べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「名古屋成田山萬福院」(中区)

11/23。

「桜天神社」の参拝を終え、ふとそういえばと思いつき、全然見向きもしなかった(失礼な)「名古屋成田山萬福院」へ。

 

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www.manpukuin.or.jp

 

栄、といいますか、矢場町上前津の中間の広い道路を東の方に向かったところにあります。
平成14年に現在地に移転されたそうですので、本堂含め新しいのです。

 

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「犬山成田山」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「犬山成田山」と同様に、千葉の「成田山新勝寺」から御本尊を勧請して分院となった、とのこと(真言宗智山派)。
それまでは、「潮音山」と号していたそうです(公式HPより)。

 

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ぴかぴか。

 

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境内には、弘法堂や水掛不動尊などが。

 

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狛犬さん。

 

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むっきむきです。

 

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遠景。
今ひとつ全景が把握できませんね……結構広いんですよ。

 

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御朱印。
「東海三十六不動明王霊場」の札所になっています。
……そろそろ始めるか、霊場巡り……。
こちらで発売されているご朱印帳には、ちりめんで飾られた色鮮やかなものもありますが、私は普通に火焔柄のものを購入。
袋がついてきました。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑いつもなら『尾張名所図会』からの引用なのですが、探しかたが悪いのか見つからなかったので、『尾張志』の「名古屋」編から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
27コマです。

 

「萬福院
鍛冶屋町通り広小路より南東側に在て潮音山と号し長久寺の末寺也 もと清須に在しを慶長年中住僧重秀今の所にうつせり
本堂 本尊十一面観音の像は弘法大師の作といひ伝ふ」

 

……あら、以上ですか。
もともと清須にあったものが、いわゆる「清須越」で名古屋にやってきた、という他の多くの寺社と同じ歴史を辿っているようです。

続いて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』も見ておきましょう。
245コマです。

 

「萬福院
萬福院は潮音山と號す、中区南鍛冶屋町一丁目の東側に在り、(略)末寺格 徳川時代には出世法印地 十九等にして、東区長久寺の末寺なり、重秀 寛永三年八月二十七日寂す 初め清須に創建し、慶長年中今の地に移す、 尾張名陽図会には、「或記に按ずるに慶長遷府以前より此所に有しと見えたり」とあり、今当寺の縁起にも此説を取れり  其後院宇廃頽せしが、延宝四年、八世中興政学 寛永七年二月十七日寂 の住するに及びて、新たに丈室、厨庫、門廡を建て、元禄四年、護摩堂を建て、十一面観世音菩薩木像 空海の作と伝ふ、三世日盛(元禄十二年五月二十四日寂)修補を加へ、日盛の甚目寺東林坊に転住するに及び、其像を同坊に安せしを、政学の時、再び当院に遷せりものなりといふ  二挟侍不動明王木像 覚鑁の作といふ 多聞天王木像 政学の新に設くる所と  を安置し、又太神宮、天満宮辯才天を勧請して、院の鎮守となす。二十四世實然 明治二十九年五月十八日寂  本堂、庫裏を再建す、今の堂宇是なり、本尊は木像正観世音菩薩立像 作者詳ならず、本尊を尾張名陽図会及び尾張志には、十一面観音となし、金鱗九十九之塵には薬師如来となす なり、境内にはもと天神社、辯才天社、歓喜天堂ありしが、今廃す、現今の堂宇には、本堂、庫裡、三尺坊堂 もと秋葉堂といふ、寛永元年小笠原某、遠江の秋葉三尺坊の分身を勧請して、堂宇を建立せしものといふ、今不動明王を合祀す、徳川時代には、正五九月の十七日神楽、十八日護摩の執行ありき 、門等あり、(略)」

 

こちらの方が詳しいですね。
成田山」の分院となったのは、大正年間ということですので(公式HP)、『名古屋市史』が書かれた頃(大正4〜5年)にはまだ「潮音山」だったようです。
御本尊はもともと「十一面観音」だったようですが、それにも諸説あり。
そうか、『尾張名陽図会』を見ればいいのか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張名陽図会. 巻之6

 

42コマです。

 

 

 


……うん、図絵を見てもよくわかりません(そりゃそうだ、移転してるし)。
とりあえず、秋葉堂が結構目立っていたみたいです。

ちなみに、「なごや七福神霊場」のうち、「福禄寿」の札所になっています。
来年は、「七福神」巡りにチャレンジしてみようかな……。

 

 

超簡単ですが、これにて。

「桜天神社」(再)(中区)

11/23。
せっかく「袋町ご聖天」まで来たので、足を伸ばして「桜天神社」へ。


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「桜天神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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……あれ、写真が一枚しかない……。

 

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御朱印。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』を見てみましょうか……といっても、神社の前の案内板を見れば事足りるかもしれませぬ(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
54コマです。

 

「櫻天満宮
小櫻町本町西へ入南側にあり。織田備後守信秀つねに天満宮を信仰し、或時京都北野へ参詣ありけるが、一夜の夢に、菅神枕上に立ち給ひ、我此梅松院にある事年久し。今汝が住国へむかへよ、諸民の安全を守らんと告げ給ひしかば、いそぎ梅松院に至り、其旨を語りしに、梅松院も前夜に見し夢の霊告に符合せしかば、彼院の霊宝なる御自作の神像を信秀に附與しけるを、天文九年ここにうつし、社を創建して安置し、萬松寺の鎮守とせしが、慶長御遷府の時、萬松寺を今の所へうつされしかども、御鬮の神慮にまかせ、此社は残りてここにいませり。 入道前菅大納言のかかれし縁起あり。この文と大同小異なり。 神木に櫻の大樹ありし故、櫻天満宮と称す。別当櫻花山霊岳院は曹洞宗にて、則萬松寺の末刹、開山は清庵宗仙首座なり。 彼櫻樹は、万治三年の大火に焼失して、今は其名のみ残れり。
本社 菅神御自作の神像。
薬師堂 本尊智証大師の作。
末社 数祠あり。
拝殿
絵馬堂 本社の南にあり。二月例祭のとき、府下の寺子やより奉納せし数多の絵馬を此堂内にかかぐ。又天保七年に至りて、諸国凶作打ちつづき、米価高直にして、飢渇に及べるものすくなからず。其頃府下の志ある町人、此所に施行堂といへる扁額をかかげて、日々若干の金銭米穀或は衣類等まで、思ひ思ひに貧賎を恵みしも、国君の御仁政より憤発せるならんか。同九年の春迄に施行の惣計、凡二万両餘に及べりとぞ。かかる連年の凶作に、かく御仁恵の下ざまに及べること、いともかしこくかたじけなくぞ覚ゆる。
鐘楼 万治四年三月より、官命を奉じて、昼夜十二時に此鐘をつきて町中に告げ知らしむ。故に時の鐘と称す。古鐘の銘は小出永菴の作なしりが、宝暦十三年に焼失し、今の鐘の銘は須賀安貞の作なり。
(略)
神宝 方丈仏間に安置せし十一面観音は、唐佛の銅像なり。又菅公十一歳の御時かき給へる[梵網経]・南化和尚自画讃の渡唐天神の像・康安元年に書きし[天神縁起]一巻、その外古書画・古仏像等多し。
例祭 二月二十五日神前に大般若を転読し、絵馬堂に神輿をかざる。此日府下の寺子供等、我おとらじと大文字をかきて、境内に張る事すき間なく、中にも甚だしきに至りては、さしもに高き鐘楼より地に及ぶほど紙をつぎて、或は三字或は五字などかきて、諸人の目を驚かしむ。又祭日前後三日の間、府内及び遠近の村々より出でて、本町通数町の内両側に植木を商ふ賑合、盆鉢に植ゑたる造り木・接木は更なり。大樹喬木をも厭はず、車にて曳来り、立並べたる有様、さながら山林に入るが如し。(略)」

 

神社に関する記述より、例祭の記述のほうが面白いですね。

 

