場しませんので、独自の伝承なのでしょう(信憑性はよくわかりません)。
「大別連公」から「別小江」、「おおわけ」から「わけおえ」になった、というのはちょっと納得しがたいですが、物部氏勢力がこの辺りまであった、ということなのかもしれませんし、近隣の「味鋺神社」などの物部系伝承によるものかもしれません。
そうなると、「乎江神社」という式内社の別宮という話は成り立たなくなりますので、さてどんなものなのか。
少なくとも延喜の頃に、「別小江神社」と呼ばれた神社があったのは確かです。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』ではどうでしょう。
166コマです。

 

「別小江神社
祭神 今按社伝祭神六所明神にて大乃伎神社の條に記せるが如くなれど例の疑し別小江神と云に據らば春日部郡乎江神社の別社などにやあらんされど彼乎江神社の所在詳ならねば今決めがたし
(略)
今按一説に春日井郡小田井庄上小田井村にます諏訪社なりと云れどこは固より春日井郡にて山田郡にはあらずと云ひ又更に由緒もなければ従ひがたし安井村の方は本国神名帳に大江天神とあり此村に地名に大江葭山千本杉など云處あれば一つの據とすべくまた浅野長政の父勝行が此村に住て大江八幡を祭りしとき社司稲垣某に與へし免状の文に別小江神社其方は社人の事候間五百文餘令修造云云天正十二申二月十五日勝行(花押)稲垣十太夫殿とあり是亦証するに足れり姑く附て考に備ふ」

 

↑「乎江神社」も所在不明、「別小江神社」も実は所在不明で、「六所明神」がそうなんじゃないの、的なノリで定められたっぽいです。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 西春日井郡誌

 

↑『西春日井郡誌』を見てみましょう。
203コマです。

 

「別小江神社(式内) 萩野村大字安井字東出二百二十番地にあり。祭神伊弉諾尊伊弉冉尊、大日孁命、素盞嗚命月読命蛭子命を祀れる村社なり、一般には大別連を祀るといふ、創始年月詳ならざれども、延喜式神名帳に山田郡別小江神社、本国神名帳に、従三位別小江天神とある官社にして、元は当所千本杉と称する所に鎮座ありしを、天正十二年、織田信雄の命により、今の地に遷座せり、時に修造料五百文を下附せられたり、其証文今猶社内に存せり、慶長十三年、伊奈備前守検地の際、社領を没収せらる。(略)殿宇には神殿、拝殿、祭文殿等あり境内神社に五あり、八幡社(祭神神功皇后及誉田別尊)神明社(祭神天照大神)御嶽社(祭神大己貴命少彦名命)金刀比羅社(祭神崇徳天皇)津島社(祭神須佐之男命)之なり例祭は十月十日とす。
八幡社の由来。当社は元、別小江神社境内に於ける一村社なりしが大正九年六月十五日、其境内神社として合祀せらる、往古神功皇后三韓を征し給ふや、凱旋後、筑紫に於て皇子御降誕あり、其時尾治国造、稲種御産屋に奉仕し御神胞を奉戴して当国春日部郡安井邑に帰り之を千本杉に奉安して、大胞(おほえ)の神と称す。天智天皇の白雉七年九月始めて官幣を奉り後神功皇后及誉田別尊を祀れり、称して延奈八幡といふ永正十七年八月大洪水ありて社殿大破に及びしが、安井郷士浅野又左衛門長勝(旧姓は藤井ならんか)津島に地を賜りて之に移住しこの八幡社も共に遷座したりき、天正十年長勝は、其従姪安井郷士犬飼八郎左衛門秀長と共に信長の命によりて秀吉に従属し、毛利氏を攻めるや、秀長乃ち誉田別の神像を奉戴して出陣し、神瑞によりて姓を浅野と改め、天正十一年、安井に帰りて社殿を造営し、奉戴せし所の神像を奉安せり、又是と同時に津島より神功皇后の神像をも遷座合祀せしものなり。(略)
爾来当社は軍神として、武運の長久を祈る将士の崇敬特に厚く、祭祀料又は神領を奉り、社殿を造営する等の事、古来屢々行はれたるが如し、尚世俗安井の里にて出来し藁を、産褥に敷く時は、安産疑なしとて、今尚其の説の盛に行はるるは、蓋し当社の由来より出しものならん。
現今安井には、犬飼、浅野の性最も多く、毎歳八月十五日には、犬飼祭りとて、此の一族の祭典ありて、村民に神酒を施與す。」

