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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再)

12/2。

突如、「はっ、明日有給を取りたい!」と思い立った前日、職場で許可を取り、早朝から滋賀方面へ。

今年の干支は今年のうちに……ではないですが、申年のうちに行くべし、と思っていた日吉大社へ向かいました。

 

○こちら===>>>

日吉大社 | 平安京の表鬼門鎮座 方除・厄除の大社 神仏霊場 滋賀県17番

 

家を出たのが午前6時前、でしょうか。
日吉大社」入り口に到着したのは8時過ぎ頃だったかと思います。
…。
……。
………。
…………。

 

さすがに早すぎて、係の人もいやしねぇ……。

 

というわけで、しばらく付近の風景を愛でていました。

ナビに案内された駐車場の近くには、二宮橋があります。

 

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日吉大社日吉三橋 二宮橋 一基

二宮橋は、東本宮(二宮)へ向かう参道の、大宮川にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式によって造られたものです。
川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、その上に三列の桁をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡し、両側に高欄をつけています。
(略)
天正年間(一五七三〜九二)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(一六六九)のことです。
大正六年(一九一七)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。」

 

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こんな感じで、橋より紅葉に目がいってますね……。

 

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うん、ピンボケ。

 

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参拝マップがありました。

東受付で駐車場代なぞを支払い、どうやら最初に「東本宮」を目指すことになりそうです。

 

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その途中にある「氏神神社」。
いかん、油断していて全然解説が読めない大きさだった……。

 

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こちらは「氏永社」。
うーん……解説が見つからない……。

 

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また紅葉。

 

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こちらは神社名が隠れていますが、「八柱の神」と見えますので、「八王子社」でしょうか(「日吉大社」の呼び名があった気がします)。

 

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「東本宮」の楼門。
ゆるやかな坂道になっています。

 

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石灯籠。

 

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「巌滝社」。
御祭神は「市岐島姫神」と「滝津島姫神」。
……普通は「宗像三女神」か「市杵島比売命」単体でお祀りされることが多いのですが。
何か理由があってこうなっているのでしょうか。

 

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楼門付近から、「二宮橋」の方を。

朝早く、天気もよかったので、なかなか神秘的な……ちょっと遠いな橋が。

 

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「須賀社」。
御祭神は「素盞嗚神奇魂」となっていますね。

 

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楼門。

 

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楼門……なぜ暗い……。

 

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「東本宮」本殿。
画角がとれなくて……全然写ってませんけれども。

 

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日吉大社東本宮本殿
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。
日吉造は、一名を聖帝造といい、三間・二間の身舎の全面、両側面の三方に廂がめぐらされた形をし、側面、背面が特徴のあるものとなっています。この様式は、全国でも日吉大社にのみ現存している形で重要なものです。
東本宮本殿は、西本宮本殿とほぼ同様の造りですが、背面の三間の床が一段高くなっているのは、異なるところです。
文禄四(一五九五)年に西本宮本殿に引き続いて復興された日吉造の代表建築です。
昭和三六(一九六一)年四月に国宝に指定されました。」

 

国宝……にこんな簡単に近寄れる、ということがいいのか悪いのか。
昨今は物騒な輩がいますからね、注意していただきたいと思います。

 

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「東本宮」本殿の狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。
木造ですね。
なんともやわらかな造形です。

 

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おっと、全景がありました。
なるほど、三方向の廂が作り出す水平の広がりと、前方の廂と階段が作り出す前後方向の奥行きが……と書き始めましたが、そんなものを描写する能力は私にはないのでした。
ちょっとずつバランスを崩しているような感じがいいんでしょうか。

 

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……全然解説が見えない……社名とかが書いた板があるんですけれどね、ここまで影になっているとは。
位置的には「樹下若宮」だと思うのですが……あ、「新物忌神社」かも。

 

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そのお隣の井戸。
何か解説があったはずなんですが……超余裕で時間をとって訪れたのにこの体たらく……多分お腹が痛かったんだと思います(?)。

 

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「東本宮」本殿を、向かって左側から。
垂木の連続性……。

 

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狛犬さんを後ろから。

 

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葵が植わっている……という場所だったと思います(おいおい)。

 

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本殿裏手に、「大物忌神社」が鎮座まします。

 

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「御祭神 大年神
(略)
東本宮の御祭神である、大山咋神の父神様をお祀りしています。
お猿さんの顔をされた神様で、そのお姿は、山王曼荼羅にも描かれています。」

 

「お猿さんの顔をされた神様」

 

……え、そうだったの?

そんな話は聞いたことないので、「日吉大社」の伝承なのでしょう。
地域の習俗として「年神様」というのがありますが、似たような神性だと考えられていますね。
季節の移り変わりとサイクルを「一年」と捉える、というのは古代以前からあったと思われますので、「年を更新する」という意味でお祀りされたのでしょう。
時間の概念理解はともかく、繰り返される似たような季節の事象を説明するための「年」で、それがつつがなく繰り返されるのは「年神」のおかげだ、という感じでしょうか(後付けの解釈です)。
穀物と関連づけられるのは、年を更新するもっとも重要な理由が収穫だったから、ということでしょう。
「年神様」と「大年神」、どちらが起源なのかはもうよくわかりませんけれど。

 

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なお、「早尾神社」は社殿修復中なので、御祭神にはこちらにお遷りいただいているそうです(2016/12/2現在)。
御祭神は「須佐之男命」です。
どうやら「日吉大社延暦寺の門番の神」だそうで……自分の子孫(「大山咋神」)が「日吉大社」の御祭神だから、なのでしょうか。

 

○こちら===>>>

鳥海山大物忌神社 HomePage

 

↑「大物忌神社」といったら、こちらがすぐに思い浮かびますよね。
いつか行ってみたいなぁ……。

 

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横から。

 

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「稲荷社」。
なんかいきなり小さくなっちゃいましたが……「倉稲魂神」は、「大年神」の父神とされています。
「東本宮」には「須佐之男命」の神統に属する神がたくさんいらっしゃる、ということですね。

 

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本殿を後方から。
確かに三間が一段高くなっています。
安土桃山以前から、この状態だったのでしょうか……。

 

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もうちょっと寄ってみました。
左右に伸びた廂の分、後ろから見ると屋根の描く曲線が面白い感じですね。

 

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本殿向かって右側にある「梛」。
こちらは「雌梛」だったかと。

 

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本殿ぐるりと一周しまして、狛犬さんを後ろから。

初回はこの辺りまでで〜。

 

 

 

近況

2/25。

日吉大社」の記事を、といいながら近況を。
ひさびさに「南宮大社」に行ってきました。

 

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また記事は書くつもりです。
御朱印の写真はありませんが、どうやら現在「南宮大社」では、美濃国二宮、三宮、総鎮守の御朱印もいただけるようです。
授与所にサンプルが貼ってありました(が、一応ご確認ください)。
南宮大社」しか行けなかったので、他の御朱印はいただいておりませんが、興味のあるかたは是非(御朱印情報ということで、カテゴリー「御朱印」をつけてあります)。

