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神社仏閣ラブ(弛め)

「日吉大社」(考)〜その4

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑『近江輿地志略』の続き、行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
169コマからです。


「[下八王子社]中七社の第四也、所祭天之御中主尊也。【日吉記】曰俗形衣冠、本地虚空蔵、天之御中主尊天神第一是也、明星也。祭礼七社外当社神馬有之。東方石、号天岩船、明神乗之御臨幸也、小走井明星水也云々。(略)臣按ずるに是天之御中主尊を祭り奉るなるべし。【扶桑明月集】【神祇宣令】等に天神七代に或は一神を加へ、又五男三女の事をいへども煩し。夫天之御中主尊と申奉るは我国天地の神を封ずる御名也、天を挙げて以て地を包ぬ、中は即ち天地の中也、主は即主宰の謂也とこしへに高天原にましまして、凡上下大小の神皆此尊の化する所也、八は神道のよみする處、故に八王子の名あり、王子は尊称の謂也。(略)」

 

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「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

今回の「日吉大社」最初の記事で、「八王子社」と書いている社です(現在は「八柱社」)。
『近江輿地志略』の筆者は、「天之御中主神」ということにしておきたかったようです(諸説あります)。


「[夢妙幢社]【日吉記】曰、俗形、妙幢菩薩是也、善夢成就、悪夢消滅、唱之獏食悪夢云々。妙幢菩薩の事【金光明経】に出たり。
[息三郎殿]【日吉記】曰、神功皇后御子也、夷三郎殿各別也云々。息長は神功皇后の姓也、何れの御子なるや考へず。
(略)
[岩瀧社]【日吉記】曰、女形竹生島弁財天是也。按ずるに岩瀧社は蹈韛姫命なり、事代主命の子也、神武天皇の皇后たりといふ。下七社の第五也。【威中記】二十八座主教円法印奉崇之云々。
[田付社]【日吉記】曰、俗形、岩瀧北立之云々。
[悪王子社]【日吉記】曰、童形愛染明王、当社後下八王子辺瑞籬、下八王子鳥居東西瑞籬と。
[船石]下八王子社の東にあり。下八王子初御降臨の地といふ事、下八王子の條下にしるす。
[明星水]船石の南にあり、一名走井ともいふ。(略)
[夷社][三郎殿]【日吉記】曰倶俗形立烏帽子、以上両社東向建之在山末北云々。」

 

↑この辺りは、見かけた社もあれば、神仏分離でどうにかなっちゃったっぽい社もありでしょうか。
「岩瀧社」は今の「巌滝社」だと思います。
どうして「巌」と「滝」なのか、という疑問があったんですが、「宇佐宮」の御祭神が「田心姫神」ということになっており、これで「宗像三女神」が揃う、ということですね。
古事記』には、「田心姫」は、「大己貴命」の妻となった、という伝承があるので、「西本宮」のすぐ近くの「宇佐宮」にお祀りしてある、と考えてほしいということでしょうか……。


「[山末社]【日吉記】曰、俗形衣冠、摩利支尊天、琴御館宇志丸神位是也。上古大宮回廊内建社云々。又曰、宇志丸大宮御遷宮奉時御神詠「東より琴の御館にさそはれて此山末にとまる松風」。依此御詠歌、琴御館神位号山末大明神。社者大宮東脇建之、然後大宮御造営時山末社下引之、下八王子西、東向也。然北少引上南向建立也云々。又曰、宇志丸者活魂命後胤当社司始也常陸国鹿島上洛云々。【日吉山王記】曰、号琴御館今山末明神是也。常陸国人也、家有琴一張。宇志丸之身欲求不詳之時、琴絃自鳴敵雖来伺更不便、而有人竊懐悪心欲討宇志丸、而有琴徴不得遂本意、仍以宇志丸之女爲妻、多年之間有男女子其時語妻云、父與夫以何爲重乎、妻答云夫爲重。爰悦云然則可絶琴絃。妻即絶、其時欲討宇志丸。有人告。宇志丸曰我有琴徴更不信、人執而之見。宇志丸見絶絃驚出奔来而住志賀津云々。四月午日経供養、当宇志丸遠忌日所供養也云々。(略)」

 

↑こちらは「氏神神社」のことのようです。
「琴御館宇志丸」は、元々は、「日吉大社」の伝承でもよくでてきます琵琶湖畔の唐崎の住人で、「大己貴神」を「西本宮」のお祀りした人だとか……この唐崎に神が流れ着いて、地元の民が祀る、という構造がいろいろ重なっていたりするので、一層複雑で起源を探りにくくしているように思います。
要するに、何かが流れ着くらしい、琵琶湖西岸に……。

 

「[氏永社][王御子社]、同社なり【日吉記】曰、氏永左方始、希遠宿禰神位也、俗形。永澤社同前事云々。(略)」

 

↑こちらはそのまま「氏永社」で残っています。


「[二宮]上七宮の第二にして小比叡大明神是也。【日吉記】曰、御齢七十有餘、僧形、法服黄被。天神第一国常立尊、薬師華臺菩薩、地主権現、小比叡大明神、天地開闢元神、諸神総大祖神是也。宝殿建立、初琴御館造之。第六面足尊時代当山来到、天竺狗留尊仏、在世波母山小比叡杣鎮座、御詠歌日本開闢以前也「はも山やをひえの杉の獨居は嵐も寒しとふ人もなし」云々
(略)」

 

↑というわけで、「東本宮」までやってきました。

 

「【日吉山王新記】曰、【山王神道伝記】云、昔人寿二万歳時、釈尊迦葉仏譲、住都率天時、是大海聞波浪有梵音。釈尊従浪所留止、来日本国、其波止一蘆浮海上、蘆化爲一島謂之波止土濃、今比叡山下大宮権現垂迹之地是也。其後人寿百歳時、釈尊又自天竺到豊葦原中国時、鵜葺草葺不合命之世也、釈尊到楽々浪帰志賀浦、逢漁翁。翁爲地主。釈尊曰、我此地弘仏法如何、翁答曰我久主此地、自人寿六千歳時、至今見湖水七度変枯爲桑田。若此地爲仏法結界則吾無釣處。釈尊将帰、会薬師善逝自東方来告白、我自人寿二万歳時爲此地主。彼老翁未知有我、我何惜之。今献釈尊宜爲仏法流布之山、相約巳而東西各去。翁者白鬚明神也云々。臣按ずるに所祭国常立尊なるべし。地主神といふも尤也。国は天地なり、常立は開闢より永々に至るまで堅固にして動かざる謂、尊は御事也、国常立は天地万物の霊、一にして対なき神也。(略)面足尊の時より此地に来り給ふといふ事如何。国常立尊は天地同根万物一体の神にて天地の始より天地の終まで常に天地の間に立ち給ふ神なれば地主の神ともいふなるべし。如何ぞ面足尊に至つてこれをいはんや。蓋面足尊は土徳の神なる故に土地の義について面足尊に至つてといふにや。面を陽とし足を陰とす顔面具足にして人の道也。蓋土に至て万物備はる故此時といふにや。又釈尊の鵜葺草葺不合尊の時来り給ふ事如何。日本へ西土仏法の通ぜしは、人皇三十代欽明天皇の御宇也。夫より以前は仏法といふ事も知らざればまして釈尊の御名をしるべき謂れなし。(略)然れば則かやうの事は後世仏法渡る以来両部の神道となしける時よりいひ出せる説なるべしかかる事を一々論せば限あるべからず故に省略す。」

 

↑伝承が書かれているのですが、「国常立尊」や「面足尊」なんかを持ち出しているのが当時のインテリ層っぽさを醸し出している気がします。

 

「然れば則かやうの事は後世仏法渡る以来両部の神道となしける時よりいひ出せる説なるべし」

 

↑と筆者が言うように、すべて神仏習合後の解釈、と考えるのが妥当なところかと思います。
本地垂跡での、日本の神々と仏教諸尊の関係が、寺や神社によって統一されていないんですが、「なぜ、この神とこの仏が結びついたのか」ということからわかるものもあるような気がします……こじつけだったりもしますけどね(「第六天」と「面足尊」なんて、「6(番目)」ってだけの関係っぽいですからね……)。


「(略)【鎮要記】に大宮二宮の号につきて数個の問答をのすれ共、皆浮屠氏附会の説也。或曰く大宮を大比叡と號し、二宮を小比叡と號す。是を以てみれば一二の儀にも通ひ侍るにやと、臣曰く然らず大小は暫く設けたるのみ、国史実録にも比叡神或は小比叡神とばかりのりて、大比叡といふことをのせず。比叡は山の名也故に比叡神といふ。小比叡とは今の波止土濃の社地を小比叡といふ也、唯其地の名によりて名付奉るまで也。小比叡は小槻小津等の小と同じ意にて大小の事に非ず(略)【三代実録】貞観元年正月二十七日甲申奉授小比叡神従五位上といふこと見えたり。同日比叡神に正二位を授けらるることも見え侍れば、当社は地主神にて古よりある處也。大宮は当社より後に鎮座なれども、朝廷よりの崇敬も重し、本社ともいふべきにや、故に大宮の名あり。総て廿一社とはいへども大宮と当社とを本とす。(略)」

 

↑この辺りも、「大比叡・小比叡」、「大宮・二宮」という呼称の違いから、二つの神社の関係を説明しようとしているようですが(で、ここで解かれているのはこじつけっぽいですが)、共通認識としてはこの「東本宮」のほうが古く、「西本宮」はそのあとで祀られた、ということになりますか。
うーん……妄想するには知識が足らないので、まあ、そんな感じだと思っておいてください。0