「二月二十五日神前に大般若を転読し、絵馬堂に神輿をかざる。此日府下の寺子供等、我おとらじと大文字をかきて、境内に張る事すき間なく、中にも甚だしきに至りては、さしもに高き鐘楼より地に及ぶほど紙をつぎて、或は三字或は五字などかきて、諸人の目を驚かしむ。」

 

↑こういうことをするガキンチョというのは、いつの時代でもいたようで……さらっと、神前で「大般若経」を転読、と書いてあるのが神仏習合時代ですね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見ておきましょう。
18コマです。

 

「天満天神社
さくら町にあり 菅贈太政大臣束帯像を安置す 此地はもと亀岳山万松寺の舊址なり 当社はそのかみ此寺鎮守のやしろにして織田備後守平信秀の尊崇信仰乃霊社なりとそ いにしへ社辺にさくらの大樹ありし故櫻天神といひ在地を小櫻町といふ 万治三年正月の火災こうむりて此さくら焼失したりといへり 又萬松寺ここにありしときの四至は東は今の本町より西の方伏見町に至り 南は袋町より北の方片端に至れりとそ 慶長御遷府の時今の地にうつされたり (以下略)」

 

うむ、あまり変わらない。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑ま、決まりみたいなものなので、『名古屋市史 社寺編』もごらんください。
154コマです。
前半は、上の二つの文献とほぼ同じですので、途中から。

 

「(略)寛政十二年三月十八日、拝殿を再建す、明治五年村社に列す、祭神は菅公にして、束帯の木像を安んず、神殿、拝殿、門、社務所あり、境内神社は大国主神事代主神両社合殿(大国主命事代主命)、少彦名神社少彦名命)、秋葉神社(軻具土命)、猿田彦神火雷神両社合殿(猿田彦命火雷神)、金刀比羅神社(大物主命)、白太夫神社(度会春彦翁)の六所あり、(略) 明治以前は霊岳院社僧として奉仕し、明治五年頃、霊岳院を廃し、社僧復飾して木村直麿と称して、祠掌を拝命(略)」

 

戦前の境内社の様子がわかります(今と変わりませんが)。

「白太夫神社」はやはり、「菅原道真」公を見とった「渡会春彦」信仰のもののようです。

「霊岳院」は廃止されましたが、そこの僧侶が神職に復帰したようですね。


今回も、時期が時期なので、受験生を連れた親御さんがいらっしゃいました。
梅の頃に受験をして桜の頃に結果を知る「桜天神」はぴったりかもしれないですね、なんてうまいこと言ってみました(うまくない)。

 

「袋町お聖天」(再)(中区)

11/23。
何が呼んだわけでもないのですが、

 

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「神明社(赤塚神明社)」(名古屋市東区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「赤塚神明社」で、とある記述を発見してしまいましたので、「袋町お聖天」へ再訪。

 

○こちら===>>>

「袋町お聖天」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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門。
わりと早い時間だったのか……ビルの、というか店舗に囲まれた中にあるので、門は暗いです。

 

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門の二階の蟇股の彫刻は、孔雀かな。

 

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不動堂。

 

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六角宝塔。

 

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七福神

 

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お地蔵様の向こうは、「青面金剛」「ぼけ封じ観音」「愛染明王」「辨才天」、と諸仏勢ぞろいな感じ。
さすが真言宗(?)。

 

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毘沙門天」だけは、独立した祠に。

 

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秋葉大権現」と「出世天神」。

 

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本堂。

 

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……「おびんずるさま」かな……。

 

さて。
再訪したのは「赤塚神明社」に、「福生院」から遷された「出世天神」がある、との案内を読んだからでした。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』からいつもの通り行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
62コマです。

 

「如意山福生
袋町通本町西へ入北側にあり。真言宗、海東郡蜂須賀村蓮華寺末。至徳年中、蓮華寺の住僧順譽建立して愛知郡中村にありしを、元和三年ここにうつす。
本尊 薬師如来大聖歓喜天の木像を相殿に安置す。霊験ありて、常に参詣の人多し。
天満宮祠 元和三年中村よりここに遷座す。秀吉公の守護神なりと言伝ふ。」

 

↑「出世天神」という言葉は出てきませんね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見てみましょう。

26コマです。

 

福生
袋町本町より西北側にありて如意山と号し海東郡蜂須賀村蓮華寺の末寺なり至徳年中僧順譽 蜂須賀村蓮華寺の住僧也 建立して愛智郡中村にありしを元和三年今の處に遷せり
本堂 本尊は薬師仏歓喜天の木像を相殿に安置す 天満天神社 世俗出世天神と称す此寺はもと中村にありしとき此天満宮別当にてありしよしいひ伝へたり

 

↑お、ありました「出世天神」。
江戸時代に書かれた書物ですので、当然まだ「福生院」にある、と。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』も見ておきましょうか。
245コマです。

 

福生
福生院は一に福性院に作り、如意山と號す、俗に御聖天様といふ、西区袋町六丁目の北側に在り、(略)常法談林 もとは平僧地 一等にして、京都智積院の末寺 もと海東郡蜂須賀村(今海東郡美和村大字蜂須賀)蓮華寺の末「なり、明治四十四年三月直末となれり)なり、もと愛知郡中村に在り、至徳中、蓮華寺第五世順譽の建立なり、元和中、宥伝(寛永五年七月二十七日寂す、当院の中興也 の時、今の地に移る、万治三年正月の火災に罹りて、本尊の脇士二天の像、及び大釜一口を遺して、宝物、古記録等悉く焼失す、以来再興して御目見地となれり、本尊は木像薬師如来坐像(作者詳ならず)なり、堂宇は本堂、 一に聖天堂ともいふ、歓喜天の木像を安す 、稲荷堂、秋葉堂、不動堂、摩利支天堂、弘法堂、庫裏、門、井戸屋形等ありし、もと鎮守天満宮 元和中、当寺と共に此地に遷座す、祭神菅公の画像(繩敷坐像) は出世天神と称し、豊臣秀吉の崇敬に係るといひ、同社は頗る大社にして、当院は嘗て同社の別当なりきといふ ありしが、明治初年、東区山口町神明社の境内神社として、本社の東側に遷座す(以下略)」

 

↑「赤塚神明社」での解説とほぼ同じですね。
やはり、神仏分離で何か被害を被る前に、お遷しした、と考えるのが常道でしょうか。
で、時が流れて、「赤塚神明社」にも「福生院」にも、「出世天神」がお祀りされることとなりました。
うーん……「赤塚神明社」からお戻しする、ということにならなかったのは何故なのか。
菅原道真」公の画像は、果たしてどちらにあるのか。
元祖と本家をめぐって、ここにバトルが……始まりませんけども。
謎は解けませんでしたが、どちらでもお祀りされている、という状態がよろしいのではないか、と思います。
あまり争ってもしかたありませんです。

 

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御朱印。

 

 

 

 

 

以下、ふと怒りを思い出したので。


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対馬の寺から盗まれた仏像 韓国の寺に引き渡し命じる判決 | NHKニュース

 

そういえば、対馬から盗まれて半島に持ち出された仏像を、日本に戻さず韓国の寺に渡す、とかいう判決が出たそうです。
↑のNHKの記事から引用。

 

「5年前に長崎県対馬市の寺から盗まれその後、韓国で見つかった仏像をめぐって、韓国の寺が「日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張して仏像を保管する韓国政府に対し引き渡すよう求めていた裁判で、韓国の地方裁判所は26日、「仏像は過去、正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」などとして、韓国の寺への引き渡しを命じる判決を言い渡しました。一方、韓国政府は判決を不服として控訴しました。
この裁判は5年前、長崎県対馬市の観音寺から韓国人の窃盗グループによって盗まれ、その後、韓国で見つかった仏像について、韓国中部のソサン(瑞山)にあるプソク(浮石)寺が「仏像は中世の高麗時代に自分たちの寺でつくられ、日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張し、仏像を保管している韓国政府に対して、日本側に返還せずプソク寺に引き渡すよう求めていたものです。

これについてテジョン(大田)地方裁判所は26日、「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」として、韓国政府に対し、仏像をプソク寺に引き渡すよう命じる判決を言い渡しました。」

 

 

「「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」」

 