 

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天気がよくて、瓦塚の写真ばかりとっていた気がします。

 

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本命は「御首神社」。
私、神社仏閣巡りは好きなのですが、特に祈願はしません(自分のこと)。
ご挨拶程度で。
今回は、周辺でいろいろありまして……『攻殻機動隊』風に言うと、「お脳がチクっとしますね〜(脳自体に痛覚はない)」という感じでしょうか(?)。
参拝して、お守りをいただいてきました。

 

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せっかく岐阜まで行ったので、「金神社」に。
母方の実家が岐阜なので、子供の頃はよく出かけた辺りにこんな神社があろうとは……。

 

胃腸風邪からこっち、お腹の調子が悪いです。
ま、実は年中悪いので、胃腸風邪の影響かどうかはわかりませんが。
花粉も飛び始めております、みなさまご自愛のほどを。

 

次こそ「日吉大社」の記事を書き始め……ます。

「大徳院」(あま市)(再)

11/26。

さて。

引き続き「甚目寺」界隈ということで、大徳院にもご参拝。

 

○こちら===>>>

えびす大黒の大徳院 尾張三霊場の2番札所 愛知県あま市甚目寺

 

↑ちゃんとしたHPがありました。

 

○こちら===>>>

「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の「甚目寺」の記事の中で、「大徳院」にも触れています。

 

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正面の門。

 

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甚目寺」側から。

 

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忘れずに、御朱印。
えっと……今回の写真は以上、と。


国会図書館デジタルコレクションで探してみたのですが、それっぽいお寺がどうも見つからず。
お寺でいただける「ごあんない」から、

 

「当寺は推古天皇六年(五九八)に創建されました。
建久七年(一一九六)源頼朝の命により、恵比寿大黒の二尊像が奉安されました。
爾来恵比寿大黒天信仰の根本霊場として、半農半漁で生活する地域の人々の五穀豊穣・漁業繁栄の守り本尊としてその信仰を集めこの地に名を広めました。
慶長十二年(一六〇七)には、左甚五郎が当寺参拝の折、本尊の霊姿に深く感動し、その威徳にすがって数ヶ月間滞在し、のみをふるって二天像を彫刻しこれを住職に寄進した。これが現在の本尊だと云われている。
又、古来伝承の木版刷り本尊御影はその霊姿、功徳力共に他に比類するものがないと全国各地より多数その徳を受けに参拝されます。
尚、この御影は必ず<わら>でしばって持ち帰り、家内の南向又は東向に並べはり、上へ上へと重ねれば益々福が積ると喜びまつられています。(以下略)」

 

とのことです。
おそらく、

 

「半農半漁で生活する地域の人々の五穀豊穣・漁業繁栄の守り本尊として」

 

↑この辺りがポイントで、「恵比寿」様といえば水の恵みの神、「大黒」様といえば穀物の恵みの神、という認識があった、ということでしょう(後付けの可能性もありますが)。

甚目寺」との関係がさっぱり書かれていませんが、いちおう塔頭ということになるんでしょうか。

甚目寺」の案内板にも載っているくらいですしね。

高田崇史氏好きとしては、

 

「この御影は必ず<わら>でしばって持ち帰り」

 

↑これが気になりますけれどもね……新しい習慣だとすればそれほど意味がないと思います。
それでも、御影をわらでしばる、というのはなかなかない発想かと。
元々、「恵比寿」様は、「事代主神」か「蛭子神」で、海に流されたり溺れたりしていますし。
「大黒」様を「大国主命」と考えれば国を奪われた(正確ではないでしょうが、とりあえず)神で、「大黒天」だと考えればインドの破壊神です。
怨霊と思えば、その威力は抜群なので、しばっちゃうのかもしれないですね……

 

 

 

 

 

あ、妄想です。

 

 

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寒桜なのか梅なのか。
ちょっと美しかったので。
さて……やっと11月の記事が終わりました……次回からは「日吉大社」の予定です〜。

「漆部神社」(あま市)(再)

(間が空きまして……BABYMETALを愛でるのに忙しいとか、和楽器バンドのライブに行ったとか、そのときにもらった胃腸風邪でぐったりとか、いろいろと……)

 

11/26。

甚目寺観音」のお隣には、漆部神社がご鎮座まします。

 

○こちら===>>>

「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の「甚目寺」の記事です。

甚目寺」からの流れで、「漆部神社」のことも書いています。

 

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案内板。
陰陽紋がやはりいいですね。
御祭神は「三見宿禰命」。
相殿として「八大明神」には、「加茂・春日・祇園・稲荷・住吉・松尾・平野・貴船」と、もっぱら京都・奈良の神社が祀られています。
うーむ、式内社としての格を印象付けよう、という感じをうけなくもないです。
さらに相殿には「木花咲耶姫命」。
どういうことなのか……。

 

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蕃塀越しの社殿。

この蕃塀は、本社のものではないのですね。

 

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狛犬さん

 

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たら狛犬さん。

 

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こちらの摂社……なのか……おそらく「日吉社」だと思われます。
神明造の平入に大社造っぽい屋根と階段……なかなか謎の造です。

 

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鳥居は朱塗り、と。

 

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神馬。
もちろん陰陽紋。
素敵。

 

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拝殿正面。

 

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参道の狛犬さんたら

 

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狛犬さんその1。

 

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蕃塀。

 

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神橋(きよめはし)。

 

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参道の狛犬さんたら

 

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狛犬さんその2。

 

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鳥居の外まで来てみました。

御朱印は、授与所がお昼休みでいただけず。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『尾張名所図会』では見つからなかったもので、とりあえず『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
382コマです。

 

漆部神社
漆部は奴利部と訓べし ○祭神木花咲耶比咩命 (■帳○今按三見宿禰命歟) ○在所詳ならず ○民部省■帳云、仁寿三年二月加再復、実天智天皇三年五月之御新遷、所祭神霊木花咲耶比咩也云々、(略)」

 

延喜式神名帳』の尾張国海部郡八座のうちの一つ、ということになっていますが、場所はよくわからず。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』ではどうなっているかというと。
155コマです。

 

漆部神社
祭神 三見宿禰
今按舊事紀饒速日命四世孫大木食命(三河国造祖云々)の弟三見宿禰命漆部連等祖とある此に由あり民部省圖帳に祭神木花咲耶比咩命と云るは疑しければ取らず
(略)
所在
今按鹽尻にこの社は津島社ならむと疑ひ 又一説に津島市神社ならんと云へど更に證なし 同郡荷之上村八幡宮と云説ありて荷上はののへにてののへはぬりへならんかと云へど信がたし 又愛知郡下之一色村なる浅間社の御手洗川を奉仕の祠官は塗部川なる由云へれど探索するに古よりおゐけすと云へば取にたらず 甚目寺観音は此社の変ぜしものならんと云説もあれど是亦證なければ取がたし 今にては廃社なるべし」