「[十禅師社]所祭天津彦々穂瓊々杵尊也。【日吉記】曰、(略)天津彦々穂瓊々杵尊地神第三尊神、延暦二年御影向、同四年七月二十四日於山上御兒形。伝教大師御拝敬、則建宝殿号皇御孫尊。中臣祓明也。御神力現形古今種々事。(略)【神祇宣令】曰、天照大神以三種神器授賜皇孫永爲天璽。彼皇孫者天照大神皇孫、天瓊々杵尊今日吉十禅師是也、私云是一説也。【扶桑明月集】曰、天児屋根尊、私曰是一説也。【日吉社参次第記】云、問如古記者十禅師天児屋根命、是云何、答未勘本據不審記也。如一記云則、天彦彦火々瓊々杵尊是契本記第十禅師名義如前、況吾山則天子本命道場、勧請鎮守亦宗廟帝祖神也。天児屋根命者人臣藤家祖也。三十二神随一故、葦原降臨之陪従是也、粗如引、具見本記亦明、各可披耳云々。又曰【扶桑明月集】曰、十禅師(若僧形童子形)桓武天皇延暦二年天降地主宮前。【神祇宣令】曰、治護宝祚之隆退去蒼生之災、神世当第十代爲受禅即位神故名十禅師神亦名十禅師云々 臣曰く大宮二宮は古昔より所在の神社也。其餘の社は皆延暦年中、教勧請の事なれば悉く両部の神社也、故に其家の書記のみのす、神道を以て論ずるに及ばず。(略)」

 

↑こちらは今の「樹下宮」のことです。

 

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「日吉大社」(滋賀県大津市)(その2)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑今は、御祭神は「鴨玉依姫神」となっています(「大山咋神」の妻)。
瓊瓊杵尊」「天児屋命」などいろいろ登場しておりますが、結局は、

 

「伝教勧請の事なれば悉く両部の神社也、故に其家の書記のみのす、神道を以て論ずるに及ばず。」

 

↑ということにしかならないのかな、と。

 

「[大行事]中七社の第一也。【日吉山王新記】曰、高皇産霊尊、又曰大行事、此大神天地開闢之時天降云々。同引【神祇宣令】曰、大勅行天位事故曰大行事云々。【日吉記】曰、大行事権現、俗形猿面、弥行事猿行事同也。高皇産霊神猿田彦大士。中臣祓】神漏岐大行事、神漏美天照大神、以此両神之力集八百萬神皇孫天降云々。 臣按ずるに先にも演説する如く伝教大師の勧請にして本より両部の神道なれば臣が知らざる所、何をかいはむ。然れども其大に違ふ事は少しく言はずんばあるべからず。【日吉新記】には、大行事を高皇産霊とし、【日吉記】には高皇産霊尊猿田彦大士といへり然れば【日吉記】の説は両座とするにや不審し。然れども猿行事同じといふ時は猿田彦なるにや。抑高皇産霊尊は天にあり、萬物を化生する功を発し給ふ、実に国常立尊の同一体也。猿田彦大神は皇孫降臨の時、天八衢に居て天鈿女命にあへる神也。高皇産霊尊とは其違へり如何、猿田彦大士は大神といふを誤れるなるべし。神漏岐は大行事、神漏美は天照大神といふこと非なるべし。【中臣祓】にいへる神漏岐は高皇産霊神をさし、神漏美は神産霊尊を指す也。(略)」

 

↑こちらは今の「大物忌神社」です。
御祭神は、今は「大年神」ということになっていますが、これが「高皇産霊神」だったあり「猿田彦大神」だったりを持ち出しています。

 

「【日吉記】曰、大行事権現、俗形猿面、弥行事猿行事同也。高皇産霊神猿田彦大士。」

 

↑この辺りから、昔からどうやら「猿面」の神だと考えられていたようですが、それがなぜなのかはよくわからない、と。
うーん……まだまだ引用は続きます〜。

 

「日吉大社」(考)〜その3

さて。

と、いろいろの前に、以前「日吉神社清須市)」で引用した、ウィキペディアの「二十一社」一覧を再掲します(自分でも、どちらがどちらか混乱してきまして……あ、「日吉神社清須市)」の記事では、結構適当なことが書いてありますので、ご容赦を)。

 

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「日吉神社」(清須市) - べにーのGinger Booker Club

 

見方としては、「現在の社名(御祭神)・神仏習合時代の宮名」です。

 

「上七社(山王七社)

西本宮(大己貴神)・大宮(大比叡)
東本宮(大山咋神)・二宮(小比叡)
宇佐宮(田心姫神)・聖真子
牛尾神社(大山咋神荒魂)・八王子
白山姫神社(白山姫神)・客人
樹下神社(鴨玉依姫神)・十禅師
三宮神社(鴨玉依姫神荒魂)・三宮

中七社

大物忌神社(大年神)・大行事
牛御子社(山末之大主神荒魂)・牛御子
新物忌神社(天知迦流水姫神)・新行事
八柱社(五男三女神)・下八王子
早尾神社(素盞嗚神)・早尾
産屋神社(鴨別雷神)・王子
宇佐若宮(下照姫神)・聖女

下七社

樹下若宮(玉依彦神)・小禅師
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・大宮竈殿
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・二宮竈殿
氏神神社鴨建角身命・琴御館宇志麿)・山末
巌滝社(市杵島姫命・湍津島姫命)・岩滝
剣宮社(瓊々杵命)・剣宮
気比社(仲哀天皇)・気比」

 

それでは、↑もご参照いただきながら、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑『近江輿地志略』の続き、行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
161コマより。
適宜、ブログ筆者により改行を入れます。

 

「[日吉大宮]楼門拝殿鳥居等ありて厳重也。(略)所祭の神体異説紛々たり。
延喜式神名帳】曰、【日吉神社。】同神祭部曰、日吉神社一座云々。
旧事本紀】曰、大己貴神之弟大年神之子大山咋神、此神者坐近淡海之比叡山
【公事本源】曰、四月中申日日吉祭、此社松尾社同体也云々。
山崎垂加が曰く、日吉は大宮・二宮・八王子・聖真子・客人・十禅師・三宮の七社まします。是天神七代を鎮座し奉る第一国常立尊也云々。
【日吉伝記】曰、山王権現者與大和国大三輪神同体也云々。
【神社考】曰、大己貴命有七名。伝教大師取此七神以勧請山王七社而准天七星云々。 
社司行丸【日吉記】曰、大宮者地神第二尊神、日本大国主神大己貴命鎮護於世々天子叡心故号比叡神云々。 
大江匡房【扶桑明月集】曰、日吉與三輪大物主神此国地主也云々。
【山王秘密記】曰、大宮権現者三輪影向也、昔者雖不彰於神体、吾山鎮座之今者正以現霊貌顕其尊貌故号大宮云々。 
【日吉山王新記】曰、大宮権現者爲天照大神之分身故号大宮云々。 
【日吉神道秘密記】曰、宇志丸有懇祈神号其時於闇夜之空中如日輪光明照曜、就日輪之験崇日吉大宮権現云々。
【日吉鎮座記】曰、人皇二十九代天智天皇御宇白鳳二年三月三日琴御舘伏乞拝於神像而不止。或夜光曜如白日、其中有大文字、更無他物因之奉称大宮云々。康和五年十二月十日官符曰、権中納言大江匡房宣奉勅。御神者大八島金刺朝廷顕三輪明神。大津宮御宇之時、初八ツ柳天降坐。又相伝云、奉尋本体爲天照大神之分身、或号日枝或申日吉。是則垂跡於叡岳麓、施威於天下御云々。 
【菅家清人日記】曰、欽明御宇三輪垂迹、天智聖代八柳降臨、今比叡山坂本日吉社是也。而桓武天皇御宇、重伝教大師詣三輪社、有御祈念。明神即現三光住大師項。大師仰明神之感応、帰比叡山坂本。其時三所移留三光、是三聖之霊地。所謂點其所崇三聖、是則大宮二宮聖真子。是故国史云、澄闍梨詣三輪明神、奉請叡山守護神云々と。
(臣)按ずるに以上の諸説紛々たり。一条兼良北畠親房皆有識の人也、それすら誤つて垂迹両部の道に入りて違へる事のみ多き由先輩之を論じたり。(臣)今何をかいはむ。
旧事本紀】の説に據りて大山咋神とせば可ならむか。【旧事記】は我国三部の本書なれば此説省き難し。(臣)も論弁なきにあらねども故あつて誌さず。」

 

休憩……「大宮」とあるので、「西本宮」のことだと思われますが、御祭神についてはよくわかりません……ひょっとすると、「二宮」である「東本宮」についても語っているのかもしれません。

現在、公式には、「西本宮」の御祭神は「大己貴神」となっており、それを「大神神社」の「大物主神」としていたり、「山崎闇斎」は「国常立尊」だと言ってみたり、「天照大神」の分身と言ってみたり……一方の「東本宮」は「大山咋神」とされており、こちらはそれほど異論は内容ですが……「大己貴神」が七つの名前を持っていたから「七社」なのだとか、面白いっちゃあ面白いですが……とにかく、主祭神はよくわからない、というのが実情と。

 

「【日吉山王新記】【鎮要記】倶に曰く、欽明帝の御宇大和国垂迹し給ひ、大津宮の御時は白鳳二年三月上巳に大津與多崎八柳浜に臨幸し給ふ。時に湖上の漁夫に田中恒世と云ふ者あり。神則恒世を召て曰く我を唐崎に送るべしと恒世が船に乗移り給ふ。船中粟の飯を奉れり、神甚だ喜び給ふ。今より後汝が裔孫忘るる事勿れとのたまふ。御舟唐崎に著く則琴御舘宇志丸が軒端の松下へあがり給ふ。此松は彼世に所謂唐崎の一松也。神琴御舘に告げて曰く我は是王法の守護神也、勝地を択べ我鎮座すべしとのたまふ。「大伴の三津の浦わを打きらしよりくる浪の行へ知らずも。」の詠歌は此時なりと云ふ。(略)