↑ああ、倭寇ね……何言ってんだろうね、この……どうにも罵倒する言葉しか浮かんできません。
儒教のために廃物に勤しんでいた国で、そのほにゃらら寺はずっと残っていたわけですか?
倭寇が日本人だとしても(後期は大陸や半島の人が多かった、という話もあります)、廃仏をしたのは李朝の人間だぞ?
それに、

 

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仏恥斬 - べにーのDoc Hack

 

↑でも書きましたが、だったら「ユネスコ関係条約」なんか批准せず、能書き垂れ流していればよろしかろうに。
真剣な話、日本中の神社仏閣史跡は、至急文化財を隔離するほうがいいと思います。
重要文化財、だけではないですよ。
街角の小さなお稲荷さんだって、その町には大切な文化財です(ああそういえば、どこかの半島の人が、日本国内のお地蔵様だとかお稲荷さんだとか、壊して回っていましたね……李朝に戻って廃仏ですか、お似合いな感じですが、国内でやっとけ)。
裁判所がお墨付きを与えたんですよ、「法を破ってでも、文化財を取り戻すことが正義」だと。
そうしたいなら、まず条約破棄してから来いよ。
その場合でも、やることは同じですけどね。
盗まれる前にしまい込むべきです。
それから、そんな国の人を近づけないように。
いや、本当に、真剣に。
日本だってろくでもない部分はありますが、法治を無視した判決がこう簡単に出されるような国とどうおつきあいしろというのか。

 

……ふう……ネガティブな感情は、将来にわたって保存されやすいので、できれば勘弁してもらいたいですが、もう覚えちゃったからね……消えないよ、当分。

 

「尾陽神社」(再)(昭和区)

11/19。
天気が悪かったです。
なので、出かけようかどうしようか、考えてみたのですが、いきつけの喫茶店に行くついでにご参拝を。
「尾陽神社」です。

 

○こちら===>>>

「尾陽神社」(昭和区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前も出かけていたのですが、御朱印をいただき忘れたもので。

 

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という前に、神社近くのコンビニ近くに、祠を発見。
何をお祀りしているのかはさっぱりわかりません。

 

 

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三基並んでいるようで……この木のがご神木だったのでしょうか。

 

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手前には「役行者」像が。
手前の感じから、「前鬼」「後鬼」もかつてはいたのではないか、と思わせます。

 

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ちょっと見上げてみました。

 

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さて、「尾陽神社」です。

 

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詳しい記事は以前のものを御参照いただいて。

 

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曇り空と紅葉の中の神社の様子を。

 

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ご覧ください。

 

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拝殿近くから門の方を。

 

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授与所から境内を。

 

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狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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西側の鳥居。

 

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西側の社標。

 

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というわけで、御朱印をいただいただけ、となりました。

ときにはこんな日も。

「八角堂(久住山法蔵寺)」(中村区)

11/5。
「白龍神社」を堪能したあと、たまたま第一土曜日だったので、久住山法蔵寺」というお寺へ。

 

○こちら===>>>

法蔵寺 (名古屋市中村区) - Wikipedia

 

ウィキペディアさんです。
2004年に、八角堂」が再々建されてからは、第一土曜日のみ拝観できる、とのことでしたので。

 

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お寺の前の掲示板。
マスク姿の怪しい人影が写っていますが、通報しないでくださいね。

 

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いきなりですが、「八角堂」。
お寺でいただける案内によると、現在は阿弥陀如来を安置しているようです。

 

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八角

 

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こちらは、その奥の稲荷堂。
ご本尊は「豊秋稲荷大明神」で、「伏見・豊川の両稲荷大明神を勧進・合祀」したとのことです(お寺の案内より)。
扁額にはおそらく「吒枳尼真天」と書かれていると思われます。

 

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稲荷堂の前の地蔵堂。

 

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そこから奥に進むと、「不動明王」と「二大童子」がいらっしゃいます。

 

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で、さらに奥に行きますと「黒龍社」。

 

不動明王の持物、知恵の大剣と絹策が倶利伽羅の利剣を意味し、火焔は煩悩を焼き尽くす。不動明王に祈願すれば、知恵の利剣をもって心の悩みを断ち切り幸福になれるといわれる。
黒龍社の御神体は倶利伽羅龍王豊春大社と倶利伽羅龍王豊秋大社で、不動明王の化身といわれる。」

 

とお寺でいただける案内には書かれています。
先ほどの「白龍神社」からは、徒歩で10分ほどの距離にある「法蔵寺」。
あちらが「白」で、こちらは「黒」、ということに何か意味があるのでしょうか。
むむむ。

 

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……自分で撮影しておいて、正体がわかりませんが……石庭的な者と思えばよろしいのでしょうか。
瓦が埋まっていますね……こういった様式を表す言葉を、申し訳有りません、私は存じ上げないもので。

 

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虫塚。
これは、いわゆる害虫駆除の供養なのか、鈴虫なんかの観賞用の虫の供養なのか、どちらなのでしょう。
仏教的には、害虫の供養、ととらえるほうがしっくりきます。

 

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石庭。

 

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手水舎など。
門はこの右手、「八角堂」は左手、です。

 

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宝塔。
三鈷杵、独鈷杵、転法輪、と『孔雀王』大好きな人にはたまらないレリーフ

 

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「華堂先生之碑」。
どなたなのかわかりませんが……碑文を読むに、画家だったようです。
詳しいかたにお任せします……。

 

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これは多分、「放生池」の碑でしょうか(いえ、わかりません)。

 

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「廣井天王みたらし」の碑。
「広井天王」は、前回もご紹介した、

 

○こちら===>>>

「洲崎神社」(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club

「洲崎神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑現在の「洲崎神社」のことです。
数百メートルは離れていると思いますので、往時の「洲崎神社」の境内の広さが偲ばれます。
お寺でいただける案内には、「この周囲はむかし入江の岬で、天王崎と呼ばれていたと伝えられる。この地に古くから清水井があり、堀川対岸の洲崎天王社のお手洗いであったことが記された石碑。裏面の文字から、享保九年頃建てられたとされる。」と書かれています。

 

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横からですが、「藩学聖堂」と彫られています。
こちらを向いているほうには、「源敬公創建 舊在城郭内穪先聖殿」とあります。
お寺でいただける案内には、尾張徳川藩初代藩主、徳川義直儒学を厚く奨励し名古屋城二之丸庭園に孔子霊廟の先駆けとなる、聖堂(学問堂)を建立、「先聖殿」と名付けた。堂内には五聖七十二賢人の像がまつられ、義尚は儒学の教えをもとに藩政の理想を追求したと伝えられる。七代藩主徳川宗春の頃、城下の法蔵寺へ移築、阿弥陀如来を本尊として安置。」とあります。
なるほど、元々は孔子廟的なものだったのを、宗春ぼっちゃんがとっぱらっちゃった、という伝説が残っているわけですね。

 

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門から中を。
季節や時刻、向かいの建物などの関係で、ちょっといい写真になっちゃいました。

 

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寺院によく見られるやつ。
「酒飲んで門をくぐるなよ」、という意味だと思います。

 

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八角堂」、と。

 

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遠景がとれないかな……と思ったんですが、なかなか無茶な話でした。

 

さて、今回は御朱印もありませんので、引用をいってみましょうか。。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
123コマです。

 

久住山法蔵寺八角堂 長圓寺の北にあり。天台宗、江戸東叡山の末寺なり。
本尊 薬師如来伝教大師の作。
清水 門前にあり。ふるくしてたぐひなき名泉なり。」

 

↑あら、あっさりな……。
122コマの図絵もご参照ください(現「洲崎神社」と八角堂の位置関係がわかるかと)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も確認。
21コマです。

 