 

というわけで、以前の記事でも由緒書を引用したのですが、

 

延喜式神名帳に国弊小社として載っている」

鎌倉時代には、従三位として知られ、国司の幣帛を受けている」

南北朝以後は荒廃して、室町以降は八大明神社と称された」

「維新の地、郷社の社格が与えられ、昭和32年に元の「漆部神社」に戻した」

 

↑どうやら鎌倉から南北朝の辺りで荒廃してしまい、所在が不明になりました。

社伝では、「八大明神社」となっていた、ということなのですが、

 

「鎮守 八大明神・山王権現の二社、其外白山社・天満宮社・金毘羅社等数祠あり。大師堂・弁財天社等、二王門の外にあり。」

 

↑前回引用した『尾張名所図会』の中の記述です。
江戸時代には、「八大明神」というのは「甚目寺」の鎮守と認識されており、それが「漆部神社」のことなのかどうかはよくわからないのですよね。
うーむ……。

 

津田正生の『尾張国神社考』(原題『尾張神名帳集説本之訂考』、ブックショップMYTOWN、平成12年)によれば、

 

従三位漆部神社 一本作塗部
ぬりべのみやしろと読奉るべし。うるしべと訓へからず ([和名抄]大和国宇陀郡に)漆部郷(奴利辨」)とみゆるに随ふ」 [先達曰]此みやしろの在所をいま詳にせす [一人曰]津島村今の市神の社地にはあらぬか、市神社は大市媛命(大山祇神の女)」を祭る。津島五ケ村の産神とすれば也 [風土記云](偽書と云ふ)漆部社は、祭神木花開耶比賣命也と見ゆ。 [正生考]大市媛命は習合家にいへる武塔天神(牛頭天王とも)の適妻にて五男三女(八王子)を生給ふとみゆ。既にいふごとく社号神名を字音に唱ふるものは後世の事にて、取わき慶長やす國の後におほきやう也。津島社を牛頭天王にいひ募りて一変せるも、やうやく四百五七十年以来の事也。と或人はいへり。然れば市神の社号も、牛頭天王と時代を同くすれとも、神地は舊して漆部神の俤なるべき歟、なほよく訂爲べし(略)」

 

↑『特選神名牒』でバッサリやられている説が掲載されています(文中の『風土記』というのは、『古風土記』(逸文含)ではなく、近世に書かれたものなので「偽書」となっています)。
御祭神が「木花開耶媛命」だとすると、それは「漆部神社」ではないような気がしますけれども。

また、付録として(ちょっと長いですが)、

 

「海部郡漆神社一説式内
正生漆部神社を捜索こと三十餘年、いまだ其在所をしらす。然るに尾張風土記漆部神社は祭神木花咲耶姫命也とみゆ(偽書ながらも)開耶姫橘姫命などは後世観音菩薩に混淆事あり遠江国佐益郡(今は佐野と誤)」淡ヶ嶽の観音堂は舊は阿波波神社の俤也と内山眞龍いへり。又伊勢國白子宿寺家の観音も奄藝郡比佐豆知の神社の本地堂にて、祭神木花咲耶姫命の神木は不断桜也と勢陽里諺に見へたり。本国上水野村感応寺の観世音も舊は山田郡小金神社の本地堂也。是等の類を縁て熟按は漆部神社の一変て、今は甚目寺大悲閣となりたまふもの歟。其説左にしるして、後の君子のさためをまつのみ。」

 

ひとまず、津田正生翁は、「木花開耶媛命」や「弟橘姫命」が御祭神というのは、「観音菩薩」との神仏習合から導き出されたものだ、という説をある程度支持しており、そのこともあって「漆部神社」は「甚目寺」になったのではないか、と考えられたようです。

 

「[地名考云]鳳凰山甚目寺 真言宗 七堂伽藍二王門(建久四年所作也)
本堂 正観音 立像土仏也
一山之別当 東林坊
阿弥之坊三戸(略)妻帯也。此外十坊あり清僧也略文。
別当云]当山の観世音は秘仏にして、拝せば忽眼潰ると申伝て、一山の僧といへども昔より拝たるものなし。宮殿にます観世音は御長一丈有餘の土仏立像縁下より立給ふがゆゑに、只上半躰に宮殿を覆ひかけたるはかり也。是は三十一年目に開帳あり。秘仏は此土仏の御服籠にありとも、又宮殿下の井中にありともいふ也 [松平君山曰]縁起を摘て云、(略)此観音もとは伊勢国甚目といふ所にありしが仏院破壊して仏も又流れ、程歴て此浦に寄来るをすくひ揚し所を今、観音池とよび、又龍丸か子孫相続きて三戸あり。世々薙髪妻帯せり。土俗これを網の坊と呼」と見えたり。」

 

↑最初に仏像が流れ着いたのはやっぱり伊勢国の甚目だった、という話があります。

 

「[山田荷沼曰]中古某阿弥阿弥といふ禅門は薙髪妻帯にて仏に従事ものなりとぞ。按その某阿弥を後人阿弥の衆といへしを、網に誤りたる成べし。土仏の流るといふ事も有まじく、且観音池も末世の偽物なるべしといへり [正生謹考]甚目寺観音は舊は神社の地なるべし然おほじき事は[別当曰](略)在家の中、若死穢ありて同火同食に触る時はその僧徒一七日観音堂へ出る事を禁ず、むかしより斯のことし。地下所の在俗男女も右に同じ。唯往来の人は、いかにとも爲べきやうなければ其沙汰に及ばず。扨宮殿のうしろ堂に釘〆にしたる舊き箱あり、その内に三種の神器の納ませば穢火を忌来るとも申伝ふといへり[里老曰]正月元朝別当東林坊と、阿彌の坊三人と、本堂観世音の正面にて年賀の盃あり。又元日より七種の日まで修正会を修行す。満座の時に伊勢、加茂、八幡等の大社及び本国中の神名をよみあぐる事あり(是は本国帳の一巻也)五月十八日には近郷より観音へ幣馬を奉る。次に走馬あり。村々の若者ども穢火を忌慎むこと厳重也。又八月十八日を観音の祭礼と呼て、本堂の正面に大釜三口をすゑて湯花を奉る。階橋の下にて神子処女、白栲の袖をひるかへす。岩塚村の社人吉田氏これを掌る[近藤利昌曰]本堂の乾方に楠の大樹あり。側に八所明神の社頭あり、土俗は八大明神とも呼(本堂より寅に山王ノ社あり。是は二百年此かたの事也とぞ)八所明神の宮は、鳳凰山(今の本堂の地をさす)の山上にありしを、康和年中、本堂を建る時、その社を今の地に遷し、平山を引捄て観音の堂を建ともいへり[正生考]八所の名は後世の俗称にて、八ヶ所の神を都たるなれば、是を往昔の摂社か、さて世に秘仏と称るものは其覆ひ隠すところあるもの也。考證の爲に浅草の秘仏観音を爰に引。」