三宝輔行記】曰、先師於求法帰朝之海中遇暴風、逆浪巨難、至心発願祈念平著。一人童子化現船頭。先師問曰、童子是誰耶、童子答曰、吾此天台山鎮守圓宗擁護明神也、随使仏法東漸、将屈上人之本国。先師重問曰、如何称号耶、答曰下竪三點加横一點、引横三點添竪一點。先師書文字山王之文字也云々。
【嚴神霊應章】曰、延暦四年(最澄年十九)夷則十七日、忽出神宮寺院、始登叡岳高峯。一化人現身長丈餘。頂有金光。最澄問曰、化人如何権者耶、答曰吾此山王、日域冥神、陰陽不測造化無為、遊心於法性垂化實道、弘誓亞仏護国爲心。又曰、雷電霹靂神、日本名山王。三點即三徳一點不縦横。大比叡小比叡山王云々。
【日吉山王新記】曰、山王神名始自大師。其以前号大日枝明神小比叡明神云々。(略)」

 


「【三宝輔行記】曰、先師於求法帰朝之海中遇暴風、逆浪巨難、至心発願祈念平著。一人童子化現船頭。先師問曰、童子是誰耶、童子答曰、吾此天台山鎮守圓宗擁護明神也、随使仏法東漸、将屈上人之本国。先師重問曰、如何称号耶、答曰下竪三點加横一點、引横三點添竪一點。先師書文字山王之文字也云々。」

 

↑この辺りはもう、天台宗お得意の「大陸帰りの海が荒れたら、謎の神が守ってくれた」伝説ですね(これが元祖なのかな)。


「【嚴神霊應章】曰、延暦四年(最澄年十九)夷則十七日、忽出神宮寺院、始登叡岳高峯。一化人現身長丈餘。頂有金光。最澄問曰、化人如何権者耶、答曰吾此山王、日域冥神、陰陽不測造化無為、遊心於法性垂化實道、弘誓亞仏護国爲心。又曰、雷電霹靂神、日本名山王。三點即三徳一點不縦横。大比叡小比叡山王云々。」

 

↑こちらは、「山に登ってみたら貴人がいたので尋ねると、この地の神で、しかも仏法の守護者です」という、これまた例のやつという感じです。

イメージ的には、地元の信仰を仏教が取り込んで行く過程で生じた葛藤の帰趨、というところでしょうか。

そう簡単ではないのかもしれないですけれど。


「[猿部屋]大宮本殿の左にあり。猿は当社の使者也と云ふを以て猿一匹づつ此部屋に入れおき、参詣の者食物を與ふ。(略)【二十一社記】比叡條曰、猿爲使者事口伝、異朝天台山神獼猴形也。天台章疏中曰神僧者件神也云々と、伝教帰朝の時一獼猴を渡し衣を作りて著す、彼獼猴繁昌して当社にあり又神を以て口伝とす。【袖中抄】のましらの注に曰く、ましともましらとも猿には異名多し。或はたかと云ふ日吉にはたかのみこといふ云々と。(略)」

 

「大宮」が「西本宮」だとしますと、昔はその本殿左に「猿部屋」があったのですねぇ。

今の神猿舎とはだいぶ位置が違います。

 

「【二十一社記】比叡條曰、猿爲使者事口伝、異朝天台山神獼猴形也。天台章疏中曰神僧者件神也云々と、伝教帰朝の時一獼猴を渡し衣を作りて著す、彼獼猴繁昌して当社にあり又神を以て口伝とす。」

 

↑猿が「日吉大社」の神使となった理由についての説です。

結局、「最澄」以後なわけですね(それ以前は大陸でのこととなりますが、仏教で猿といったら「ハヌマン」が浮かんできます……あ、あれはヒンズー教か……)。


「[石塔]是大宮回廊の西門を出で多宝塔の傍にあり。
[多宝塔]是大宮回廊の西門の向にあり。
[七重塔]多宝塔の西にあり。
[七社]これ七社祈念成就の砌建立せりといひ「七所御前」と號す。
[大竃殿]祭神興津彦神也、これ俗の云ふ竃の神也。叡山の僧徒の曰ふ大日金剛界也と。
[新社]大竃殿の傍にあり。聖真子の竃殿と號す。僧徒のいふ本地大日胎蔵界なりと。
以上の三社供に大宮の回廊東門を出て聖真子の社へゆく間にあり。」

 

↑「聖真子社」は、今の「宇佐宮」のことですが、ちょうど修復中で近寄れませんでしたね、そういえば……。
多宝塔や七重塔はもちろんみられませんが、「大竃殿」は今の「大宮竃社」でしょうか。
「新社」というのは「二十一社」に入らない摂社のことかと。

 

「[聖真子(しょうしんじ)社]大宮の左にあり所祭正哉勝々速日天忍穂耳尊なり。二神真心の中より生まれます神故に此名ありと。(略)【日吉新記】曰、聖真子権現託宣曰、大宮二宮奉爲陰陽之神明、於其中我爲出生故曰聖真子云々。」

 

↑「聖真子社」については、「八幡大菩薩」ではないか、という説が【日吉山王新記】の記事にあるようですが、筆者はこれをきっぱり否定し、「天之忍穂耳尊」と語っています。

「聖真子」は、「東本宮」「西本宮」に並んで、「日吉三聖」とも呼ばれているそうですので、「八幡大菩薩」では(申し訳ないですが)役者不足、でしょうか(日本神話的には、ですが)。


168コマに飛びまして、

 

「[聖女社]聖眞子の社の東にあり、是中七社の一なり。祭神下照姫、大己貴命の女也。延喜年中ここに祭る。【日吉記】曰、女形、本地如意輪観音神功皇后是也稲荷大明神是也。神功皇后御本地、神代下照姫是也、大己貴命御姫也。山上舎利会砌、御登山之刻法性坊問之曰、女人登山如何、当山女人禁制也。聖女答曰、我平常非女、爲仏法護持来山麓可守則下山。御垂迹於聖眞子東社壇建立云々。(略)是を以て按ずれば聖女社といふは稲荷大明神と同じ事にや、稲荷大明神倉稲魂神也。元明天皇和銅四年二月九日始めて伊奈利山に現し給へり。地主の神を荷田明神といふを以て稲荷大明神とはいひしなるべし。(略)」

 

↑「聖女社」は、「宇佐若宮」のはずなんですが、今はどこにあるんだろう……「白山宮」のそばにある「小白山社」でしょうか(せっかく行ったのに、本当に何をしていたんだか……)。
御祭神は「下照姫神」。
女人禁制の「比叡山」に女の神がいるのは何故か、みたいなことが『日吉記』には書かれているようです。
これなんかは、「三井寺」に似たような伝承があった気がします……なんだっけな……

 

○こちら===>>>

「三井寺」(8)〜近江めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

↑「護法善神堂」にまつわる伝説でした。

これも天台宗の得意なパターンでしょうか。

 

「[気比社]聖女社の東にあり。所祭仲哀天皇也。【日吉記】曰、童形、本地聖観音越州敦賀郡勧請之。伝教大師御時也。第十四代仲哀天皇是也云々。臣按ずるに【日本書紀】曰、仲哀天皇二年立気長足姫尊爲皇后。二月幸角鹿即興行宮居之、是謂笥飯宮。又曰神功皇后十三年命武内宿禰従太子令拝角鹿笥大神云々。然れば気比大神仲哀天皇たる事明けし。本地垂跡の説は臣が知らざる所なれば論せず。童形とする事如何なる故にや心得難し。気比社は下七社の第七也。(略)」

 

↑……「気比宮」も、自分の記事には見つからない……うーん。

 

「[客人(きゃくじんの)宮]聖眞子の竝東にあり。所祭伊弉冊尊なり。【日吉記】曰、女形、本地十一面観音、日本開闢神也、伊弉冊尊是也。白山大妙理権現御影向我山也、栢木上有御影向。但社無之、相応和尚於横川坂御対面之後建社。天安二年六月十八日有遷宮小白山・大己貴両神同座、後社建立也云々。(略)」

↑現在の「白山宮」です。
この他、【慶命大僧正記】からの引用で、どうもこの方が「白山妙理権現」の御神徳を受け、「賓客」だということで「客人明神」としたとか、【日吉山王新記】他に「伊弉諾尊」が御祭神だと書かれていたりとか。
筆者は、

 

「先白山権現伊弉諾尊とし奉る事不審也。伊弉諾尊を以て女体とし奉る事を不審するにはあらず、如何となれば本地垂跡などとて品々の事あれば女体も男体となし、男体も女体とする類は数限りなし一々咎むべからず。白山権現伊弉諾尊といふこと如何、先第一白山権現といふ名も仏家より出たる名也。加賀国の白山大権現といふは、伊弉冊尊也。祭神三座あり、中は伊弉冊尊にして左は菊姫右は泉津道守神。」

 

としています。
「女神を男神としたり、男神を女神にしたりするのは、本地垂迹説でもいっぱいやってるから、ぶっちゃけどうでもいいけど、白山大権現は伊弉冊尊、菊理姫、泉津道守神でしょう、それを伊弉諾尊ってのはありえないでしょう」(意訳)……というツッコミもなかなかの認識に基づいていると思いますけれども……。

 

「[三宮遥拝][八王子遥拝]是をふしをがみといふ。八王子三宮までは坂ありてなやみあれば此處よりも拝むべしと也。」

 

↑はい、私の登らなかった八王子山の麓にある、「三宮宮」「牛尾宮」の遥拝所、ですね。
どうやら『近江輿地志略』では、「西本宮」から「宇佐宮」「白山宮」を通って、「東本宮」に向かっているようです。
というわけで、今回はこの辺りまでで〜。