「法蔵寺 府志に法の字を寶に作る今町方府志徇行記及寺記によれり
廣井村のうち堀川の西水主町にありて久住山と號し江戸東叡山寛永寺の末寺なり 享保元年尊壽院の住僧智鋒か本願にて新尾頭町なる扣屋敷うちに一寺を建立し 法蔵寺といふ号は舊く巾下にありし廃寺の号也徇行記には替地出来町にありしよしに記したれと貞享名古屋絵図の替地出来町の所に寺院の跡ありしとも見えす且張州志畧に名古屋村六区町にありしよしに見え寺傳にも法蔵寺といふ廃寺の巾下に在し其号を移ししよしにいひ傳へたれはしはらくそれらの説にしたかいぬ 密蔵院の末寺となりしを同九年今の處にうつし比叡山安楽院の末寺となり僧玄門を開山とし天台律院とす 其後寛延四年今のことく江戸東叡山の末寺となれり
本堂 享保九年七月建立して八角堂と呼り本尊は阿弥陀の木造持国天毘沙門天なり 放生臺 山王社」

↑……うーん、思っていたより全然少ないな。
「先聖殿」に関しては、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 1 名古屋

 

同じく『尾張志』にさらっとありました(「明倫堂」の記事中/15コマ)。

 

「(略)其後今の学館の東長者町の方に聖堂を御創建ありて源敬公御真蹟の先聖殿の扁額を掲げさせ玉へり また源敬公より御伝来の聖像二軀 銅木 御側にありしを文政六年八月堂中へ遷し給ひ同七年二月聖堂の側東北の方に祠を造りて木造はかりを安置し銅像は御文庫に収め置玉へり 聖堂御造作半途にして天明六年二月十三日まず假釋菜を行ひ玉ひ(略)」

 

ということなんですが……そのあとにどこかへ移したようなことは書いていませんでした。
うーん……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』ではどうなっているでしょう。
233コマです。

 

「法蔵寺
法蔵寺(略)は久住山と號し、俗に八角堂と称す、中区水主町一丁目 もと廣井村と称す の西側に在り、境内は九百二坪五合八勺 徳川時代には三千二百八十三坪七勺あり、内百五坪清水井竝水汲道は除地にして、餘は年貢地なり、年貢地の内五百八十五坪程は智鋒の隠居地にして、尊壽院の後住へ譲れるものなり あり、一等寺にして、比叡山安楽院の末寺なり、 初め野田密厳院の末寺なりしが、享保九年安楽院末となり、寛延四年、東叡山寛永寺末となり、後復今の末寺に改む 、もと清須に在り、開基詳ならず、慶長遷府の際、住僧豪三、名古屋に移し、愛知郡名古屋村六区 今西区六句町 に在りしが、其後頽破に及びしを、貞享二年、今の桶屋町福泉寺の支配となし、新田出来町 徇行記に替地出来町となし、張州志略には廣井村信行院(今高田本坊)西となし、海邦名勝志には廣井町西となす、今の西区替地町なり、年貢地也 に移し、享保元年、神宮寺六世智鋒 維摩院又は界如院と號し、寛道と名く、密厳院三十六世なり、元文元年十二月八日寂す 、熱田新尾頭町 神宮寺扣地なり、海邦名勝志に熱田一の鳥居の北とせり に移し、 維摩院より法蔵寺へ引渡の記録には、巾下より此地に寺号を引移すとせり、蓋し替地町をも巾下となししものならん 、享保九年、今の地に替地を請ひて移転す、同年七月藩祖義直 敬公 より御吹井丸に在し六角堂を賜はり、九月天台律院として、安楽律院末となし、寺務は神宮寺の取扱となす、十年三月、本堂の移建落し、四月安楽院第三世玄門を請じて、律規を定めしむ、由りて玄門を中興開祖となし、智鋒を中興開基となす、(略)本尊は木造阿弥陀如来坐像 傳曰恵心僧都作、尾張名所図会には本尊薬師如来伝教大師の作とあり 、夾侍は同持国天毘沙門天の立像 作者不詳 なり、現今の堂宇には、本堂 八角堂 、庫裏、座敷、鎮守日吉山王権現堂 享保十年建立 、孥吉尼天堂、門等あり(以下略)」

 

↑うん……よくわかりませんが、「法蔵寺」には「法蔵寺」の歴史が、「八角堂」には「八角堂」の歴史があって、享保の頃に「八角堂」を「法蔵寺」に移したので、そこから「法蔵寺八角堂」になった、という理解にしておきましょう。
どうして移ったのかがよくわかりませんけれども。
何かそこに秘密があるのか、ないのか。
むーん……そんなに昔のことでもないのに、もやもやしますね。

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑最後に、『密教辞典』から。

 

倶利伽羅龍王[梵:Kulika(略)訳:黒龍・尊勅(略)]不動明王を念じる功力によって、この龍を駆使し、または保護を受ける信仰から出発して、不動明王の化身とし三昧耶形とする龍。(以下略)」

 

深くはわかりませんが、そもそも梵語のの「Kulika」を訳すと「黒龍」になるので、「黒龍社」と呼ばれているようです。
「豊春大社」「豊秋大社」については、よくわかりません。

 

 

モヤモヤのまま終了〜。

「白龍神社」(中村区)

11/5。
市内を巡りたい気持ちはありつつも、段々と行き先を失いつつあります(そろそろ、霊場巡りを真剣に考えようか……)。
とはいえまだまだ名古屋市内も熱いので、本日は「白龍神社」へ。

 

○こちら===>>>

白龍神社

 

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名古屋駅に近いところに鎮座まします。
すぐ裏手には堀川が流れています。

 

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正面。
境内はそれほど広くないですが、雰囲気のある神社です。

 

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拝殿。
朝の若い陽光の中、なかなか美しい。
神社でいただいた由緒書によれば、「御本殿は昭和三十七年に造営」、とのことです。

 

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手水舎。

 

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柳。
由緒書によれば、

 

「社伝では、慶長八年(西暦千六百三年)、この地域は、古くは国広井郷と呼ばれ、南北に流れる清流の江川があった(現在は地下流)。
その川に架かる橋(柳橋)の辺りの村に熱病が流行する。しかし「此の美しき良き所に大神をお祀りすれば、萬民の苦疫を救い、幸をたれ給う。」とのご神示が下った。
始めは、江川の傍にある柳の木の下に祠を建て、人々が崇め拝むようになる。その後、柳の寿命は終え、当時近くにそびえる、いちょうの木へ大神様が移られ、引き続き御神木として、人々の崇敬が広まり、更なる大神様の御神徳が現わされ、いつの頃からか、二柱の神を総して「白龍様」「白龍さん」と親しまれるようになる。
その後、第二次世界大戦時には、空襲にいく度か合うが、神社と御神木は戦災をのがれた。
戦後、都市計画が施行され、社を約八十米ほど南(現在地)に移転、御神木を昭和三十三年に移植(略)」

 

とあります。
なお、御祭神は「高龗神」と「須佐之男命」です。

 

○こちら===>>>

www.aichi-now.jp

 

そういえば、名古屋には「柳橋中央市場」という、東京で言うところの築地市場のようなところがありましたね。
堀川から魚を上げたのでしょうか……そういう歴史にはとんと疎いもので。

 

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境内の奥にひっそりと祠が。
奥の院的な場所でしょうか……ああ、これが御神木のイチョウですね。

 

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神紋がなかなか面白いです。
蛇の図案化でしょうか。

 

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石の鳥居に龍が巻きついています。

 

○こちら===>>>

「品川神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑東京の「品川神社」でも、そんな感じの鳥居を見ましたね。
お供え物は卵。
蛇神様の定番でしょう(「大神神社」でもありました)。

 

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おもかる石が二つ。

 

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その脇の祠……御祭神がわかりませんが……ご神木の、かな?