 

↑「甚目寺」の地がかつては神社だった、という根拠(津田翁が考えるところの、ですが)がいくつか挙げられています。

 

「在家の中、若死穢ありて同火同食に触る時はその僧徒一七日観音堂へ出る事を禁ず、むかしより斯のことし。地下所の在俗男女も右に同じ。唯往来の人は、いかにとも爲べきやうなければ其沙汰に及ばず。扨宮殿のうしろ堂に釘〆にしたる舊き箱あり、その内に三種の神器の納ませば穢火を忌来るとも申伝ふといへり」

 

↑この辺りが確かであれば、結構面白いですよね。
個人的には、「後堂」にある「釘〆にしたる舊い箱」というやつが気になります。
で、同じようなところとして、浅草の例を挙げているのですね。
孫引きになってしまいますが。

 

「[附言][橘守部曰]江戸浅草寺の観音前立は二尺餘の木像にして開帳仏是也。秘仏と申すは古来より甚秘して拝たる人なし。されど寺中にこれを守護する人々、世々八咫鏡也といひ伝へたり。此秘仏を祀り置所は、前立の観音より二間ばかり奥に高御座とて稍高き壇ありて、其上に安置せり。方一尺二三寸、高さ二尺餘の箱にして釘附にせり。錦綾の覆ひ十重もかけて、錦の褥御肌付の薄絹、何くれと厳にして斎くさま在ごとし、壇は方六尺、高さ九尺ばかりもあらむ。幔にてかこひたれば外よりは見えがたし。毎年十二月十三日、堂の煤払也。其前夜十二日の夕方、かの高御座の二畳の畳を敷改る時所謂三普代の者、白衣に覆面して、中に一人負ひておろし奉るに、其傾く時あたりて発音もはら鏡の鳴音也。竊に愚按を廻らすに、是むかし神社にて在し時の神鏡をば、秘仏と称して隠し祀りたる成べし。今境内雷神門の側に地主大神宮と称するあり。又二玉門の傍に地主西宮稲荷の社と申ありて、伝いふ往古大神宮たりし時の豊宇気宮にして、此社のみはうごかせたまはずといへり(大神宮は南向、豊宇気宮は東向也)是によるに地主大神宮は舊は今の観音堂に鎮座たりしを、其神鏡を堂に留めて、地主として表門へは迂し奉りしなりける。毎日暮六時かぎりに門を閉て其門に木綿をかけ幣帛を立るも、其名残と見ゆ。祭礼三月十七日と六月十五日と両度あり。今はこれを三社権現の祭といへどまさしく大神宮の時よりの祭とおほしき也。堂の祭の徴なる事は、二十年、三十年に一度づつまさしく観音の大祭ありて、観音堂より御輿出て隅田川の船祭也。其古図を見るに、行列甚美々敷東都第一の壮観たり。爰をもて推てしるべし又神馬二疋あり、是も三社権現の神馬也といへど、古来より観音堂の左腋にありてかの神境の神馬とそおほしき、かくて此三社権現と申は、其昔浜成、武成、甲斐成とて三人の者網もて観音をすくひあけたりといふ、その人々を祀りたる社也。その浜成の裔を土師宿禰専堂といひ、武成の裔を檜隈宿禰斎頭といひ、甲斐成の裔を檜隈宿禰常音といふ。此三戸は薙髪妻帯にて今寺中の次の属といへとも、秘仏観音の事に就ては威光あり此両人の檜隈を舊は日前と書たるよしいひ伝へたり。しかれば紀伊国日前社に由縁あるか、いづれにもその霊験の灼然事伊勢とひとしくあやしき事々おほかり、又此三人の先祖の引上たりといふ観音の像は、今の前立なるべし。此外にもいろいろ神に縁ある事おほかれと寺中挙りて只観音になし奉りて、縁起には推古天皇三十二年出現といふことを強て唱ふる也といへり。」

 

長々と……。
引用されているのがどこまで正確な文献かはさっぱりですが、

 

「されど寺中にこれを守護する人々、世々八咫鏡也といひ伝へたり。此秘仏を祀り置所は、前立の観音より二間ばかり奥に高御座とて稍高き壇ありて、其上に安置せり。方一尺二三寸、高さ二尺餘の箱にして釘附にせり。」

 

↑これが引っかかったわけですね。

 

「毎年十二月十三日、堂の煤払也。其前夜十二日の夕方、かの高御座の二畳の畳を敷改る時所謂三普代の者、白衣に覆面して、中に一人負ひておろし奉るに、其傾く時あたりて発音もはら鏡の鳴音也。」

 

↑これは、箱の中の音が鏡っぽかったという部分よりは、「白衣に覆面して」なんてところに、非仏教的な感じがある、ということなのでしょう。

 

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「浅草神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

 

↑浅草の「三社権現(浅草神社)」については、こちらの記事で『江戸名所図会』なんかを引用しています。

 

「[正生考]此いわれをきけば、浅草と甚目寺観音と相似たる事おほし、まづ秘仏と唱へて釘〆にしたる御箱ありといひ、仏閣にして神事の残れるといひ、秘仏に縁有の薙髪妻帯にして三戸宛ありといひ、旁々符節を合せたるが如し、爰をもて甚目寺観音を漆部神社なるべしとおもひしならむ、後の君子能く正して定めてよ(以上地名考)[穂積曰]此説は家翁はやくおもひよられたる考にて地名考に載せられたれど晩年に及ては此説をすてて、津島市神の社なるべくやと試をしるされたり。そは本書に述べられたるがごとし。さすかに此一説もすてがたくて、ただ考索の一助にしるしおくのみ。」

 

↑のちに津田翁、この「漆部神社イコール甚目寺観音」説は捨てられたようですが。
前回の「甚目寺」の記事でも引用したように、似たような話が「善光寺」にも伝わっています。

 

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善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

 

↑かつて「善光寺」の金堂後方にあった年神堂のことや、「善光寺」の三つの勢力のことなど、「善光寺」「浅草寺」「甚目寺」との共通点がいろいろと見受けられますね。
いろいろと妄想できそうなのですが……。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、神仏習合の頃のことを考えれば、神社だった場所に寺を建てる、ということは比較的普通に行われていたような気がします(西洋では、ケルト的信仰の地のあとに、キリスト教の教会が建つケースがままあります)。
信仰の場を乗っ取る、と表現すればあまり褒められたものではないですが、荒廃した神域に新しいものが建つのは現代でも変わりません。
その際に、かつての鎮守の神をそのままお祀りする、ということもまた普通にあったのでしょう。
ここで怨霊を絡めると、寺院側が結構な酷いことをしちゃったので、祟られないように鎮守に祭り上げた、でもその祭り方はどうだったのか……やり方としては、「大物主大神」の祟りを鎮めるためにその子孫を連れてきたことに倣っているのかもしれないです。
善光寺」も「浅草寺」も、「甚目寺」もですが、仏像を引き上げた人物の末裔が、後々まで寺に奉仕したり、「浅草寺」に至っては神に祭り上げられていますから。
神仏習合というのは、怨霊を恐れる日本人的な発想から、「致し方なく生まれた」ものなのかもしれないですね。
ともかく、どこが起源かわかりませんが、日本に仏教が到来した頃には、「仏像が網にかかる」ところから始まる伝説がもてはやされたのではないでしょうか。
東海地方、信州、東国と、似たような伝説が残っているのは、畿内から東漸していったのか、あるいは信州から尾張、武蔵へと双方へ広がっていったのか。
まあ妄想なのですが、津田翁の思いついたことも結構面白いところを残していると思いますので、もっとがっつり妄想した説がちゃんと本にまとまっていたら読みたいなぁ……と思います(幕末、国学が興った、というのも見逃してはならない要素かもしれないです)。