「日吉大社」(考)〜その2

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑『近江輿地志略』、行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
ただ、かなり長く引用しているので、ぶつぶつと切り取っていきます……一回じゃ終わらない。
適宜、ブログ筆者による改行を入れています。
156コマです。

 

「[日吉神社]上坂本にあり。所祭三神七座末社十四社あり、二十一社といふは是也。上七座といふは大宮・二宮・聖真子・八王子・客人宮・十禅師・三宮、中七社といふは下八王子・王子宮・早尾・大行事・聖女・牛尊・気比宮、下七社といふは、小禅師・悪王子・新行事・岩瀧・山末・劔宮・大宮竃殿、総て二十一社とはいふ。中古以来伝教大師両部習合して以後の事なり。往古は大比叡神社と号し奉り、延暦年中よりは遥に古よりある神社也。
【神風記】曰く、日吉一座大物主神也。当社鎮座の時代定かならず神代の鎮座か。七社及廿一社の勧請は伝教以後の説なるべし云々と。嗟呼神道の衰微実に怨むべし。日吉社延暦寺と混雑せり、故に又日吉社近邊にある処の仏道古跡等も其竝びに出す。日吉社八王子山までも先日吉の條下に併出す。延暦寺條下日吉條下坂本條下を一にして見る時は、事分明なるべし。二十一社の説も品々あり、上七社は始の説にかはらず、中七社を【日吉山王新記】には大行事・牛御子・新行事・下八王子・早尾・王子宮・聖女とし、下七社は小禅師・大宮竃殿・二宮竃殿・山末・岩瀧・劔宮・気比とする。」

 

二十一社が列挙されています。
現代に伝わっているものとそれほど違いはないと思いますが、異説も掲載しています。


「【山王新記】及び【廿二社次第】曰、後朱雀院長暦三年八月十八日被奉官幣、加日吉社爲廿二社。日吉社之事可爲住吉之次、梅宮之上由宣下也云々。【拾芥抄】三十日神名の中に十七日大比叡、十八日小比叡、十九日聖真子、廿日客人、廿一日八王子云々。【公事根源】曰く、後朱雀院長久四年六月八日始二十二社の数に備はる云々と。」

 

文中に出てくる「二十二社」というのは、特に格の高いものとされた神社のことです。
「三十日神」というのは、「三十番神」のことで、一ヶ月を三十日と考えたときに、一日を交代(番代わり)に守護するものとされています。
この中に、「十七日 大比叡大明神」「十八日 小比叡大明神」「十九日 聖真子大明神」「二十日 客人大明神」「二十一日 八王子大明神」が入れられています。

 

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

『日本の神様読み解き事典』の「三十番神」の項によれば、

 

「なお、天台宗では如法経尊重の風習に根源を発し『今昔物語』巻十一、、慈覚大師始建愕厳院語第廿七の条に、「堂ヲ起テ此ノ経(如法経)ヲ安置シ給フ。如法経是ニ始ル。其時ニ此ノ朝ノ諸ノ止ム事无キ神。皆誓ヲ発テ番ヲ結デ。此ノ経ヲ守リ奉ラムと誓ヘリ……」とある。さらに天台山門『叡山要記』には、慈覚大師のときに国内有勢神三十か所が選ばれ、延久五年(一〇七三)愕厳院良正阿闍梨三十番神を勧請し、如法堂の守護とした旨記されている。
こうして見てくると、三十番神天台宗によって生み出され流行した神であると考えられる。」(p351)

 

↑とあります。
天台宗の影響下にある「日吉大社」で祀られている祭神に、このような「三十番神」に含まれる神の名前がついていても、別に驚くことではない、ということですね(マッチポンプの匂いがします)。


「【日吉山王記】曰、後三條院延久三年十月二十九日行幸、被置僧官、行幸之觀賞也云々。
後拾遺集】に後三條院の御時、始めて日吉社行幸侍りけるに東遊に歌ふべき歌を仰せ事にてよみ侍りける。實政「明らけき日吉の御影君が爲山のかひある萬代やへん」日吉の社に御幸侍りける時、雨の降り侍りける。其時になりては、はれにければよみ侍りける。師尚「御幸する高根のかたに雲はれて空に日吉の験をぞ見る」日吉社司の説には天智天皇天武天皇桓武天皇嵯峨天皇清和天皇後一条天皇悉く行幸ありといふ。社司は七人樹下氏の者之を掌る。
【日吉山王新記】曰、高倉院承安二年三月行幸云々と。後醍醐天皇坂本への行幸は度々なり。【神皇正統記】等にしるせり。
日吉社年中行事】に曰く、第九十代後光厳院行幸の折、「迷ひたつ雲井の外の春に来てあらぬ軒端の花を見る哉」宸筆にて樹下が家の障子にあり。正三位成国我家の皇居となりしかば「仮初の御幸ながらも此宿の花に雲井の名をや残さむ」宸筆の御製、今に樹下に相続してこれあり云々と。公方家の社参を考ふるに、応永元年九月鹿苑院参詣の事あり、事は【御社参記】に詳なり。事繁き故之を省く。
日吉社年中行事】曰、光源院殿於樹下家御元服、加冠佐々木弾正少弼定頼云々。(臣)按ずるに天文十五丙午年十二月十九日足利義輝十一歳にて樹下氏祝氏民部成保が宅に来て元服なす事あり。十八日に坂本に来りしなれば十八日に日吉社へ詣でしなるべし。天文十五丙午年十二月十九日の記に曰く、元服摂津守元造、総奉行能冠(松田丹後守晴秀飯尾大和守堯連) 理髪細川中務晴常、御加冠佐々木弾正定頼云々。此時なるべし、此元服の事【所々御成次第】【御元服記】【重編応仁記】等に委し今之を略す。」

 

↑この辺りは、「日吉大社」関係の文書などに出てくる、天皇行幸に関するものや、足利将軍家の記事などを引用した部分です。


「毎年四月二日の申日祭礼を行ふ。其由来は【日吉記】【山王記】【山王新記】皆曰く、天智天皇の白鳳二年三月上巳大津與多崎八柳浜に明神臨幸あり、漁父田中恒世を呼んで唐崎に送るべき由仰あり、恒世諾す。神即恒世の船に乗り給ふ。恒世粟の飯を奉る、神甚感喜す。船唐崎浜に著く。神曰く汝が功労忘れず毎年卯月中の申日此處に来るべし。汝も供に此處へ来て粟飯を贈るべしとの給ふ。今に至て此くの如し云々と。按ずるに大津輿多崎は今の大津尾花川の浜辺より北へ少許りをいふ。田中恒世は後に神と祝へり、今松本村平野神社の左にある小社是也。田中恒世は膳所崎の漁夫なり。今の膳所中庄亀屋といへる者の家、古への恒世が宅地也故に今に至て膳所より粟の御供を備ふ。粟津庄といひ、膳所といふは皆之に依れり。詳に膳所の條下に記す。其始は神輿陸地を唐崎へ神幸ありて、膳所土人等も唐崎陸地にて備へたる事明けし。
【公事根源】曰ふ、日吉臨時祭は中の申日是は順徳院建暦三年十一月十八日より始て使を立てらる云々と。船祭の始は延文年中大洪水以後の事と見えたり。
【日吉山王新記】引【日吉神道秘密記】曰、近代延文年中大洪水、唐崎浦水込、陸地無之、其時御船、其以後如此、近年一円御船祭也、上古無之新義也云々。之を以てしるべし。今は唐崎の社の南の湖上にて神輿の船へ粟飯を備へ奉る、其體厳重なり。
日吉社年中行事】曰く、以榊祭之事始于天智天皇之御宇百廿年間榊之神事也云々。この故に大津四宮社より出す處の榊を祭第一に渡すは其由来也。
【日吉山王新記】曰、延暦十年伝教大師雖始祭礼之儀事未定。至弘仁之聖代始被行厳重之祭礼云々。人皇十四代円融院天元五年七月五日叡願に依て遂に行はれ、六十六代一条院長徳元年八月二十一日之を行はる。八十二代後鳥羽院建久三年二月十三日丙申後白河法皇御不豫急なるに依て御願之を行はる。此以後絶ゆる也。大凡当社の祭を日吉山王荒祭と俗に号して、坂本法師等甲冑を帯し剣を執り出づる者を供人といふ、三百人許也。濫りに行ひ人に傷つけ得たりとし、日吉神輿血を見ざれば渡らずと罵る。嗚呼不敬の甚しき是よりはなし。之をも忍ふべくんば孰をか忍ぶべからざらむ。日吉は神明也、何ぞ人を刃傷して喜ぶべけん。若之を喜ぶ時は神明にはあらで邪神也、何ぞ貴き事かあらむ。若し神輿血見ずして渡らずといはば毎年法師等一人宛を傷けて渡すべし、何ぞ神明、人に傷くる事を嘉し給はんや、民を愛し生を好みし給ふなる神明なる者を、斯る妄言を吐く事実に天下の大罪人也。政を亂り衆を疑はしむるを殺すといふ聖代の教也、妄言附会の説をなす者誰か憎まざるべけんや。」

 

↑この辺りは、祭りに関する由来などを述べている部分ですね。

 

天智天皇の白鳳二年三月上巳大津與多崎八柳浜に明神臨幸あり、漁父田中恒世を呼んで唐崎に送るべき由仰あり、恒世諾す。神即恒世の船に乗り給ふ。恒世粟の飯を奉る、神甚感喜す。船唐崎浜に著く。神曰く汝が功労忘れず毎年卯月中の申日此處に来るべし。汝も供に此處へ来て粟飯を贈るべしとの給ふ。今に至て此くの如し云々と。」

 