 

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隣が「ステーキハウス スエ」の駐車場になっておりまして、その辺りから本殿を。
拝殿(幣殿)と本殿が連結して、ともに妻入という、伝統的ではない設計になっています(多分)。

 

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銅葺屋根の連なりが美しいです。

 

何か引用しようと思ってざっくり検索したのですが、引っかからず。
疫病に対して「牛頭天王」(「須佐之男命」)を勧請するのは常道です。
ただ、それほど離れていないところに、

 

○こちら===>>>

「洲崎神社」(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club

「洲崎神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

現「洲崎神社」、江戸時代は「広井天王社」があるのですよね。
あまり御神徳がなかったのでしょうか……。
もう一柱の御祭神「高龗神」は蛇(龍)神と考えられており、水辺ではよくお祀りされますので、そこまでの深い理由はないのではないか、と思います。
もう少しあり得る話としては、柳の木の洞に白蛇さんでもいらっしゃいましたかね。
でも、そうすると「弁財天」になるような気がするんですよね……うーん、よくわかりません。

 

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御朱印。
「神宮」系に近い、シンプルなものです。
白蛇さんをキャラクター化しちゃうか、神紋を押すようにすれば、もっと人気が出るのかも……それで人気が出たところで……。

「鳳来寺山」(補)

さて。
景色ばかりの前回と比べると、文章だらけですが。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

↑『東海道名所図会』から参りましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
引用は、

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから行います(p133より)。
デジタルコレクションでは、233コマです。

 

「煙巌山鳳来寺勝岳院
三州設楽郡門谷村の山頭にあり。天台、真言の二派に分る。
本尊薬師仏 長さ一寸八分。開基利修仙人[伝説の僧、五七〇ー八七八]、一刀三礼[一刀入れる度に三度礼拝する、仏像彫刻の作法]の作。日光、月光(略)、十二神将(略)、四大天王(略)を安ず。秘仏
神祖御宮 諸堂の上方にあり。御宮殿壮麗微妙なり。別当職天台学頭松高院。

(略)

鎮守三社権現 中央、熊野権現、左、山王地主権現、右、白山権現。利修仙人の弟子心月坊祐仙勧請す。
六所護法神 利修仙人百済国より帰朝の時、六人の護法神香華を捧げて随従したまう。茲によって勧請す。
開基利修仙人堂 この堂は飛騨の匠が造れるという。飛騨の匠というは、一人のみに限れる名にもあらず。
(略)
三層塔 源頼朝卿の建立。梶原景時奉行(略)のよしいい伝えり。常行堂とこの塔は、むかしの姿にて、造替なしという。
鏡堂 護摩堂の傍にあり。薬師の東方大円鏡[仏のくもりない智慧の象徴となる鏡。東方は薬師仏の仏世界]をもって、諸人の願により、鏡に万象を模し、利益を施したまう誓願あるゆえ、薬師尊へ鏡を奉り諸願を祈るなり。これ当山鏡堂の由縁なり。
八幡宮 伊勢両太神宮 弁財天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 諸堂の次第図画に見えたり。楼門の額は光明皇后の御筆にして、「鳳来寺」と書す。左右に金剛力士たつ。
名号題目石 楼門の傍にあり。弥陀の名号と法華題目を鐫じ、慶安四年(一六五一)、篠原氏建つる。これを弘法大師の投筆と生じて、詣人尊信す。
八王子祠 麓の門谷町にあり。生土神とす。
(略)
六本杉 奥院の路傍にあり。
煙厳山 本堂の西に当たれり。ここは利修仙人護摩(略)を修せらる。煙、常に巌上に立ち昇る故名とす。開基の山居の地なれば、当寺の山号とせり。
勝岳院 本堂の乾[西北]当る。利修仙人ここに住して簫を籟きたまうゆえ、簫楽仙人という名あり。また勝れたる岳なればとて院号とせり。この岳にて仙人の作られし不動尊、また役行者(略)の作りたまう不動尊もあり。一宇(略)に安置せり。前の岩面に八大童子(略)の像あり。
(略)
行者帰 当山の峰より東の方、大野へ行く道なり。役行者登山のとき、岩路嶮しく登りがたければ、本道より至り、利修仙人に遇いたまう。故にこの名あり。
猿橋 当山の南にあり。むかし勅使公宣卿登山のとき、渓川洪水して橋落ちたり。忽然として猿数百出でて、手足を組み合い橋となし、勅使を渡せしゆえこの名あり。また今の橋、算木(略)のごとくなるゆえに、算橋ともいう。
篠谷 南の方に当る。むかし浄瑠璃姫(略)、当山の本尊薬師仏を尊信し、この篠谷に棲んで日毎に詣し、示現を蒙り、十二段の浄瑠璃を語り初むる。」

 

この辺りで休憩。
東照宮」「本堂」「開山堂」以外は、現在ではほとんど見られないようです。
浄瑠璃姫」についての記事がp95(デジタルコレクションは218コマ)にあるのでご紹介。

 

浄瑠璃姫墳 西矢矧左の方、圃の中にあり。むかし、矢矧の宿の長が娘、美艶の女伶なりしが、平家の盛衰を十二段に作り諷う。薬師の十二神将に比すれば、浄瑠璃御前と呼ぶ。今の世の浄瑠璃の始りなり。またこの里に誓願寺という浄土宗の寺あり。ここに浄るり姫の像、義経(略)の像あり。寺説にいわく、「九郎判官東下りのとき、ここに宿し、この姫を愛したまう」とぞ。」

 

なるほど、義経伝説のかたでしたか……名前は何となく聞いていたのですが全く知りませんでした。
もっと浄瑠璃元祖をアピールしてもいいのかも……もうしていたらすみません。


「それ当山は、推古天皇の勅願にして、利修仙人の開基なり。
その頃、上宮太子聖徳太子摂政したまうとき、三河国司奏していわく、「桐生山に桐樹あり。相伝う神代よりの霊樹なり。その高さ四十九丈[一丈は十尺]、囲り三十九尋[尋は左右の手を広げた長さ]。虚洞あって大室のごとし。竜その虚洞に棲む。その西の枝に異鳥棲めり。その尺八咫[咫は親指と中指を開いた長さ]、尾の尺丈余。全身五彩金翠にして、啼く声■■たり。人いまだその名を知らず。一日三尾羽を落とす。故にこれを献ず。またその洞中に仏像あり。金石に非ず、土木に非ず、手指に宝壺を持して金光あり」と奏する。太子これを聞こし召して、「これは鳳鳥の尾なり。この鳥文徳を好む。今出ずるは、蓋し階下神皇の紀を闢き、儒仏の道を弘むるの前表なり。かの仏像は瑠璃光仏[薬師如来]なり。後代竜去って精舎となる」とぞ。
同帝の御宇(略)、詔を蒙りて、利修仙人当山七本椙を一株伐って、薬師、日光、月光、十二神将、四大天王を彫刻し、巌上に安置す。今の本尊これなり。
皇太子驪に騎って空中を駆けたまうに、蹄のあたるところあり。これ三河国設楽の峰と『太子伝』[上宮聖徳太子伝]にあり。故に峰の薬師と称す。
その後、文武天皇御悩のとき、草鹿砥公宣卿を勅使として、仙人を召したまう。利修仙再三辞したまえども、勅命遁れがたく、参内ありて加持を奉りければ、御悩たちまち平愈ならせたまう。そのとき天皇、仙人の意願を勅問ありけるに、答えていわく、「烟霞を栖とし、青苔を衣とし、松実を服して、名利を親しまざれば、身にとりての願心なし。国家安泰の御祷りとして、仏堂を建てて尊影を安置せんこと、これ本来の願望なり」と奏しければ、叡感ありて、大宝三年[七〇三]、造立し、その後、光明皇后(略)の御筆にて「鳳来寺」の額を賜う。
また青赤黒の三鬼ありて、常に利修仙に随従せり。仙人入定(略)の時、この三鬼の首を薬師堂の下に埋み、当山の守護神とす。元和年中(一六一五ー一六二四)、本堂炎上の後、造立の折柄、石櫃よりこれを出し、当山の衆僧初めて三鬼首を見けるとかや。また元の如く封じて、蔵め埋みしという。
宿昔利修仙の許へ、勅使公宣卿登山の折から、本宮ガ岳に登りたまう、そのとき老翁あらわれ、導きをして当山へ送りたまう。

 

今度は「聖徳太子」の伝説です。
日本で仏教の源泉を求めようと思えば、「聖徳太子」に帰結するのは当然なのかもしれません。
善光寺」も、崇仏排仏論争の頃を起源においていますし。
伝説なのですが、とにかく「鳳来寺」が古刹だった、と訴えたいことは伝わってきます。
「利修仙人」が開山となっているところにも、その古さを訴えたい感じが出ているように思います(上人、和尚ではないんですね……そういう位の人がいないくらい昔、という意味でしょうか)。