で、「漆部神社」は、かつての式内「漆部神社」なのか……よくわかりませんね。
しかし、かつては「鳳凰山」と呼ばれた山に鎮座していたのだとすると、古代のこの地方の有力者の「古墳」だった可能性はあるかなと思います。
また、「山」から「木花開耶媛命」への連想も、それほどおかしくはないでしょう。
古い信仰が薄れてしまい、そこに新しい信仰がやってきた、というだけなのか。
古い信仰と新しい信仰の争いがあり、それが隠蔽されているのか。

 

 

 

 

 

いかんいかん、もうちょっと勉強せねば。
とりあえず本日はここまで〜。

「鳳凰山甚目寺」(あま市)(再)

11/26。

中村区まで出かけたついでに、鳳凰山甚目寺を再訪。

 

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「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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二王門。
天気がいいです。

 

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お猫様発見。
幸先のいい……そこは暖かいのかしら。

 

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二王門アップ。

 

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……なんだったかな、これ。
亀みたいな石だな、と思ったみたいです。

 

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ええと……読めん(悔)。

 

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本堂。

 

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手水舎。

 

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遠景。

 

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仁王様。

 

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たら仁王様。

 

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御朱印。

ふう……途中でお隣の「漆部神社」にも寄りました(が、そちらはお昼休みで御朱印いただけず)。

次回「漆部神社」の再訪記事を〜。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』からいってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
101コマです。

 

鳳凰山甚目寺(じんもくじ)
甚目寺村にあり。真言宗、府下真福寺末。寺伝に云く、当寺は甚目(はだめ)龍麿の創建にして、龍磨常に漁猟を業とせしが、一日網を携へ、海浜に出でんとし、傍なる入江に網を下しけるに、たちまち網の裏に物あると覚えければ、力を出し網を引きしに、紫金仏の一體を得たり。つらつら見奉るに、聖観音の霊像なれば、且驚き且悦び、合掌礼拝し、立所に己が罪劫を後悔し、所業を捨てて道心を発し、江の側に一宇を造立し、彼尊像を安置し、吉貴四年丁巳 推古天皇の六年也。 其姓氏を以て寺号とす。こは往昔釈尊出世の時、南天竺毘舎離国の月蓋長者の息女如是女、五種の悪病をうれへける時、釈尊より弥陀・観音・勢至の三尊仏を授与し給ひて、彼劫病を救はせ給ひし霊像なりしが、其後我が日本に伝来し、弥陀の尊像は信濃国善光寺に安置し、観音の像は即当寺の本尊とならせ給ふ。或時、天智天皇御不豫にましましけるが、帝当寺の霊験あらたなる事を聞し召し、御祈願ありけるに、御悩忽ち御平兪あらせられしかば、勅使左小辨兼盛を以て、八葉の宝鏡 今に寺伝す。 を仏殿に懸け給ひ、勅願寺となし給ひぬ。白鳳八年己卯又勅宣ありて、堂舎を建立し、鳳凰山の勅額を下し賜ふ。仁寿三年癸酉、更に一宇を造営して、龍磨の像を安置 後回禄せり。 す。康和五年癸未、散位藤原連長・僧智能、共に私力を盡し再営す。寺僧及び下司大江重房等も亦合力して、堂舎終に復古せり。天治元年甲辰二月朔日の地震に、又堂宇破毀す。建久七年丙辰、聖観上人檀越に勧め、施入を請い経始す。二月十日山に入り木を伐る。是を釿始とす。同八年四月四日石台を居ゑ、五月八日柱を立て、七月十一日上棟す。正治二年庚申堂宇を葺き、建仁元年辛酉十一月三日落成し、同十八日午時堂供養、勅使大膳大夫安倍資元なり。さて上人一力にて大宇を修造し、供養を遂げければ、即上人を以て中興の開祖とし、木像を堂内に安置せり。上人曾て観音池を巡礼して後、其行方をしらず。又来日も知る人なければ、恐らくは、観音の権化ならんかと、諸人奇異の思をなせりとぞ。夫よりして法灯絶ゆる事なく、堂塔も厳然たる無垢清浄の古名刹なり。
本尊聖観音 三国伝来閻浮檀金の秘仏なり。左右に毘沙門・持国二天の尊像を安置す。往昔一遍上人当寺へ参詣ありて、踊念仏執行ありし時、此毘沙門天僧俗と共にをどり給ふ。故に踊毘沙門と称す。上人廻国の序、当国に来られし時は、必堂前にて今猶念仏行導あり。是当年の余波なるよし。又持国天は俗に田植毘沙門と称して、むかし萱津の里に千木下長者といふものあり。此尊像を深く信仰しけるが、或時一夜の中に十餘町の田を植ゑ給ひしかば、夫よりして田植毘沙門と號す。をどり毘沙門と共に霊像なり。また堂内に一木巨像の四天王を安置す。即行基菩薩の作にして、いづれも霊像なり。
寺宝 阿弥陀の木像 曽我十郎祐成が妾虎女尼となりし後、六十六軀の阿弥陀仏をつくり、六十六箇国の寺院に納めし其一體なりといひ伝ふ。 (以下略)
釈迦堂 堂内に聖僧の木像を安置す。白き帽子冠りけるゆゑ、諸人女体と心得、白粉をほどこすによろしとて、尼僧に乞へば白粉を與ふ。俗におそうざうといふ。此外準提堂・薬師堂・十王堂・地蔵堂・阿弥陀堂・開山堂・護摩堂等の数宇、いづれも皆境内にあり。
三重塔 本尊愛染明王弘法大師の作。(略)
二王門 本堂の南にあり。建久七年再建のままにて、今も猶存す。棟札に『梶原景時奉行』とありといひ伝へたり。
(略)
鎮守 八大明神・山王権現の二社、其外白山社・天満宮社・金毘羅社等数祠あり。大師堂・弁財天社等、二王門の外にあり。
観音池 寺の東南の畑中に、江上と云ふ所あり。ここなる池即古観音の上り給ふ所なり。故に今に至る迄、正月三日には、未明より一山の衆僧集りて、本堂の後なる鳳凰山を巡り行列して、其後此池辺に至り、大般若を転読す。
(略)
網之衆三家 甚目龍磨の末裔にして、妻帯の僧徒なり。按ずるに、甚目連は尾張海部郡本貫の氏姓にて、[三代実録]に『貞観六年八月八日壬戌。尾張国海部郡人治部少録従六位上甚目連公宗氏、尾張■師従六位甚目連公冬雄等。同族十六人賜姓高尾張宿禰天火明命之後也。』としるせり。今の印行本に甚目連を其目連とあるは誤なり。
(略)」