↑年代は信じがたいですが、こうした伝承があった、と。
浜に流れ着く辺り、古来の神(マロウド)を想起させますね。
後半は、江戸末期以降の国学の展開や、明治の聖代になってからの認識からくる、「比叡山」の僧兵の行いに対するツッコミ、と解釈するといいのかもしれないです。

 

「且此頃は土俗いふ、二條蔵人が子愛護若といふ者あり、継母の讒によつて父に疎まれ出奔し、革細工の小次郎といふ穢多が情に預り、大道寺田畑之助が粟の飯に露命を繋ぎ、叡山帥阿闍梨に会する事をいひ、或は愛護若村嫗に桃を請ふに、嫗輿へざる時は花は咲くとも実はなるなといひ、麻の中に隠るる時、朝は出来くとも苧になるなといひ、手白の猿などいふ事をいひ、霧降の瀬へ身を投ずるななどいふ。愛護若は今の日吉の大宮、細工の小次郎は今の唐崎宮、田畑は今の膳所田畑社なりといふ。剰へ伝に作り書に筆して愚俗を惑はす尤笑ふべし、跡方なき虚言歯牙を労すべき事にはあらねども、其土俗のいふ所について之を論ずるに、愛護若もし日吉大宮の化現にもあらば、何ぞ桃を実なるなといひ、麻を苧になるなといはんや。己に與へざるを恨み己が爲に憤りあればとて天地の造化にて実のれる木を実のらさず、麻を苧にせざるなど一己の私にして天下の公道にあらず。愛護若もし神ならば決していふべからざるの言、なすべからざるの行也。愛護若の事は【秋夜長物語】といへる仮名草子にこれに似たる事あり。それを作りかへていひ出せるなるべし。嗚呼虚妄の人を惑す事歎息に餘りあり。」

 

↑ええと、「愛護若」というのが何なのか、不勉強にしてまったく知りませんでしたので、検索。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 伝説の比叡山

 

↑『伝説の比叡山』という格好の本があったので、そちらから。
8コマです。

 

「あいごの若
日吉神社の前を大宮谷に沿ふてさかのぼると、程なくして神蔵が瀧と呼ばるる瀑布がある。その上に屹立した神宮寺山の絶壁に、今にも崩れ落ちさうな奇岩があつてそれを衣掛岩と名つけられてゐる(御山の栞)。この物語はその岩に秘められた哀話であり且つは唐崎の一ツ松の由来を語るものでもある。

或る年の或る日、琵琶湖に沿ふた北国街道をひとりトボトボと歩いてゆく若者があつた。時々立ち止まつて、雨雲のかかる比叡をふり仰いでホツと吐息をついては復重い足を運んだ。身につけた衣はボロボロに裂け、草履の尻はすり切れて歩くたびにバツバツと砂埃をあげて居る。髪は蓬々に延び、頸筋は真黒に垢じみて、見るからに見すぼらしいその姿は、定めて永い間の放浪生活に野に寝ね山に憩ふて、辛酸の限りをつくして来たものであらうと思はせる。けれどもじつと其の面を見てゐると、うるほひのある眼光や、調つた顔の型など、どことなく一種の気品をそなへてゐて、性来の野人ではなくよしある人のなれの果であらうと誰でも気づくのであつた。
やうやく唐崎までたどりついた彼は、そこの汀の岩に腰をおろして、うつとりと湖上の景色を眺め入つた、サラサラと漣は無心に彼の足下を洗つてゐる。やがて彼は腰の行厨を取り出した。中にはバラバラになつた稗飯が一ぱいつめてある。それでも飢えきつた彼は、さも美味さうに食ひ初めた、そして最後の一粒もあまさじとするやうに器の隅々までも拾ひ食つた。
飽満の快よさを覚えた彼は、器を収めやうともせず、一心に寄せては返す波を見つめた、その胸のうちには限りなき哀愁が去来してゐるのであらう。およそ小一ト時もたつた頃、彼はやつと立ちあがつて今使つた箸の一つを其所の砂に突きさして、
「あいごの若が世に出るならば松も千本葉も千本、もしも此の世に出ぬならば松も一本葉も一本」
と悲しげに独語した、その眼には涙の玉が光つてゐる。貴族の家に生れながら、ふとしたことから悲惨な運命に翻弄されてきた過去の生活を顧るにつけても、これから先きに迎ふべき年月のたよりなさに、かうしたことにも儚ない望みをかけて、自己を占つたのである。
松は年を経てますます緑の色を増したが、幹と葉は今も一本であつて、夜雨に咽ぶ梢の音は、波のひびきに相和して多感の遊士を動してゐる。
同じ日の午後、東谷の坊に訪ふたのは彼れあいごの若であつた、声に応じて一人の寺男が出て来た。
「私は此の坊の主の甥にあたる者で、或る事情から家を出で、諸国流浪の果てに此所まで辿りついたのである、どうか叔父ごに会はせて下さるまいか」
「なに、あなたが僧正さまの甥だと! たはけたことを申さるるな。苟も当院の僧正は九條さまの出である。その甥子といへばとりも直さず九條さまの御血筋、それがなんであなたのやうな見すぼらしい様をして居られやう、騙さうと思つてもさうやすやすとは騙されぬ、かう見えても此の爺はまだそれ程まで老耄れては居ないつもりだ」
「そんなに疑はれるのも決して無理とは申さぬが、叔父ごにお目にかかれば分ること、どうかあいごの若が来たと伝へて下さるまいか」
「なんぢゃと、まだくどくどとおつしやるか、なんぼ言つても叶はぬこと、若い者らに見つけられぬまにちやつちやと帰らつしやい」
どんなに云ひ抗つても頑ななる寺男はいつかな聞き入れさうにもなく、果ては足もて蹴ちらしそうな気色さへ見えた。すげなく追ひ立てられたあいごの若は、今は一縷の望みの綱も切れはてて、見返りつつもすごすごと山を下つた。
神宮寺山まで下つて来たあいごの若は、そこの岩根にどつかと腰を据ゑて、腕拱いて思ひに耽つた。ーーああなんといふ悲しい運命であらう。叔父君に会つたら、また何とか欣ばしい世界も展開して来ようかと、それのみをたよりにして此の山まで登つてきたのに、情ない寺男に遮ぎられて叔父上に一言交すことさへも得ず、かうして山を下つてから、さて何所へ行かうといふのか、都の内はもとよりのこと、東土の端から筑紫の極みまで、花咲く春を待つべき所はないのだ、攝取不捨の霊山にさへ容れられぬ身を置くべきところは、も早や現世にないのであらうかーー
虚空を見つめて溜息ばかりにくれてゐた彼は、何思ひけんすつくと立ちあがり、衣を脱ぎすててかたへの岩に懸け、岩根をたよりに大宮谷の流れまで下つた。神蔵が瀧に激した水は、そこでは紺碧の淵を湛へて、物すごい渦巻は中流に消えては現はれ現はれしてゐる。太古のやうな静寂は身の毛もよだつかと思はるるまでに迫つて来る。
じつと水面を見つめてゐたあいごの若はふと我に帰って、右手の拇指をがくりと噛み切つた、ほとばしり出る鮮血に歯も唇も忽ち真紅に染まつた、餘滴は芝生の上にぽたぽたと落ちてゐる。彼は淋しい笑を洩しながら、かたへの山帰来の葉をむしり取つて、したたる血汐でそれに文字を書き初めた。一枚、また一枚、書き了へた彼は遥かに大空を見つめた。
「風も生あるものならば、叔父ごのところへ飛んでゆけ」
と口走りながら、山帰来の葉を一枚一枚空に吹き上げた、腥風にのせられた血染の葉は、ひらひらと東谷さして飛んで行つた。
東谷の僧正が、書見に疲れた目を庭に移したとき、黄昏の空から舞ふてきた木の葉がはらはらと苔の上に散つて来た。それは此の庭にはついぞ見かけぬものであり、一枚ごとに赤く彩られてあるらしいので、不審に思つて侍者を呼んで拾はせた。見ると一つ一つにまだ腥い血で文字らしいものが書きつけてあるので、気持ち悪い思ひをしながらあれこれと拾ひ合はして読んで見た。その顔はみるみる土の如くに青ざめ、手はあやしく打ち震ふた。やがて先の老爺は呼び出されて、問はるるままに若者の訪れて来たいちぶしぢうを物語つた。
院主が二三の者を引きつれて、アタフタと大宮谷を下つて淵のあたりを隈なく探したときには、もう若者の影は見えなかつた。青い水面には静かに渦巻が起つたり消えたりしてゐた、あたりの草には黒ずんだ、血の滴りが見えた、そして神宮寺山の岩に懸けられた破れ衣は、峯わたる風に翻つて居た。」

 

……ええと、ここで描かれている前段がさっぱりわからないので、なんとも言いようがないのですが……。
もうちょっと探ってみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 古代研究. 第1部 第1 民俗學篇

 

大・折口信夫翁の著作がひっかかったので、こちらも参照してみます。
215コマです。

 