 

「また青赤黒の三鬼ありて、常に利修仙に随従せり。仙人入定(略)の時、この三鬼の首を薬師堂の下に埋み、当山の守護神とす。元和年中(一六一五ー一六二四)、本堂炎上の後、造立の折柄、石櫃よりこれを出し、当山の衆僧初めて三鬼首を見けるとかや。また元の如く封じて、蔵め埋みしという。」

 

おっと、鬼がいましたか。
役行者」との共通点が見えてくるような気がします。
例えば、「鬼」というのが、当時は朝廷に従わないような独立勢力だったとすると、「利修仙人」、いたしかたないとはいえ朝廷の下につき、「鬼」を裏切った、と。
そこでその首を埋めて、守護神に祀り上げることで、祟りを回避しようとした。
そんな解釈があっさりできてしまうほどに、高田崇史氏に毒されているな……。

 

「宿昔利修仙の許へ、勅使公宣卿登山の折から、本宮ガ岳に登りたまう、そのとき老翁あらわれ、導きをして当山へ送りたまう。」

 

↑この話は、

 

◯こちら===>>>

「砥鹿神社」 - べにーのGinger Booker Club

「砥鹿神社」末社等 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「砥鹿神社」の由緒でも触れられています。
「砥鹿神社」ももうちょっと掘り下げてみないと、ですね。

 

「そもそも開山利修仙人は、もと山城国二葉里、賀茂間賀都岐麻呂の子なり。『欽明天皇紀』三十一年庚寅[五七〇]四月七日に誕し、利修童子と号く。成長の後、忽然としてこの山嶺に来たり、夢中に五台山の長秋仙人に謁し、千歳の寿を授かるがゆえに、その峰を千寿峰と号す。その後万寿を保ちけるより、万寿坂というところ今にあり。
陽成帝元慶二年(八七八)、利修仙人三百九歳のとき、勝岳の深窟に入定し、当来(略)慈氏[弥勒菩薩]の出世を俟つといえり。巌窟に池水あり。今に時々振鈴の音幽に聞こゆるという。これ武陵の人桃花源に遊ぶに似たり(略)。
まず江府の輩ここに詣するは、多く秋葉山より登りて、山路八里を歴てここに至る。京師より詣するには、御油の駅の端より入りて当山門前まで八里余なり。(略)
それより橋をわたり、楼門に入りて、石階を登ることすべて九町なり。一町ごとに石標あり。左右には老杉蓊鬱として、旭の出づること遅々たり。階段の両側には、僧房連なりて、天台、真言の二流あり。一念三千の諸法を顕し、胎金両部の羯磨会[羯磨会は本来金剛界曼荼羅の中央会を指すが、ここでは曼荼羅一般を指すのであろう]を具し、次第に登れば、宝閣、金塔、神窟、仏壟、玲瓏として壮観たり。真に王維が仏を好みし山水絶勝たる清涼寺に比して、参州に名を得たる第一の名刹なるべし。」

 

「利修仙人」の素性と、参詣の様子ですね。
今は駐車場で、「東照宮」の手前まですいーっと行けてしまいますが、当然往時のように、楼門から石段を登ってくることも可能です。
健脚のかたは試して見ましょう(私はなよなよ脚なので……)。

 

他の文献を探っていたら、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第5編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第5編収録の『参河國名所図絵』というのがありましたので、こちらからも。
『名所図会』シリーズではなく『名所図絵』なのです(どうも江戸末期、『東海道名所図会』の後、1840年代に刊行されたようです)。
234コマです。

 

「煙巖山勝岳院鳳来寺
門谷村に在 寺領千三百五十石 顕密両宗無本寺 天台学頭松高院 真言学頭医王院 又天台方実泉院等覚院増進院岩本院般若院不動院 真言方藤本院日輪院一乗院法華院月蔵院円琳院 又天台方承仕吉祥坊杉本坊 同真言方尊教坊中谷坊茶屋坊 天台方円竜坊円蔵坊 同真言方善知坊
本尊 薬師如来長一尺八寸 利修仙人一刀三礼作 世に峯の薬師と称す 太田白雪の反古探に云 世俗当薬師を指て峯の薬師と云是は織田信長の侍女に小野於通と云るあり其女当國碧海郡矢作長者浄瑠璃姫の事を十二段に作りて唱ふ其文章に当薬師の事を峯の薬師といふこれより世に峰の薬師と称す」

 

「小野於通」という人は、

 

◯こちら===>>>

小野お通 - Wikipedia

 

とりあえず、ウィキペディアをご参照ください。
「お通」と聞くと……あれ、「宮本武蔵」を思い出すのはなぜだろう……。


「当寺の濫觴を尋るに 先代旧事本紀に云 人皇卅四代推古天皇の御宇 当国の国司奏し来りて曰参河国桐生山に桐樹あり 伝聞神代の樹なりと 其長さ四十九丈■三十九尋ありて枯枝半を過其中に虚洞あり恰も大室の如し龍其上に棲みて時々雲霧を発し且大雨を降す 其西枝三十尋異鳥此枝に棲て其長八咫余尾長一丈余全身五色金翠にして紅紫の光あり 一尾三茎十二の濃淡を成 人未だ其名を知ず 一日偶三尾を落す 此故に是を献ずと 又言ふ 其洞中一仏像あり金石にあらず亦土木にあらず手指宝壺を成 金光ありと云々 太子是を聞給ひて乃奏て曰此鳳尾なり此鳥丹穴に在 地国則希に此鳥あり 文徳を好む 今此に来れるもの蓋し 陛下神皇の紀を開き儒仏の経を弘るなり 亦彼仏像は是薬師瑠璃光如来にして国家を守護する仏尊なり 然して後代竜去て乃寺となる ここに鳳凰来儀せし所以をもて勅許を被り即寺号を鳳来寺と称しけるとぞ 亦斉明天皇の御代 利修仙人百済国に渡り鳳に乗じて還り来るとなん 亦文武天皇の御代彼の仙人鳳に乗じて参内す故に鳳来寺の号を賜ふとも伝へり 三設未だ其是なるを知らず 然して此の当山名有の元始にして其霊場たる久し されば我朝薬師如来の出現は当山其権輿たること掩ふべからす 此に謹んで惟は夫薬師如来は東方浄瑠璃界の教主にして国家安穏衆病悉除の願主なり 此故に薬師本願功徳経に曰 及彼如来本願力故令其圀即得安穏と 又曰我之名号一経其耳衆病悉除身心安楽と 誠に国界安穏ならずんば誰人か其楽を請ん 衆病相済ずんば孰か其寿命を保ん 此秋に当りては偏に此尊の大悲を仰て願望を成就すべき者なり かかる所以有に依て利修仙人山に分入 推古天皇の御宇国家安全衆病悉除の為当山に七本福の内一本を伐て薬師(今の本尊)日光月光十二神将四天王の尊像を一刀三礼に彫刻して岩上に安置せり 其後文武天皇御悩あらせ給ふにより草鹿砥公宣卿を勅使として仙人を召給ふ 仙人再三辞退あれども勅命遁れ難く参内ありて加持を奉りければ御悩は頓に平安ならせ給ふ(可敬云山崎氏の博物釜にも(三十八丁)鳳来寺三河国開山利修仙人文武帝御不豫の時加持して癒)其時天皇仙人の意願を勅問有けるに 某は苔の莚岩を枕にて事足侍ぬ 唯願くは国家安全衆病悉除の為伽藍を立尊像を安置せん事 是元よりの大願なりと奏し奉りければ 御感の余り即勅許ありて大宝三年卯造営事終りぬ 其後鳳来寺の額を賜ふ(可敬云大宝三年より年歴凡七百七十余年を経て後円融天皇の御代に此額を賜ひしなり) 光明皇后の御筆にて今楼門の額是なり 尓来後本尊の威光も倍増して参詣の貴賎日を逐年を経て利益を蒙るもの枚挙に竭べからず 実に尊き霊場になん委くは当山縁起に見へたり」