図会には鳳凰山という小山が描かれていたりします。
二王門、十王堂なんかも見えますね。

 

甚目寺(じんもくじ)」

 

括弧は、ブログ筆者が便宜上つけたものです。
江戸時代には「じもくじ」ではなく「じんもくじ」だったんですね。
音便変化が起こるのは意外にも早いようです。

 

「こは往昔釈尊出世の時、南天竺毘舎離国の月蓋長者の息女如是女、五種の悪病をうれへける時、釈尊より弥陀・観音・勢至の三尊仏を授与し給ひて、彼劫病を救はせ給ひし霊像なりしが、其後我が日本に伝来し、弥陀の尊像は信濃国善光寺に安置し、観音の像は即当寺の本尊とならせ給ふ。」

 

おっと、ここでまさかの「善光寺」登場。

 

○こちら===>>>

「定額山善光寺」 - べにーのGinger Booker Club

「善光寺」(2) - べにーのGinger Booker Club

「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club

善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

 

↑こちらの(3)(4)辺りに、『善光寺道名所図会』などからの引用がありますので、よろしければ。
確かに、「善光寺」の縁起でも、「月蓋長者」が三尊を釈迦より賜った、というようなことが書かれています(戦国〜安土桃山にかけて、「善光寺」の本尊があちこちに移ったときに、「甚目寺」にもいらっしゃっていますしね)。

自分のところの御本尊の記述しか残さないのは仕方ないとして、まさかそのとき捨てられた仏像が、難波から流れ流れて尾張まで……ん、海流的に可能ですか?

紀伊半島沿いにどんぶらこ、とやってきたのでしょうか。

うーん……まあ伝説ですのでいいのですが。

尾張といったら、どちらかといえば物部系の勢力も強いところだったようです、そこに仏像が流れてきてお祀りしたというのもちょっと疑問。

 

「本尊聖観音 三国伝来閻浮檀金の秘仏なり。左右に毘沙門・持国二天の尊像を安置す。往昔一遍上人当寺へ参詣ありて、踊念仏執行ありし時、此毘沙門天僧俗と共にをどり給ふ。故に踊毘沙門と称す。上人廻国の序、当国に来られし時は、必堂前にて今猶念仏行導あり。是当年の余波なるよし。又持国天は俗に田植毘沙門と称して、むかし萱津の里に千木下長者といふものあり。此尊像を深く信仰しけるが、或時一夜の中に十餘町の田を植ゑ給ひしかば、夫よりして田植毘沙門と號す。をどり毘沙門と共に霊像なり。また堂内に一木巨像の四天王を安置す。即行基菩薩の作にして、いづれも霊像なり。」

 

↑この辺りも面白いですね。
持国天「田植毘沙門」と呼ばれたというのも、適当というか、おおらかというか。

 

「釈迦堂 堂内に聖僧の木像を安置す。白き帽子冠りけるゆゑ、諸人女体と心得、白粉をほどこすによろしとて、尼僧に乞へば白粉を與ふ。俗におそうざうといふ。」

 

↑「おそそ様」のことにも触れられています。

 

梶原景時

 

↑この名前に聞き覚えがあったのですが、

 

○こちら===>>>

梶原景時 - Wikipedia

 

↑……うん、聞き覚えしかなかった。
鎌倉〜戦国時代の知識は本当にからきしで……。

例えば、

 

「寺宝 阿弥陀の木像 曽我十郎祐成が妾虎女尼となりし後、六十六軀の阿弥陀仏をつくり、六十六箇国の寺院に納めし其一體なりといひ伝ふ。

 

↑ここに出てくる「曽我十郎」は、

 

○こちら===>>>

曾我兄弟の仇討ち - Wikipedia

 

↑で有名な人だと思うのですが、本当に何も知らず……不勉強で申し訳ないです……『曽我物語』か……名前しか知らないです。

 

「網之衆三家」

 

↑何か、かっこいい。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 9 海東郡,海西郡

 

↑『尾張志』の記述も、『尾張名所図会』とあまり変わりませんが。
51コマです。

 

甚目寺
甚目寺村にあり 鳳凰山といふ 名古屋宝生院の末寺也 推古天皇の御代五年丁巳のとし(略)甚目龍磨ここの海中より当寺の本尊観世音紫金の形像を網曳出し奉れる故に其姓によりて甚目寺といふよし縁起に見えたり されと創建の年月詳ならす かかれは此龍麻呂を開祖とす 天智天皇の御代主上俄に御不豫の事ましまししに此観音の霊験いちしるしき事天聴に達し遙に御祈願ありけれは新たなる夢想ありて忽御平癒ましまししを叡感のあまりに勅願寺たるへき綸旨となし下され左少辨兼盛を勅使として御鏡を御奉納あり 天智天皇の御代白鳳年中(略)三間四面二蓋の堂舎一宇御建立ありて東門に法皇寺といふ額をうたれたり 其後文徳天皇の御代仁寿三年癸酉八月八日甚目連僧麻呂(略)といふ人精舎一宇を造営し始て同四年甲戌二月二十一日其功終ぬ 其後堀川天皇の御代康和五年癸未正月十七日丁酉散位藤原連長僧智能大江の重房等をはしめ寺家諸僧地下人等とひとしく同心加力して修造の功を終て上等せり 又崇徳天皇御代天治元年甲辰二月一日地震にて破壊したるを大治元年丙午(略)春当庄下司散位大江朝臣爲道並女及長谷部の氏人と共に是を修理す 其後後鳥羽天皇の御代建久七年丙辰二月十日より同八年丁巳七月十一日迄に聖観上人勧進造営上棟せり 又土御門天皇御代正治二年庚申七月二十六日より建仁元年辛酉十一月十八日まてに造営終り供養せしよし迄文永元年書る縁起に見えたり 推古天皇五年この本尊出現今年天保十五年まで千二百四十八年に及ふ かはかり久遠の年序を経たる寺院は■に国中無双にして四観音と俗に呼ならへる霊場旧地の最第一也
本尊(正観音三国伝来閻浮檀金の霊像秘仏也といへり 前立十一面観音立像聖徳太子の作といふ 左右に持国天毘沙門天二像を安置す 又堂内に行基の作と云四天王の像あり)(略)」

 

「国中無双にして四観音と俗に呼ならへる霊場旧地の最第一也」

 