「愛護若

若の字、又稚とも書く。此伝説は、五説経の一つ(この浄瑠璃を入れぬ数へ方もある)として喧伝せられてから、義太夫・脚本・読本の類に取り込まれた為に、名高くなつたものであらうが、あまりに末拡がりにすぎて、素朴な形は考へ難くなつてゐる。併し、最流行の先がけをした説経師の伝へてゐるものが、一番原始に近い形と見て差支へなからう。
何故ならば、説経大夫の受領は、江州高観音近松寺から出され、四の宮明神の祭礼には、近国の説経師が、関の清水に集つた(近江輿地誌略)と言ふから、唐崎の松を中心に、日吉・膳所を取り入れた語り物の、此等の人々の為に綴られた物と言ふ想像は、さのみ無理ではあるまい。今其伝本が極めて乏しいから、此処には、わりあひに委しい梗概を書く。
嵯峨天皇の御代に、二條の蔵人の左大臣清平といふ人があつた。御台所は、一條の関白宗嗣の女で、二人の仲には子が無かつた。重代の重宝に、刃の太刀・唐鞍(家のゆづり、やいばの大刀、からくら、天よりふりたる宝にて)の二つがあつた。第六天の魔王の祟りで、女院御悩があつたが、天子自ら二才の馬に唐鞍を置き、刃の大刀を佩いて、紫宸殿に行幸せられると、魔王は、霊宝の威徳によつて、即座に退散して、御悩忽平癒した。天子御感深く、その他の家々にも名宝があらうと思はれて、宝比べを催されたところ、六條判官行重は上覧に供へるべき宝が無くて、面皮をかいて居たのを、清平が辱しめて、退座を強ひる。
判官には、五人の男子があつて、嫡子をよしながといふ。家に戻つて今日の恥辱の模様を話すと、よしながが父に讐討ちの法を教へる。其は、子はどんな宝も及ばない宝である。幸、二條蔵人には子が無いから、奏上して、子比べをして、恥をかかせようと言ふのである。子福者の行重は、非常な面目を施した。御感のあまりよしながに、越後守を受領せしめられた。
清平は、今度は、あべこべに辱しめられて、家に帰つて、御台所と相談して、初瀬寺の観音に、申し子を乞ふ事になる。七日の満願の日に、夫婦の夢に、菩薩が現れて、子の無い宿因があるのだから、授ける事は出来ない。断念して帰れ、と告げさせられる。夫婦は、さらに三日の祈願を籠めて、一向納受を願ふと、一子は授けてやるが、三つになつた年に、父母のどちらかが死ななければならぬと言ふのである(一段目)。
六條判官は、尚根が霽れぬ上、相手が初瀬寺に参籠して、何か密事を祈願して居ると言ふ事を聞いて、家来竹田の太郎及びよしながと共に、桂川に邀え撃たうとする。二條家には、荒木左衛門といふ家来がある。主人夫婦に従うて、初瀬寺からの帰り途、桂川で現れた伏せ勢を争うて居る所へ、南都のとつかう(東光か)坊が通りかかつて、仲裁する(二段目)。
北の方は玉の様な愛護若を生む。誓約の三年は過ぎて、若十三歳になる。約束の期は夙に過ぎた。命を召されぬ事を思ふと、神仏にも偽りがある。だから、人間たるおまへも其心して、嘘をつくべき時には、つく必要があるといふやうな事を訓へる。初瀬観音聞しめして、怒つて御台所の命をとる為に、やまふのみさきの綱を切つて遣はされたので、若はとうとう母を失ふこととなつた。
左衛門竝びに親類の者が、蔵人の独身を憂へて、八條殿の姫宮雲井ノ前を後添ひとした。愛護は、父の再婚の由を聞いて、持仏堂に籠つて、母の霊を慰めてゐる。あまり気が鬱するので、庭の花園山に登つて、手飼の猿、手白(てじろ)を相手に慰んでゐる姿を隙見した継母は、自分の子とも知らず、恋に陥る。侍女月小夜を語らうて、一日に七度迄も、懸想文を送る。若は果は困じて、簾中に隠れてしまふ。
二人の女は、愛護が父蔵人に此由を告げはすまいかといふ懸念から、逆に若を陥れる謀を用ゐる事になる。それは、重宝の鞍・刀を盗み出して、月小夜の夫に手渡し、都も都、桜の門で呼び売りさせて、清平の目につく様にして、若が盗んで売らせたのだ、と言はせようといふ魂胆である。此謀が早速成就して、怒つた清平は、若を高手小手に縛つて、桜の木に吊り下げて置く。若は苦しさのあまりに、血を吐いて悶えてゐると、手白の猿が主人を救はうとして、木に上るが、縄を解く事が出来ぬ(三段目)。
處が一転して、地獄の閻魔王の庁では、若の母が出て、若の命乞ひをして、自身出向いて救ひたいと願ふ。魂を仮托する死骸はないかと、鬼に見させると、娑婆では今日、人には死んだ者はないが、鼬が一匹斃れたといふ。母は早速、鼬の身に魂を托して、桜の下に現れ、若の縄を食ひ切つて助けると、手白が下で抱き止めて、怪我なく助かった。鼬は、母が仮りに姿を現したのだと告げて、かうしてゐては、終には命も危いから、叡山西塔の北谷にゐる、若の叔父帥ノ阿闍梨の處へ逃げて行くやうに、と諭して姿を消す。若は家を抜け出る日を待つて居る(四段目)。
暗く雨降る夜、家を出て四條河原にかかると、南に火の漏れる茅屋がある。細工の賎民の住む處である。ちかよるつて戸を敲くと、盗賊かと思つて、薙刀を持つて来る。愛護一部始終を語ると、敬ひ畏んで、臼の上に小板を敷き、荒菰を敷いて、米を賀茂
の流れで七度清めて、土器に容れて献る。此から神の前に荒菰を敷く風が出来たと説いてゐる。夜が明けて、細工に送られて、叡山へ志す。處が、中途まで来ると、三枚の禁札が立つてゐる。一枚目のには、女人禁制、二枚目にはさんひ(?)が、強ひて叔父の處まで送つてくれと言う。「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言うて、引つ返した。
愛護一人で、帥ノ阿闍梨を訪れた處、叔父は、甥若の訪問に驚いて、其車馬の数を見させた處が、稚児一人立つてゐたので、此はきつと、北谷の大天狗が我行力を試る為に来たのだと思うて、そんな甥はないと言うて、大勢に打擲せしめた。若は山を下りようとして、三日山路に迷うた末、三日目の暮れ方に、志賀の峠に達した。其處で疲れて休んで居ると、都へまんぞう(萬僧)公事に上る粟津の荘のたはたの介兄弟が来会うた。始終を聞いていとほしがり、柏の葉に粟の飯を分けてあたへた。「其御代より、志は木の葉に包め、と申すなる」と説明してゐる。
情を喜び、苗字を問ふと、弟せんちよが「之はきよすのはんと申すなり」と言ふ。お伴はしたいが、都へ出ねばならぬから、と別れて上つた。扨て其後、
岩ほの小松をとり持ちて、志賀の峠に植ゑ給ひ、おひ(松に?)せみやう(宣命)を含め給ふ。愛護世に出てめでたくば、枝に枝さき唐崎の千本松と呼ばれよや。愛護空しくなるならば、松も一本葉も一つ、志賀唐崎の一つ松と呼ばれよと、涙とうとう若は身を投げた。其時十五歳とある(五段目)。
瀧のほとりにかかつてゐる小袖を見つけた山法師等が、山の稚児の身投げと誤解して、中堂へ上つて、太鼓の合図で稚児の人数しらべをする。ところが小袖の紋で、若なる事が訣つた。実否を確める為に、二條へ使が行く。さて父・叔父などが集つてしらべると、下褄に恨み言が発見せられ、其末に「四條河原の細工夫婦が志、たはたの介兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき、まんそうくち(公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井ノ前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵に投げ込んだ。かの瀧に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介・手じろの猿も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見として、其處から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の山三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち(比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。」

 

……長い。

 

○こちら===>>。

五説経(ごせっきょう)とは - コトバンク

 

コトバンクより、

 

「世界大百科事典内の五説経の言及
説経節】より

…なお,幕末に名古屋の岡本美根太夫が新内節に説経祭文を加えて新曲をおこしたが,これは説経源氏節,または単に源氏節と称される。
[演目と正本]
説経節の代表作を〈五説経(ごせつきよう)〉といい,この呼び名はすでに寛文(1661‐73)ころに見えるが,何をさしたか不明。後には《苅萱(かるかや)》《山荘太夫(さんしようだゆう)》《愛護若(あいごのわか)》《梅若》《信田妻》(《浄瑠璃通鑑綱目》)とも,《苅萱》《山荘太夫》《小栗判官》《信徳丸》《法蔵比丘》(水谷不倒説)ともいわれる。…」

 

↑とありまして、「苅萱」「小栗判官」「山荘太夫」「信太妻」辺りは、なんとなく知っているのですが(「信太妻」は、陰陽師安倍晴明」に関わるやつですね……これもいろいろあるようですが)、「愛護若」「梅若」辺りはさっぱり知らず……。
折口信夫翁の考証は、ここからより深くなっていくのですが(そして、面白いのですが)、とりあえず『近江輿地志略』に戻りまして、筆者は「愛護若が山王権現の化身だなどというのは笑うべき俗説だ」と書いており、それはその通りでしょう。
神仏混淆の時代以降に生まれた伝説で、「比叡山」の地主神とはほとんど関係ないでしょう。
一方で、では「何故このような伝承が生まれたのか、語り継がれたのか」という視点で考えるとき、神仏混淆の葛藤なんかが透けて見えるのかもしれません。
『近江輿地志略』に「革細工の穢多」、折口翁の文章に「細工」と出てくるのは、皮革加工に携わっていた、いわゆる賎民層のことをさしていますが、こういった登場人物が何かを示唆しているようにも思えます。
とはいえ、説経節は室町以降に流行ったもののようですし、そこから派生したと思われる浄瑠璃も江戸時代。
日吉大社」の古代と、「最澄」以降の断絶には相当に深いものがありますね。
最澄」以後だって、どうやって「山王二十一社」の信仰が成立したものやら……。
迷宮でございます。
……まあ、私は学究の徒ではないので、何かしら妄想のきっかけが得られればいいのですが(それも見えないほど、巨大ですけどね「比叡山」)。
さて、ちょっと飛ばして続きを。

 

「[早尾社]中七社の第五也。【日吉山王新記】曰、尾州熱田社内源太夫神是也云々。(略)」

 