 

内容は『東海道名所図会』と変わりませんが、そりゃ同じ寺伝を参照しているので同じでしょうね。

 

「敬雄按に此縁起に引る先代旧事本紀は一名旧事大成経とも称て其文は第三十七之巻 推古天皇十年閏十月の条同卅三巻に見えたり 全文引てほしけれども老年に堪ず然とも彼書は美濃国黒滝の潮音僧と志摩国伊雑社人と相計りて偽撰せしにて正部卅八巻副部卅四巻合七十二巻ありて見本は河内国泡輪宮より出たる由にて世に流布せしを天和元年偽書なる事顕はれて両人とも流罪になれり 其書に矢作橋の板も焼捨てられたり掛橋始の本をものせたれど如何あらん 彼の寺に古昔より云伝へし説は有へけれども彼書を引ては偽説なるべし」

 

おっと、面白い記述が。
先代旧事本紀』は、物部氏系の歴史書として知られていますが、その成立にはいくつかの疑問があり、史料としてどのように取り扱うべきかは議論があるようです(偽書といってしまえば、まあ偽書でしょう)。
日本書紀』『古事記』にない記述もあるので、妄想家としては参考にさせていただいております。
で、「鳳来寺」の由来は、『先代旧事本紀』に見られる、としているのですが、刊行されている『先代旧事本紀』にはそういった記述はありません。
そこで『美濃國名所図絵』の著作者は、これは『先代旧事本紀』ではなく、先代旧事本紀大成経のことだろうと書いています。

 

 

日本の偽書 (文春新書)

日本の偽書 (文春新書)

 

 

↑こちら『日本の偽書』より、従来の説明として、

 

「延宝七年(一六七九)上州館林城下の万徳山広済寺の住職であった黄檗宗の傑僧潮音道海が、『旧事紀』一〇巻は抄本であり、『大成経』こそ聖徳太子真撰の国史であると喧伝し、江戸室町の書肆・戸嶋屋惣兵衛より板行した結果、流布したもの。
潮音道海が主となり、伊勢神宮の内宮七社の別宮の一つである志摩国伊雑宮の祠官永野采女と共謀して、伊勢神宮の本宮は伊雑宮であり、内宮・外宮はそれぞれ星の神、月の神を祀るに過ぎないとする前代未聞の伊勢三宮説を記したことが、伊勢の内外両宮の神官の忌諱にふれた。
そのため、天和三年(一六八三)、伊勢内外両宮の神官の再三の訴えをうけ、遂に幕府が板木の破却、板本の回収、板行に携わった潮音道海らの配流を決定した事件で著名な偽書。潮音道海は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が深く帰依したことから、流罪といってもさほどの咎めもなく、上州の山村の黒滝山不動寺の住職に移されただけであった。」(p152)

 

と書かれています。
この説明に対する異論が上記書には書かれていますが、近代の偽書であることはほぼ立証されています(幕府に禁書扱いされている、というのが、当時どれほど影響力を持ったかがうかがえると思います……詳細は『日本の偽書』を読んでくださいね)。
ということは、それを元にした寺伝もまた、近代に作られたものと考えざるを得ないのですが……何しろ私は『先代旧事本紀大成経』は読んでいないので、何とも言えません。
ただただ、なかなか面白い話だな、としか。
以下、ところどころ略しながら。


「(略)
神輿殿 坂口右の方に在
神楽殿 道より左の方に在
名号題目石 楼門の傍道より左の方に在慶安四年篠原氏某岩の面に弥陀の名号と法花題目とを鐫し 世に弘法大師の筆なりといふ
役行者 楼門の傍右の方窟の中にさす
不動明王 楼門の前なり岩の上にさす
牛巖 楼門の下溝の中に在 其形牛に似り故に名く又セバ石ともいふとぞ
橋 楼門の前に架す
芭蕉翁碑 道より右の方に在 「木からしの岩ふきとかる杉間かな」といふ名吟を碑面に彫刻せり
楼門 南に向ふ坂口より此辺までは石階なだらか■此より上りは石階直立して登るに辛苦す 門の左右に仁王を安ず
同額 光明皇后の御染筆にして集古十種扁額の部に撰び入給ふ 縮図下に出す 縁起に云光明皇后御誕生は当山に厚き御由緒有といへども事繁■れば除くと見えたり
(略……僧房の紹介がされています※ブログ筆者)
鑑堂 本堂西の方護摩堂の傍に在 薬師の東方火円鏡をもて諸人の願により鏡に万象を模し利益を施し給ふ誓願在故薬師尊へ鏡を奉り諸願を祈なり 是当山鏡堂のある由縁なりと縁起に見へたり可敬云鏡堂の正面に見ゆる方形の大鏡は当国宝飯郡豊川村に住せし水野八十郎所持の鏡なりしとぞ 水野氏常に髪剃るには必ず此大鏡を前に居て夫に向ふて座し若あやまちて髪結ふ人粗忽あるときは即座に手討にせしと口碑に存せり三河雀にいふ此人悪人にして下人の為に弑せられしと見へたり銘文にては左に非ず」

 

東海道名所図会』にも、鏡堂のことが掲載されていました。
「東方火円鏡」とか、はっきり言って、何のことかよくわからないので、

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑『密教辞典』を参照してみます。

 

薬師如来
(略)
東方浄土の浄瑠璃(瑠璃光)世界に住して衆生の現世利益を司る仏で、阿弥陀仏西方浄土が来世の世界であるのと対照的な信仰を持つ。釈迦が毘舎離国の会座で、東方遥かな世界の教主薬師如来が修行中に十二の大願を立てて成仏の後、一切衆生を利益することを誓われ、その結果浄瑠璃世界にあって利益を垂れている旨明らかにされた。(略)身心と物質的な苦悩を除く為、その信仰はインドから西域・中国・日本へと盛行した。わが国でも、持統天皇の病気平癒に発願された薬師寺を始め、主要寺院の本尊として造像された。また重病で死相の現われた時でも、昼夜六時に礼拝供養し、49遍この経を読誦し、49燈を点じて四十九天の五色の彩幡を作れば意識を回復するという続命法や、変死の九横死も薬師信仰で逃れるという徹底した現世利益が普及し、奈良・平安を通じて遺作の最も多いのが薬師如来である。また金胎両部の曼荼羅に記載されないため種々の説がある。(1)阿閦如来と同体。東方に関連して阿閦仏と同体というが確かな本拠はない。(以下略)」

 

うーん……とにかく、世間的に人気のあった「薬師如来」で、それがインド〜日本にも伝わったけれども、密教的にはよくわからない、という感じでしょうか。
確かに、普通「五智如来」というときには「薬師如来」は入っていませんからね。
で、同じく『密教辞典』の「五智」の項目を見てみると、

 

「(2)大円鏡智(金剛智、(略)):第八阿頼耶識の転じて生じた円明無垢の智で、万象を映す鏡に喩え、東方阿閦如来菩提心の堅固を金剛と名付ける。」

 

とあります。
密教的な五分類の中に「五智」とか「五大」とかいろいろあるのですが、このうち「五方位」で「東方」に対応する「五仏」は「阿閦如来」、「五智」が「大円鏡智」、「五大」が「火大」、となっているらしいので、「阿閦如来」と「薬師如来」の同体説から「鏡」の信仰が出てきたのではないでしょうか。

 

 

 


いえ、よく知りませんけど。

 