 

神社でいただける由緒書にも同様の記事があります。

 

「往古神功皇后三韓を征し給ふや、凱旋後、筑紫に於て皇子御降誕あり、其時尾治国造、稲種御産屋に奉仕し御神胞を奉戴して当国春日部郡安井邑に帰り之を千本杉に奉安して、大胞(おほえ)の神と称す。」

 

↑ここにある尾張国造の「稲種」というのは、「日本武尊」の妃の一人「宮簀媛」の兄「建稲種」になるのでしょうか……ちょっと年代設定に苦しい部分がありますけれども。

とにかく、胞衣(えな)を祀ることで「大胞(おほえ)」と呼ばれた神社ができ、それが地名の由来にもなり……で、「別小江」にもつながっている、という感じでしょうか。

うーん……難しい。

尾張国神社考』(原題「尾張国神名帳集説本之訂考、ブックショップマイタウン発行)には、やっぱり所在がわからず、と書かれており、どうも江戸の末期には「別小江神社」と呼ばれている神社はなく、「六所明神」がそれで、国学の隆盛やら何やらで式内社同定が熱心に行われるようになってきて、改めてここがそうだ、とされたのではないか、と思います。

延喜式の頃の「別小江神社」かどうかはわからないけれども、地域的なもの、規模的なものなどから考えて、蓋然性は高い、ということでしょうか。

物部系の神、というのは後付けのように思われますが、この辺りに物部氏の影響が大きかった可能性も十分にありますし、うーん、もうちょっと尾張の物部系氏族について情報がないと、妄想もできませんですね……。

今度は初詣でなく、もうちょっとゆっくりお参りしたいものです。

 

 

さて、そろそろ……いえいえまだまだ参ります。

「味鋺神社」(名古屋市北区)(再)〜高速初詣その1〜

(通常営業です)。

 

1/2。

「星神社」の参拝を終え、まだまだイケる俺イケると時刻に勇気付けられ、ふと思い出した味鋺神社」に向かってみました。

 

こちら===>>>

「味鋺神社(北区)」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

 

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こちらも氏子さん、地域のみなさんで賑わっており、あまり写真を撮ることもできず、恐る恐るお願いしてみると、御朱印はいただけました。

 

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御朱印

 

 

さて、前回は『尾張名所図会』を引用していますので、今回は別ラインから。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑『尾張志』の「春日郡」より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

52コマです。

 

味鋺神社
味鋺村にありて今は六所権現と称す 大日孁尊日本武尊建角見命天児屋根命武甕槌命誉田天皇の六所也神名式に春日部郡味鋺神社尾張国神名帳従三位味鋺天神と見えたり末社神明社春日社天道社天神社山神社八幡社八龍社三狐神社あり」

 

おっと、わりとあっさりめでした。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』はどうでしょうか。

400コマです。

 

味鋺神社
味鋺は安智麻里と読り、(古點にミマリとあるは誤也) ○祭神味間見命歟 ○山田庄味鋺村 (府志云、鋺今俗作鏡者非也、されど集説に、味鏡と書てアチマと唱ふると云り) に在す。今六所明神と称す、○旧事紀、(天孫本紀)宇摩志麻治命、亦云味間見命、集説云、按、物部氏祖味間見命也、と云るは然るべし、張州府志に、祀大日孁尊、日本武尊、建角見命、天児屋命武甕槌命、誉田天皇と云るは例の信がたし、伴信友云、宇摩志麻治命に対へて思ふに、味鋺も宇麻志麻里ならむか、されど村名の今の唱には叶はずと、(速胤)按るに、さることながら、是等こそ後世訛れるに違ふまじけれ、(以下略)」