↑忘れていました、「尾張四観音」を巡ろう、と思っていたんでした。

 

一応、

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 『東海道名所図会』も見ておきましょう(上巻、P374)。

 

甚目寺
尾州尾張)海東郡江上庄にあり。真言宗鳳凰山と号す。
本尊正観音 長丈六(十六尺)。腹内の小仏、勢州(伊勢)甚目浦より出現。
三層塔 愛染を安ず。
二王門 右大将源頼朝公建立。梶原景時奉行す。」

 

おっと……御本尊は「甚目寺」の辺りで引き上げられたようですが、お腹の中の秘仏は伊勢の「甚目浦」に出現した、と。
これはどういうことでしょう……確かに、松坂市に今も甚目町があり、伊勢湾にも比較的近いです。
ん〜……多分、たくさんの諸先輩がたがこのことに挑んでおられると思います(どんな説があるのかはわかりませんが)。
伊勢の「甚目」と、尾張の「甚目」で、仏像を取り合ったりしたのでしょうか……『新撰姓氏録』かな……尾張「甚目」に関しては、

 

「網之衆三家 甚目龍磨の末裔にして、妻帯の僧徒なり。按ずるに、甚目連は尾張海部郡本貫の氏姓にて、[三代実録]に『貞観六年八月八日壬戌。尾張国海部郡人治部少録従六位上甚目連公宗氏、尾張■師従六位甚目連公冬雄等。同族十六人賜姓高尾張宿禰天火明命之後也。』としるせり。」

 

↑『日本三代実録』に登場しているようなので……うん、機会があったら、これに関する書物を探してみようと思います。
松阪まで行ったら、かもしれません(三重県の神社仏閣も、もう少し回ってみないとね、とは思っているのですが……なかなか……四日市ジャンクションの渋滞が……)。

とりあえず、「甚目寺」はこの辺りで〜。

「素盞男神社」(中村区)

11/26。

よんどころないこともない事情で「豊国神社」に行きまして、

 

○こちら===>>>

近況(紅葉) - べにーのGinger Booker Club

 

それから、気になっていた神社ということで、「素盞男神社」へ。

 

○こちら===>>>

名古屋市:素盞男神社(中村区)

 

↑中村区の史跡散策路のページです。

場所としては、「中村日赤」でお馴染みの病院のごく近くです。

昔、中村区に住んでいた人間としては、こんなところにこんな神社が……という感じです(何しろ、「豊国神社」で催される「太閤祭」というのが、また結構な規模のお祭りで、他の神社にはあまり目も向きませんでした……)。

 

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正面鳥居。

「酉の市」で有名、らしいです。

 

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「わくぐり」や「赤丸」の神事もあるようで。
「素盞男」という表記がちょっと珍しいですね。
「素盞嗚尊」か「須佐之男命」か、大抵どちらかなんですが。

 

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鳥居から境内を覗いてみます。
陽が若く、影が濃いですね。

 

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「素盞男神
素盞男尊を祭神として安永三年(一七七四年)に創建され、昭和八年当地に遷座された。
商売繁昌、家内安全を祈願する十一月の祭事(酉の市、おとりさま)は、開運の熊手、福招きの箕(み)、宝船などを求める参拝客で深夜から賑わう。また、七月二十・二十一日の例祭では、茅の輪(輪くぐり)が行われる。」

 

ふむ、比較的新しい創建でしたか。

 

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拝殿正面。

 

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拝殿左斜め前。

 

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狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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拝殿向かって左手の摂社
秋葉社」「天神社」「稲荷社」が合殿になっています。

 

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牛さん。

 

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拝殿を横から。

 

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本殿屋根。

 

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拝殿向かって左手の「大鳥神社」。

 

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拝殿左手から参道を。
鳥居のところで折れ曲がっています。

 

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社務所か参集殿か……かなり賑わう神社のようです(社殿に比べても大きいので)。

 

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拝殿前の鈴と、蟇股の木瓜紋
元々は「牛頭天王」だったのか。

 

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神楽殿。

 

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木瓜紋と巴紋。

 

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再び、正面から拝殿。

 

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もっと拝殿。

わりと狭隘な境内ながら、なんとはなしに人を惹きつける魅力のある神社です。
ワンダーランド……というにはワンダーが足りませんでしたけれど、コンパクトさが街に愛される、ということもあるのかもしれません(奥の参集殿か、神職さんのお住まいでしょうか、そのあたりも含めれば、決して狭くない敷地です)。

 

さて、基本的な文献をざっくりと漁ってみたのですが、どうも歴史に直結するものが見つからず。
おそらく『中村区史』的なものを見ないといけないのでしょうけれども、国会図書館デジタルコレクションでは追跡できず……。

 

○こちら===>>>

大門の歴史と共に在る 素盞男神社。~OMON Fes 2015 スサノオ神社例大祭~|愛知県名古屋市の着物屋 きもの美濃幸 3代目若だんなの徒然日記

 

↑のブログに興味深い記述を見つけましたので、興味のあるかたは。
『中村区史』か……図書館で文献漁りますかな……。

 

 

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「素盞男神社」のほど近くに、趣のある建物を発見。
今は介護保険デイサービスのようなのですが、かつては料亭、さらに前には遊郭だった、らしいです。
むむむ、そうか名古屋の遊郭の歴史も調べてみたいところです。

 


宿題ばっかり……。

 

 

御朱印はいただけるのですが、この日は神職さんが不在だったか何かでいただけず。

そんな日もあるさ……。

「荒子観音」(再)(中川区)

11/23。

「名古屋成田山萬福院」の参拝を終え、まだ時間がありましたので、そうだ「尾張四観音」再訪中だった、と思い出し、荒子観音」へ。

 

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「荒子観音」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回参拝時の記事です。

 

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仁王門。
雄壮です。

 

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ばっちり「尾張四観音」。

 

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境内全景。

 

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お隣の「神明社」の狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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神明社」本殿……というか覆屋かな。

 

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本堂。

 

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多宝塔。

 

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多宝塔別角度。

 

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境内裏手の紅葉。

 

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御朱印は判子です。

 

さて。

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
272コマです。

 