「本堂 当領八百石当山の頂に南面に向ふ 反古探に云古代は坊中当山の麓東南の方引地村と謂処に有し之今猶坊舎礎の跡三十余ヶ所残れり中には坊舎の名号も存すとなん其後今の山上へ引移せし故当村を引地村と称すとぞ
新著聞集(十八ノ三丁)云三州設楽郡煙巖山鳳来寺の開山を利修仙人と申て常に鬼神を衆し仕へるとかや ある時仙人鬼に告げ給はく我往て後汝かくてあらんには人々おそれて此山に詣もおのつからやみなん疾く我に先たちて成仏せよと懇にすすめさせ則手つから鬼の首を切りて葬りたまひしとや さればむかしの伽藍は元和六年に回祿せしを仮堂にて年経たりし慶安二年に武江より御建立ありし惣奉行には太田備中殿副司には江原与右エ門との甲斐庄喜右エ門とのおのおの越たまひて扨伽藍の地形をつきいとなみけるにゆゆしき石の函をほり出したり 按て見ればさしわたし一尺ばかりの髑髏にてありし皆人おどろきあやしみけるにこれなん縁起にしるす処の鬼の首にておはしきとくはしく語りしかは本の如くに埋めおきし(反古探に云慶安年中御造営の砌鬼頭三つ有る内一つは損す二つは無事之新城にも其比見たるもの近き■まて生延て居り其物語を聞くに人間の頭より少大きく其厚き事一寸余り有りしとぞ其後石の櫃に入れて元の如く本堂内陣の下に納むと見えたり
(略……神明祠、弁財天祠、鎮守三社権現、八幡宮 三神社などの紹介※ブログ筆者)」

 

↑「鬼」の数にはいろいろな説があるようです。

 

「開山堂 本堂後の方に在 飛騨匠が作れる所なりと云り 飛騨匠といふは一人の名にはあらず 往昔匠は飛騨の国より出しと見へたり 抑も開山利修仙人は山城国端正郡二葉里高賀茂の老翁高賀介都岐麿の子なり 発め母瑞夢を感じ令人きたりて口に入と見て則孕めり欽明天皇の御宇庚寅歳四月七日午の刻に誕生あり 利修童子と名く 漸く成長の後忽然として当山の一の峯に来れり 夢中に五台山の長釈仙人来り千年の寿を授けける為に其峯を千寿峰と号す其後万寿を授けたる事ありて万寿坂をいふ所も有 人皇五十七代陽成天皇の御宇元慶二戊戌歳三百九才の時勝岳の深窟に入定し当来慈氏の下生を待といへり 深窟に地水ありて■人の至る所にあらず 今に時として振鈴の音あり山人等聞■ありとす云々と縁起に見へたり
(略)
六本椙 同し道の左の方に在元は七本椙なりしを或■天童天降て此の霊木を礼す其文に曰椙木薬師医王薬師仏一歩一見諸群生現世安穏得長寿後生無量寿仏国と利修仙人これを聞て此七本椙に定て是七仏薬師之と欣喜し即其一本を代て尊像を彫刻せり故に今は六本椙といふと縁起に見へたり
(略……高野明神、弘法堂、元三大師堂などの紹介※ブログ筆者)」

 

↑六本杉についても、もうちょっと詳しく書かれていました。

 

東照宮 本堂より東北に在 御神領八百石御別当三台学頭松高院御例祭四月十七日一山の衆徒神前にて例祭を勤む其式厳重なり 当山縁起に云 殊にかけまくも賢き神の垂迹まことに恐れある事なれども東照大神君御誕生の霊顕を尋ね奉るに御慈父贈大納言広忠公若君の無き事を歎かせ給ひ北の御方ともとも当山の薬師へ御参籠御若君御誕生の御祈有りければ一と夜不思議の霊夢を蒙り給ひ北の御方御身もただならずおぼしめされ正しき卜筮の者へ尋ねさせ給ふに宿植徳本の御男子十月あまり二ヶ月にして御誕生あるべし是十二神擁護なりと考へ申上けるとなん誠に卜筮のおもて掌をさすがごとく十二ヶ月にあたり天文十一壬寅年十二月廿六日に御誕生ならせ給ひ其御容貌世のつねならずして人皆敬伏すと されはこそ後に一天四海を掌の内に治め給ひ終に東照宮権現とあらはれ給ひ餘光万世を照し給ふ 御誕生の折しも当山十二神の内寅の神見へたまはず御他界の後寅の神あらはれ給ふとなん 委しくは斯に記すも恐れあれは略しぬ 御誕生の不思議の霊験は日光山御宮の御縁起にも記させ給ふとかや かくて大猷院様御世にいたり当山御宮薬師堂其他諸堂社■御造営残るところなく美を尽し給ひ則数多の僧侶(山門十人東叡山五人当国台宗寺院)を召し集させられ御尊師日光御門主御名代を以神社仏閣安鎮御供養の御規式おこそかに執行はせ給へり誠に本地垂跡の御威力日を積年をかさねて輝き給へり 
かかる不思議の御威力誰人か信ぜざらん何人か仰ぎざらんや猶驚くことは筆に尽くしがたけれはあらあらここに又反古探に曰慶安元戊子年将軍家光公日光山御社参兼而被仰付東照宮御縁起出来於日光山初て上覧御申子の事前に出す阿部豊後守忠秋を召て鳳来寺東照宮御建立被仰出向同年御見分太田備中守杉浦内義助殿畧之御手伝の諸侯当国吉田の城主小笠原壹州侯西尾城主井伊侯遠州横須賀城主本多越前侯なり
(略……赤山明神、毘沙門堂、行者帰、慈悲心鳥、仏法僧鳥、などの紹介※ブログ筆者)」

 

最後は「東照宮」。

神社でいただいたパンフレットの由緒には、

 

「(略)東照(家康公)大権現のお父君(広忠卿)が、子どものないことを嘆いて、お母君(北の方伝通院)とご一緒に鳳来寺峯薬師へ御参籠されご祈願をなされたら、その証があって、それから間もなく北の方伝通院殿が身ごもられ、十二か月過ぎ、文十一壬寅年(一五四二)十二月二十六日にご出産遊ばされたのが東照大権現でした。
これは、「真達羅大将(寅童子)」が生まれ変わってこの世に現れ、武徳を天下に広く知れわたらせて、数百年の兵乱をお鎮めになり、世の中が極めて平和に過ごせる基礎を開かれたのでした。(以下略)」

 

ということで、「十二神将」中「寅」の守護神真達羅大将の生まれ変わりだと考えられていたわけですね、「徳川家康」(なお、「十二神将」と「十二支」の対応関係は、経軌によって異なるそうですので、「本当は「迷企羅大将」じゃないのか!」とか私に怒らないでくださいね)。
「寅」と「徳川家康」……「日光東照宮」に関する何かがあったような気がしたのですが……完全に忘れていますね。

それほど妄想もできなかった(字数は多いですが、ほぼ引用です)今回ですが、最後に、

 

日本の霊山読み解き事典

日本の霊山読み解き事典

 

 

↑こちらから。

 

鳳来寺山
(略)
三河にあり、山頂付近は原生林、中腹に薬師如来を本尊とする鳳来寺がある。山内は巨石が露出し信仰対象となり、鏡岩下には経塚・納骨信仰の遺跡も見つかっている。開山時期は諸説あるが、利修仙人が大宝二年(七〇二)あるいは三年に開山したとするものが多い。仙人が鳳凰に乗って参内したことから、鳳来寺の寺号を勅許されたとする。
鳳来寺は中世以降、天台方と真言方に属する多数の僧房がひしめく一山寺院となる。江戸時代には幕府の庇護を受けて、将軍徳川家光の慶安四年(一六五一)に境内へ東照宮が勧請され、千三百五十石の寺領を抱えた。
秋葉山とともにこの地方で多くの信仰を集めたが、明治の神仏分離鳳来寺東照宮が切り離されたことで鳳来寺は衰微する。明治三十九年(一九〇六)以降は真言宗に統一され、現在に至る。」

 

……巨石信仰があった、ということは、仏教伝来以前から何らかの信仰が行われていた可能性があり、その信仰者の末裔が「利修仙人」に味方した「鬼」なのかもしれません。
初期の山伏というのは、山を開くために、元々の住民の力を借りざるを得なかったと思われます。
そうして接触するうちに、仏教的なものが浸透して古来の信仰を捨てるのか、あるいは近代的な(当時として)文物に触れることで教化されるのか、独自の信仰を貫こうとして「鬼」にされてしまうのか……。
いずれでもあり、いずれでもない、という感じがします。

 

 

 

ああ長かった……デジタル文献は便利なのですが、引用がしんどいです……。
それでは今回はこのあたりで〜。