 

物部氏の祖先「宇摩志麻治(うましまぢ)命」の父神は、古代史妄想で大人気の「饒速日命」です。

天神で、「長髄彦」と仲良くなったんですが、結局彼を裏切って「神武天皇」に降ったお方です。

その辺りの神話については、いろいろな方がいろいろな説を唱えておりますので、各々確認していただければ、と。

軍事を司ったらしき物部氏が、原大和朝廷において大きな勢力だったことは、疑いないところかと。

さらに、いつの頃かはわかりませんが、東国にも影響力を持っていたようで、当然尾張にも。

で、「延喜式神名帳」でも、「物部神社」というのが尾張国式内社としていくつか掲載されている、と。

この辺りのことをいろいろ調べてみたいな、と思いながら、なかなかできておりませんで……もちろん記録はそれほど残っていませんので、もっぱら妄想になるのですが。

うーん……関裕二氏にまかせておけばいいような気もしてきました。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 西春日井郡誌

 

西春日井郡誌』も観ておきましょうか。

200コマです。

 

味鋺神社(式内)楠村大字味鋺字堂前九百十一番にあり、宇麻志麻治命、大日孁尊、日本武尊、別雷尊、天児屋根尊、武甕槌命、品田別命を祀れる郷社にして、鎮座年代不詳と雖も、延喜式神名帳に山田郡味鋺神社、本国神名帳従三位味鋺天神、尾張旧記類従に従二位上味鋺天神とある官社なり、記録湮滅して由緒分明ならざれども古昔は、護国院の住職兼て神に仕へ居たりと覚ゆ、造営につきても、享和三年宝暦、寛延三年等の棟札を蔵すれども其以前は明ならず、
(略)
境内社としては、神明社(祭神天照大神)、洲原社(祭神菊理姫尊)、熱田社(祭神日本武尊、倭姫、大山祇神)、金刀比羅社(祭神大物主尊)、秋葉社(祭神火具土尊)、津島社(祭神須佐之男尊)等あり。
例祭は十月九日にして、当日神事として、古は宇麻志麻治命御陵墓と言ひ伝ふる今の東春日井郡勝川町なる二子山へ、神輿の渡御ありしが今は其の東方なる東八龍神社(味鋺の南端にある御旅所へ)御幸あり、渡御の次第は、榊、獅子、頭、紅白数十旋の旗、鉾、弓等を持ちて行列を作り、子供伶人音楽を奏して、之に随ひ、神輿の前を進む、神輿の後方には、甲冑騎馬の武者数人、裃を着けたる者一人供奉す、之を御旅といふ、渡御の式終りて、流鏑馬数番あり、馬場にて騎射を行ふ、式頗る古風にして、其の名遠近に伝はれり。」

 

↑神社の案内は、この辺りを参考に書かれているような気がします(あ、逆ですね……『西春日井郡誌』が社伝を元に書かれている、と)。

どうやら二子山が、「宇摩志麻治命」の陵だと考えられていたようで、うーんどうなんでしょ……一度行ってみないことには、ですね。

それでは、『尾張国神社考』(原題「尾張神名帳集説本之訂考」、発行:ブックショップ「マイタウン」)より。

79ページ。

 

従三位味鋺(うましまりの)神社天神 [集説云]味鋺村六所明神 [鹽尻記云]いせ、やはた、春日、加茂、鹿島、熱田の六所といふものは後也。社僧護国院(略)
[正生謹考]あしまのみやしろと読奉るべし。あじまの地名は、もとは神名に出たり。此地上古に美麻治命の領たまひしに歟。崇神天皇の御宇、その神を祭る宮代を立賜ひて、則うましまちの神の社といふ。其後春秋を経てウマシマリと訛る、(略)そのうましまぢの語自然に約りてあじまと成有なり。ウマの約阿、マリを下略す(但しあじまのしは、うましのし也。あぢのちにはあらず。)延喜式味鋺の文字を下せるも正字にあらず、美味(うましうやし)は旧来の讃称也。鋺はまりにて、其頃祭器に玉椀、大鋺などあれば、取あへず塡たる物也。二宇連聲の熟語にはあらず、予始におもひしは、あじまは網島ならむ。(西園方に細曳(あびこ)村網干村などあれば)と思ひ詰たりしが、中々に神名の方まされり。集説本出口延経案。物部氏ノ祖、味間見命也(略)といふはいひざま迂遠し、(略)」