「浄海山観音寺円龍院
荒子村にあり。天台宗、野田村密蔵院末。天平元年越の大徳泰澄和尚の開基、同十三年開山、僧自性建立、永禄八年法印全運の中興にして、尾張四観音の一寺なり。元禄年中僧円空当寺に来寓せし時、数千の仏像を彫刻せり。抑円空師は仏像十二万体を刻まんとの誓願ありし由。故に其作仏今も大小千餘体ありて、壇上はもとより、小仏に至りては俵に入れ、客殿の棟梁に懸けおけるもあり。有信の人此仏像を乞ひ求めて、崇敬やや懈る時は、かへつて現罰を蒙りしとて、多くは又当寺に返し納めしとぞ。脇壇に護法神あり、亦同作にして、其背中に一首の和歌を自筆にて『いくたびも絶えてもたつる三會寺五十六億末の世までも 円空■』又同壇に千面仏の箱あり、師の直封にして敢て開くものなし。箱の裏に又一首をとどむ。『これや此くされる浮木とりあげて子守の神と我なしにけり』さて此円空師の伝は、[近世畸人伝]に詳なれば爰に略す。
本尊 聖観音。泰澄和尚の作。今の堂は、前田又左衛門利家天正四年に再建のよし、[尾陽雑記]に見えたり。
多宝塔 多宝・愛染・釈迦の三尊を安置す。中尊愛染明王は即円空の作なり。貞享年中に僧円盛修造せり。寛政年中に僧全覚再重修を加ふ。
二王門 円空作の両金剛の像を安置す。此像もと知多郡木山の観音にありしを、故ありてここにうつせしとぞ。
霊宝 阿弥陀仏 聖徳太子の御作  聖観音 弘法大師の作  十六羅漢 李龍眠の筆  前田家具足 一領  同位牌 臺に永禄八年乙未十二月八日願主正清とあり。  福島正則書翰、その外数多あり。
紫藤一架 境内にあり。一根繁茂し、池辺を巡る事数十間、春夏の際遊人の来賞甚多し。」

 

尾張名所図会』は江戸時代後期の成立ですが、その時代にはすでに「尾張四観音」の信仰があったのでした。

円空」作の仏像も有名だったようですが、今回もスルー。

開山は「泰澄」和尚、ということで、

 

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kotobank.jp

 

↑「コトバンク」中の『日本人名大辞典プラス』によれば、

 

「682-767 奈良時代の修験者。
天武天皇11年6月11日生まれ。加賀(石川県)白山の開創者とされる。養老元年弟子の浄定(きよさだ)らと白山にのぼり,妙理大菩薩(だいぼさつ)を感得したという。6年元正天皇の病を祈祷でなおし,天平(てんぴょう)9年疱瘡(ほうそう)流行をしずめた。天平神護3年3月18日死去。86歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。俗姓は三神。通称は越(こし)の大徳。号は神融禅師。」

 

白山信仰の創始者ですね。

荒子観音」が本当に「泰澄」和尚の開山かどうかは確かめようがありませんが、その伝説を差し引いてもけっこうな古刹であったと思われます。

図会にはきちんと「神明社」も描かれておりますので、ご覧ください。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

↑『尾張志』の「愛知郡」も見ておきましょう。
24コマです。

 

「観音寺
荒子村にありて静海山といふ 本寺上におなし 天平元年自性上人の開基にて上古は七堂伽藍塔頭十二坊の堂宇並びたち郡中無双の霊場なりしかとも衰廃せしと永禄の頃智音院法師全運是を再営中興すといへり 寺領も三十余町ありしが天正年中検地のとき悉没収せられたりとそ されとも尾張四観音と呼ならへる其一道場にて参詣の人他寺に異り本堂泰澄和尚作の観音を安置す 多宝塔護摩堂又二王門あり 是は僧円空が作なりといふ 当寺の往古のありかは高畑村の北の方八田村より一町はかり南の方にあり 其處に字を本堂といふ 荒子観音の本堂の址なりと高畑村々民いへり  又此本堂といふ處より半町余はかりも隔て大門といふ字あり 是もかの大門なりしよし伝へいへり さて寺に白木の古位牌一基ありて表に数人の法名を書り 其臺坐の裏書に、過去帳修補造之永禄八年乙丑 十二月八日観音寺願主正清法印全運智音院引■■書之とあり」

 

こちらでは、開山が「泰澄」和尚とまでは書かれていません。
一方で、かつての大寺院っぷりが説明されていますね。

 

さてさて、「円空」和尚です。

その仏像の様子はよく知っているのですが、どんなかたなのかは今ひとつ知らず。

『近世畸人伝』なんて本があるのか〜と思って検索して見たら、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近世畸人伝

 

↑発見。
49コマから「円空」師の記事があります。
ちょこっと引用を。

 

「僧円空 附俊乗
円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人なり。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出で、富士山に籠り、又加賀白山に籠る。ある夜、白山権現の示現ありて、美濃の国池尻弥勒寺再建の事を仰せ給ふよりにて至りしが、いくほどなく成就しければそこにも止まらず、飛騨の袈裟山千光寺といへるに遊ぶ。其の袈裟にありける僧俊乗と云へるは、世に無我の人にて交はり善ければなり。円空持てる物は、鉈一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻むを所作とす。袈裟山にも立ちながらの枯木をもて作れる二王あり。今是れを見るに仏作のごとしとかや。又豫め人の来るを知る。又人を見、家を見ては、或ひは久しくたもつべし。或ひはいくほどなく衰ふべしと云へるに、一つも違うことなし。或時此の国高山の府、金森侯の居城をさして、此所に城気なしと云へるに、一両年の間に、侯出羽へ国替へありて、城は外郭ばかりとなりぬ。また大丹生といへる池は池の主、人をとるとて常に人一人は行はず、二人行けば故なしといへり。さるに或時円空見て、「此の水この比にあせて、あやしき事あり。国中大いに災に罹るべし」と云ひしかば、もとよりその不思議を知る故に、人々驚きいかにもして此の難を救ひ給はれと願ひしがば、やがて彼の鉈にて、千体の仏像を不日に作りて池に沈む。其の後何の故もなく、はた是よりは一人行く人もとらるる事止みけりとなん、此の国より東に遊び蝦夷の地に渡り、仏の道知らぬ所にて、法を説きて化度せられければ、その地の人は今に至りて、「今釈迦」と名づけて餘光をたふとむと聞ゆ。後美濃の池尻に帰りて終りをとれり。美濃、飛騨の間にては、窟上人と云ひならへるは、窟に住める故かも。(以下略)」

 

円空」師についての概略は、

 

○こちら===>>>

www.kankou-gifu.jp

 

↑こういったサイトで確認していただくとして、江戸時代の人ながら、すっかり伝説に尾ひれがついています。

加賀白山に籠もった、ということらしいですし、「円空」作と考えられる仏像が東海地方に(愛知県、岐阜県に特に)多いことから、「円空」師の移動になぞらえて、「泰澄」和尚を開山ということにしたのかもしれませんね。

 

「又豫め人の来るを知る。又人を見、家を見ては、或ひは久しくたもつべし。或ひはいくほどなく衰ふべしと云へるに、一つも違うことなし。」

 

この辺りの話、白山で尊崇を受けていたとしたら、地元の人々の中でもいわゆる「被差別民」の信頼を得て、その情報網の一端に触れていたのではないか、あるいは白山なので修験者のネットワークに加わっていたか……といった怪しげな「高田崇史」式発想が浮かんでしまうのが何とも業が深いといいますか……妄想妄想。
そろそろ「円空」仏を拝見に行きましょうか……名古屋にいるのに、見ない手もないですからね。

 

※毎月第二土曜日しか拝観できないそうなので、ご注意を〜。