↑修復中だった「早尾社」です。
「熱田社内源太夫神」というのは、今でいう「上知我麻神社」のことですが……「三十番神」に「熱田大明神」が入っているので、その関係でしょうか……ちょっと引っかかりますが……。


「[地蔵堂]早尾社の前にあり六角の堂形なり。【日吉記】曰、伝教大師六地蔵、悉安置此處。慈覚大師還之六處。九條、苗鹿・比叡辻・穴太・明良也云々。」

 

↑こちらは「六角地蔵堂」ですね。

 

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「日吉大社」(滋賀県大津市)(その5)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りで紹介しています。

 


「[総合鳥居]此鳥居の形、外の鳥居とかはれり■かくの如し。【日吉記】曰、神道胎金合体、依之号惣合神門。於此内向東両太神宮拝念、竝関東諸国諸神祈念、向西同之。種々有口伝云々。」

 

↑■になっていますが、いわゆる「山王鳥居」のことです。
さて、次回はそれぞれの社に関して引用というか、紹介を……いや『近江輿地志略』を読んでくださればいいのですけれど……。

「日吉大社」(考)〜その1

さて。

BABYMETALばかり追いかけているわけではないのですが、仕事やら何やら処理しなければいけないこともあり、何より「日吉大社」の情報が膨大で……どうしても天台宗とは切り離せませんし……そうなるともう、日本仏教史をどうすんだって勢いになってしまうので……ちょっと筆が進んでおりません。

というわけで、しばらくテキストだらけの更新が続きますので、苦手な方はしばらくほったらかしといてくださいませ。

まずは、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 下編

 

↑『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
83コマです。

 

日吉神社 名神大
日吉は比叡と訓べし ○祭神大山咋神 ○比叡山麓坂本村に在す ○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、(中略)近江国日吉神社一座、○江家次第、(新年穀奉幣)日吉、(近代被加五位) 廿二社注式云、(下八社)日吉、(幣■一前) ○拾芥抄云、卅番神、大比叡、十七日
古事記大山咋神亦名山末之大主神、(大年神天知迦流美豆比売而生)此神坐近淡海国之日枝山、亦坐葛野松之尾、用鳴鏑神者也、(旧事紀も同じ) 今山王七社と称す、所謂大宮、(大己貴命、称大比叡)、二宮、(大山咋神、称小比叡、卅番神、十八日)、三宮、(事代主命)聖真子、(天日方奇日方神、三十番神、十九日)、八王子、(建御名方命、卅番神、廿一日)、客人、(伊弉冊尊、卅番神、廿日)、十禅師、(瓊瓊杵尊)以上七社、(諸社根元記祭神異説あり) なほ首巻二十二社の条考合すべし、抑当社之濫觴は、古事記、旧事紀の文にて明なり、考証に、釈最澄入唐、帰朝創延暦寺比叡山擬、異邦之天台山、亦以天台有山王祠、因日吉神社称山王、と云るが如く、宣長も後世に日吉七社と申すは、古書に見えぬ事なり、其はかの最澄が、延暦寺を建る時よりの所為と見えたり云々と云る尤も然り、されば前に七社の社号神号を挙たるも、此に預らぬ事といふべけれども、世上の流弊に日吉七社と云へば博覧の為なり、尚当社の事を書たる物多しといへども、皆延暦寺草創以後の事なれば、是を■筆せず(以下略)」

 

日吉大社」では、「二十一社」が信仰の中心となっており、そのうち主要な七社を「山王七社」と呼んでいます、


「今山王七社と称す、所謂大宮、(大己貴命、称大比叡)、二宮、(大山咋神、称小比叡、卅番神、十八日)、三宮、(事代主命)聖真子、(天日方奇日方神、三十番神、十九日)、八王子、(建御名方命、卅番神、廿一日)、客人、(伊弉冊尊、卅番神、廿日)、十禅師、(瓊瓊杵尊)以上七社」


↑諸説あるようですが、一つの定型としてこの七柱が伝わっています。

系譜的には、「素盞嗚尊」から連なるものなのですが、そこに「伊弉冊尊」や「瓊瓊杵尊」を挿入している辺り、いろいろと意図を感じますね。

しかし、もともと比叡山の神といえば、

 

大山咋神亦名山末之大主神、(大年神天知迦流美豆比売而生)此神坐近淡海国之日枝山、亦坐葛野松之尾、用鳴鏑神者也」

 

↑と『古事記』から引用されているように、「大山咋神」だったと考えられます。

それを、「伝教大師」が、

 

「かの最澄が、延暦寺を建る時よりの所為と見えたり云々と云る尤も然り」

 

↑「延暦寺」を創建する際に、鎮守として取り込み、そこからいろいろと拡大していったものと思われます。

何しろ、日本仏教界の最高峰、様々な高僧を輩出してきた「延暦寺」ですから、神道に対する影響も相当なものがあったのでしょう。

しかし、背景に何かあるんじゃないのか……とも思ったりしますが、「延暦寺」以前の比叡山の信仰体系が文書では(多分)残っていないので(『古事記』に残っているのがなかなかすごいことなのかもしれません)、妄想するしかないのですが。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

滋賀県といえば、『近江輿地志略』という素敵文書がありますので、こちらも……と思ったんですが、内容が激烈に膨大なので、ちょっと次回以降に……。

「日吉東照宮」(滋賀県大津市)〜滋賀巡り(再)

12/2。

日吉大社」の続きですが、「日吉東照宮へ。

 

○こちら===>>>

日吉東照宮 | 日吉大社

 

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とりあえずそちらに向かっていくと、森深い階段が。
どうやら「延暦寺」への登り口のようです……いや、行かない行かない

 

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ケーブルカーの坂本駅の方へ行き、左手に曲がって橋を渡ります。
多分、その橋からの景色。

 

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ちょっと坂道を登ります。
崩れた石灯籠……切ない。

 

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紅葉がまだまだ見ごろでございました。

 

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で、階段を登ったあたりに出ちゃいました……これ、本当は下から登ってくるんですよね……。
とりあえずご参拝。
金土日祝日は、殿内の拝観ができる、ということで、御朱印をお願いしてまずは中に入らせていただきました。

 

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正面ではなく、側面からの写真です。
言葉はいらない感じですよね……。

 

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もうちょっと奥、本殿の辺り。

 

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……覆った方がいいんじゃなかろうか……いずれまた色褪せていくのでしょうけれど、こうして陽光の下で拝見できるのはとてもありがたい。

 

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拝殿の妻部分。
唐破風部分というべきか、向拝というべきか。
葵の御紋もしっかりあります。

 

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紅葉美し。

 

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あ、これが全景です。
この中に入れるんですよ、是非ともご照覧あれ。
……ちょっと恐れ多くて、写真はこれだけです、はい。

 

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さて……琵琶湖も望める高台から、降りますか……。

 

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これが先ほど通ってきたところです。

 

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とりあえず振り返ってみましたが、社殿はまったく見えませぬ……。

 

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その先は緩やかな石段でした……また振り返ってみますが、やっぱり社殿は見えず。


……あれ、もっと写真があると思ったのに……殿内の写真はさすがに撮影できず。
権現造がわかるような写真があったような気がしたんですけれども……うーん……いろいろ抜けているなぁ……再訪します。

いただいた由緒書によれば、

 

「御祭神は三柱で、中央に徳川家康公・向かって右側に日吉大神・向かって左側に摩多羅神が祀られている。明治の御世に到るまで延暦寺の管轄下にあったが神仏分離令が出されるとともに日吉大社の管轄となり、明治九年(一八七六)に末社に制定された。

東照宮造営の経過としては、元和二年(一六一六)徳川家康公の没後、その遺命により静岡久能山に祀られ、一年後には日光に祀られている。現在見られる様な本殿と拝殿を石の間で繋ぐ、いわゆる「権現造り」の発祥はここ日吉東照宮といわれている。
徳川三代将軍家光公上洛の途次に比叡山天台宗の大僧正天海上人に命じて考えさせた権現造りは、石の間が数段低く設計され、祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕をしても非礼にならないように配慮されている。日光東照宮の様に本殿・石の間・拝殿・向拝が一体ではなく、拝殿から本殿に伸びる梁が本殿まで達しておらず軒下で止まっている等、本殿と拝殿をいかに繋ぐかを苦心した跡が伺える。
日吉東照宮は元和九年に造営され、その後僅かの歳月にもかかわらず、寛永年間に再建着工(現社殿)し、同十一年(一六三四)七月には勅使を迎えて盛大に正遷座が斎行されている事を鑑みても、当宮が日光の雛形といわれる理由である。
大正六年(一九一七)に東照宮社殿が国の特別保護建造物となり、昭和四年(一九二九)に国宝、同二十五年に重要文化財に指定、同三十一年には唐門と透塀が追加指定された。東照宮橋(権現橋)は昭和十年に水害のため流失した。」

 

ということで、「日光東照宮」の雛型となった、と伝えられています。

そういえば「日光」も行ってないなぁ……前に行ったときは修繕中だったし、今は陽明門が修繕中だし……もうちょっと年取ってから、また行きたいですね。

それより、

 

「向かって左側に摩多羅神が祀られている。」

 

↑これが気になるんですが……ひとまず心のうちに収めます。

 

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御朱印はこちら。

 

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というわけで、大鳥居(山王鳥居ではないのです)まで戻ってきました〜。

いや、紅葉も含めて堪能したのですが、どうにも写真に不備があり……お腹の調子が悪かったので、ということにしていただきたい……。

次は是非、宿をどこかにとってたっぷり「延暦寺」を回ってみたいものです。

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その5)〜滋賀巡り(再)

さて。

 

○こちら===>>>

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その2)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その3)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その4)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回までの記事です。
ここから、境内を出ていくわけです。

 

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というわけで、本家本場の山王鳥居。

うーん、美しい……。

紅葉の時期、やや曇りですが天気にも恵まれました。

有難や有難や。

 

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参道向かって右側の石灯籠。

結構な大きさ。

 

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やや離れて山王鳥居。

 

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こちら、参道向かって左側の石灯籠。

 

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「猿塚」。
「神猿」さんが神去られると、葬られるそうです。

 

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さらに離れて山王鳥居。

 

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もっと離れて山王鳥居(しつこい)。

 

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走井橋のそばにある、「走井祓殿社」。

御祭神は「祓戸大神」四柱です。

 

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……うん……これが大宮橋、のはずです(記憶力が)。

 

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こちらが走井橋、だったはずです。
橋よりも松が気になって……松なのか?