 

津田正生翁は結構独自の説が多いので、なかなか全部を信頼するわけにも参りませんが、「味鋺あじま)」という難読地名の起源として、往時から共通認識として「うましまぢ」「うましまで」という物部氏の祖の名前なのではないかと考えられていたようです。

そもそも、「宇摩志麻治命」という名前自体が結構特異なもので、「ウマシ」はわかるとして、「マヂ」「マデ」ってのはなんだろう……「ニギハヤヒ」との繋がりもあまり感じられませんし。

とはいえ、記紀神話にも登場するので、大和朝廷的にはオフィシャルな「ウマシマヂ」。

オフィシャルとはそれが正しいというわけではなく、「正しいと決めた」というだけなので、何らかの作為があってもおかしくはないわけですが、記紀神話成立時期にはまだそれなりに勢力をもっていたと思われる物部氏も、その作為は飲み込んでいた、と。

後に『先代旧事本紀』という、物部系を重視した歴史書が登場しますが、ここでも「宇摩志麻治命」はそのまま登場しており、この時代になると物部氏(それに近い氏族)でも、祖先の名前が失われていたのではないか、と思われます。

先代旧事本紀』では、尾張氏も同系統だ、ということになっています。

そうした認識がもともとあったもので、それを元にして『先代旧事本紀』が書かれたのか、あるいは『先代旧事本紀』の影響から物部氏尾張氏が同根ということになったのか……「物部神社」が古くから尾張にあったことは疑いないようなので、『先代旧事本紀』の元ネタがこの認識だったのでしょう。

ただ、この「同じ氏族だ」、という主張が、高田崇史的に考えれば、「もともと同族だったわけではなく、ある時代に合流した別氏族だったのだろう。それも、平和的に好ましい合一がなされたかどうかはわからない」、要するに物部氏尾張氏を征服したのではないか、とも考えられるわけです。

物部氏側の認識として登場する系譜で、尾張氏側にはそういった主張は残っていないようですから。

うん……これ以上は知識不足を露呈するだけなのでやめときます……もうちょっと掘ったら面白い妄想が浮かびそうなのですが……。

 

まだまだ続きますよ〜。

近況

6/4。

 

よんどころない事情で、西へ。

 

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まあ、↑これなんですけれども。

 

○こちら===>>>

『第34回世界遺産劇場ー嚴島神社ー 平清盛公生誕900年前年祭 - 紅沢たつきち商店

 

↑参戦するべく、広島へ。

 

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広島駅付近の神社をいくつか巡り、その間にiPhoneの調子が悪くなって焦り、何とか持ち直したのでホテルにチェックインしていざ宮島へ。

船の上からは、スマホのカメラではこのあたりが精一杯。

 

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逆光清盛公。

 

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狛犬さんズ。

 

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暮れゆく瀬戸内。

 

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狛犬さんズその2。

 

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暮れゆく瀬戸内その2。

 

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突然の狛犬さん。

 

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「清盛神社」方面。

 

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ひょっこり狛犬さん。

 

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闇の中の狛犬さん。

 

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青くしたら結構いい感じに。

 

ふう……昨日(6/5)、早起きできたら、早朝に「嚴島神社」を再訪して、御朱印帳を購入して、市内の神社をもう少し回って、帰宅しよう……と目論んでいたのですが、かなりぐったりで起きられず、腹も痛いので、用心しぃしぃ帰宅しました……残念。

夜の「嚴島神社」を間近で見ながら写真が一枚もないのは、ライブ中の撮影禁止だったからで、いずれどこかにライブの様子がアップされたり、WOWOWで放送されたりしますので、気になる方はそちらをご覧ください〜。