 

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大宮橋、別アングル。

 

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「大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。
(略)
両側に格座間を彫り抜いた高欄をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋です。
天正年間(一五七三〜九二)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(一六六九)のことです。
大正六年(一九一七)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。」

 

なるほど、最初に見た二宮橋と造りは似ているが、より豪華、ということですか。
ちゃんと写真に撮っておけば……。

 

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大宮橋から、山王鳥居。
ちょっと太陽が雲に隠れてしまいましたが、素敵なカーブ。

 

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そこからしばらく行きまして、「求法寺走井堂」というお寺があります。
案内板が二つあります。

 

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「求法寺走井元三大師堂(略)
求法寺は、延暦寺登山口の本坂脇に位置する。由緒には、第十八世天台座主慈恵大師良源大僧正(元三大師)が、初登山の時ここで入山修行の決意を固めたことから求法寺と称されたとある。
この建物は、元気二年(一五七一)に消失の後、正徳四年(一七一四)に上棟されたものである。平面は、元三大師を祀る正堂(内陣)前面に、参詣の場である礼堂(外陣)が接続し凸型になっている。正堂は間口三間、奥行き三間、屋根は入母屋造である。礼堂は間口五間、奥行き三間で、中央部の三間×一間を内陣に取り込み、屋根は入母屋造、正面に軒唐破風を付け、全体を杮葺とする。
走井元三大師堂は、建築年次が明確な江戸時代中期の建築である。礼堂は、内部を広くするため柱を省略し、虹梁、太瓶束にするなど、豪快な架構は近世の社寺建築のなかでも技術的に優れている。これは近くの西教寺本堂(重要文化財:一七三九年建立)にも共通する流派的特色で、棟梁中島次郎左衛門の技量のほどが良くうかがわれる。」

 

もう一つの案内は、

 

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「厄除け大師 おみくじ大師 求法寺走井堂

本尊 元三大師(慈恵大師良源大僧正)重要文化財
脇仏 如意輪観音、三十三所観音、不動明王ほか
由緒
当堂はもと第四世天台座主安恵和尚(八〇一〜八六四)の里坊として創建された。のち比叡山中興の祖である第十八世慈恵大師良源大僧正(九一二〜九八五)が、若き十二才のころ、比叡山への入山修行の決意を固められた浄域であるところから「求法寺」と名づけられた。また古来より波止土濃(橋殿)又は走井の地名に因んで本堂を「走井堂」と称している。本尊はご自作と伝える元三大師尊像(秘仏)であり、観音菩薩の化身としてその霊験は誠にあらたかである。

祈りなば 願ひも三つの橋殿や
寺の渡りぞ 弘誓なるらん」

 

となっています(下のほうは、「延暦寺」が建てたものっぽいです)。

 

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お寺の常として、簡単に内部を撮影するわけには参りませんので、特徴的な石灯籠を。

実は、お賽銭箱の向こう側に、書置きの御朱印があったのですが、お金を入れて勝手に持ち出していいものかわからなかったもので、次の機会にしよう、と思いました。

 

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こちらは「六角地蔵堂」。
日吉大社」の境内の外、になりますが。
……石柱の文字が今ひとつ読めません。

八角のお堂はよく見ますが、六角形は……あれ、結構あるのかな。

 

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「子育て地蔵 早尾地蔵尊(六角地蔵堂)
本尊は比叡山の開祖田兄弟誌最澄上人ご自作の石地蔵尊と伝え、坂本六地蔵淵源の地であります。
この地蔵尊は変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復されたという霊験あらたかな尊像であり、伝教大師が童子養育に心を注がれながら彫まれたので「子育て地蔵」とも呼ばれています。

伝教の彫みおかれし石地蔵 
姿を変えて出ずる真盛」

 

延暦寺」関係のお堂……うーん、まだ「比叡山延暦寺」には行っていないのですよね……「園城寺三井寺)」、「日吉大社」と行きましたので、2017年は「延暦寺」に行こうと思っていますが……いろいろと事情が許すのか……。

 

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こちらの階段を登りますと、

 

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「早尾神社」です。
修復中。
残念。

 

と、いうわけで「日吉大社」ぐるっと一周してみました。

文献引用等はまたの機会にしまして、次回は「日吉大社」から徒歩で10分ほどの「日吉東照宮」に向かいたいと思います〜。

 

 

あ、そうだ、御朱印帳の柄をご紹介。

 

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紅葉の季節が似合うのでしょうか。

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その4)〜滋賀巡り(再)

さて。

 

○こちら===>>>

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その2)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その3)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

「西本宮」近くまでやってきました。
近くに磐境らしきものがありまして、

 

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こちらは「祇園石」。
祇園の神様が降り立つ霊石」だそうです。
「社伝では、岩の窪みに溜まる水は目に良く効く」そうです。

 

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こちらは、「春日岡 九座の霊石」とあります。

 

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こちら、「大威徳石」。
読みづらいですが、「仏法守護の五大尊明王である大威徳明王がほにゃららと「伝えられて」いるそうです。
普通に考えれば、ご降臨されたのでしょうが……何と言いますか、霊石ひとつとっても、神仏習合色が強いです。

 

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こちら、「西本宮」楼門。

 

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一気に拝殿。

 

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「この拝殿は、方三間(桁行三間、梁間三間)、一重、入母屋造、檜皮葺、妻入りの建物です。
柱間は四方とも開け放して、屋根の妻飾りは木連格子、回り縁は高欄がつき、天井は中央部が一段と高くなった折上小組格天井となっています。
日吉大社の他の同じ形の拝殿のうちでは、一番手の込んだ構造となっており、天正十四(一五八六)年本殿と同時に建てられたものです。
昭和三九(一九六四)年五月に重要文化財に指定されました。」

 

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拝殿から「宇佐宮」方向を。
木が高いですね……。

 

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本殿。

 

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「この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。
日吉造は、一名聖帝造ともいい、全国では、日吉大社にだけみられる特殊な構造です。つまり、三間・二間の身舎の前面、両側面の三方に廂がめぐらされた形で、側面や背面にその特色を見せています。また、正面には、一間の向拝と浜床をつけ、縁高欄がまわりをめぐっています。
天正十四(一五八六)年に復興されたものですが、慶長二(一五九七)年に改造されています。
昭和三六(一九六一)年に国宝に指定されました。」

 

またしても国宝……こんな身近で……いや、本当にありがたいのですが、気をつけていただきたいものです。

 

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本殿の狛犬さん……反対側は、工事の為近づけず。
「西本宮」境内も、立ち入り禁止の場所がいくつかありまして……写真は少なめとなっております。
うん、残念。

 

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高い木だ……。

 

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「西本宮」前の道を奥へと進むと、「日吉山荘」というのがあるそうです。
昭和レトロな雰囲気が漂っております……が、夏場だけなのか、それとも修繕中なのか。
この看板は、是非とも残していただきたい。

 

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この左のやつは、橋なのでしょうか……誰か落としましたか。

 

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楼門を別の角度から。

 

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楼門付近から、参道を。
工事の方の……なのかな……テントがちょっと残念。

 

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楼門の案内板もあり。
後ろには巨大な猿の絵馬が(多分「御年神」なのでしょう)。

 

「楼門とは、二階建で階上に縁があり、屋根は上の一つしかない形式の門のことです。
西本宮楼門は、東本宮楼門と同様、三間一戸(戸とは出入口のこと)、入母屋造、桧皮葺の建物です。東本宮楼門と比べると、規模は大きく、壮麗です。木部は丹塗を主としたもので、上下の釣り合いがよく、樹の縁によく映えます。四隅には猿の彫刻、前後に極彩色の蟇股があります。
確実な資料はまだ発見されていませんが、天正十四(一五八六)年に造営されたものではないかと推定されています。
大正六年四月五日に国の指定文化財となりました。」

 

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四隅のお猿さんは……残念ながらはっきり写らず(諦めました)。

 

こちら、「西本宮」楼門内にある授与所で、御朱印をいただきました。

朱印帳も購入したのですが、最初、何も考えずに書いていただいて、張り紙に気づき、「七社全部のもいただけるのですか?」と訊ねると、一瞬神職さんの手がとまり、

 

「最初から押されている御朱印帳もあるのですが……」

 

と。

それもいただこうか、と思ったのですが、「ちょっと時間かかりますけど」と、全て書いていただいてしまいました……下調べ、重要ですからみなさん

 

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紅葉。

 

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「西本宮」を振り返り。

 

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諦めきれない、「宇佐宮」の参道と紅葉。

 

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あらためて、「白山宮」の参道。

 

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そこから参道を戻っていきますと、「神猿」さんがおられました。
見えませんね……はい、すみません。

 

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「神馬舎」も。
こちらは像ですけれども。

 

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……本当に、今回はどうしたのだか……神社名がさっぱり読めない反射具合……本当申し訳ないというか、改めて行かないと……。

 

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その隣に、「子安子立社」がありました。

 

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社務所辺りを振り返ってみました。

 

御朱印は次の通りです。

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それでは、今回はここまでで〜。